眠り月

刺身の日と常識人


一年三百六十五日、毎日何かの記念日だ。
8月15日は終戦記念日、ふるさとデー、刺身の日、聖母マリア被昇天祭。
終戦記念日と言う超大物がいるからか、他の日と比べて少なめだが、それでもそれっきりしかないわけじゃない。
……それなのに、なんでその中から、よりにもよって刺身を選んだ。

刺身の日と常識人

「孝太が食い気に弱いからですよ」
刺身の盛られた直径60センチはあろうかという大皿を片手に、ルーゲンタはそう言って膨れてみせた。
お前が拗ねたって可愛くねぇと何度言えば覚えるんだろうかこの変態は。
苛立ちながらも俺は勝ち誇った笑みを浮かべた。
今日は比較的機嫌がいいからな。
何せ、昨日はなんでもないがいい日だった。
「残念だったなルーゲンタ」
「はい?」
「昨日血鬼が来たところだ」
つまり、血鬼にあいつ特製の絶妙な餃子をたらふくご馳走になったということである。
まさに、専売特許の日に相応しい行動だ。
「またあの小鬼ですか…」
ちっ、と舌打ちしたルーゲンタに、俺は薄い笑みを浮かべたまま、
「そういうことだから、刺身なんかじゃ釣られん」
「まあいいでしょう」
何がいいんだ何が。
「この際構いません」
俺の疑問にも構わず、ルーゲンタは刺身の皿を掲げてみせた。
「ともかく、刺身の日だからお刺身を食べようではありませんか!」
「なんでそうなる!!」
「いいじゃないですか。二日続けて餃子だというならともかく違うんですし、お刺身だってお好きでしょう?」
「そりゃ、嫌いじゃないが。……というか俺は、二日続けて餃子の方が嬉しい」
「餃子の話はもう結構です。それ以上されるようでしたら、私が今からちょっと出かけていくことになりますよ? もちろん、あの小鬼を懲らしめにですけど」
「やめろよ」
「では、お刺身を一緒に食べましょうよ」
……しかし、なぁ。
俺はじっと大皿を見つめながら考え込んだ。
このクソ暑い季節に刺身。
しかも、ルーゲンタが用意した、得体の知れない魚の刺身だ。
よしんばそれが俺の知るそれと同じものであって、時折押入れから飛び出しては俺の部屋を横切っていく、スカイブルーの魚の群れなんかが調理された物ではないとしても、どんな仕掛けがされているか知れたもんじゃない。
いつだったかの秋の味覚の例もある。
よって俺は、
「パス」
「何でですか!!」
「己の日頃の悪行の数々を思い出しやがれ、この馬鹿」
「私くらい品行方正な国王っていませんよ?」
「何を言うか」
というか、国王なんて絶対数の少ないカテゴリを使うな卑怯者。
「いいじゃないですかー。本当にただのお刺身ですよ?」
「どうただの刺身だって言うんだ?」
「たとえばこちら、」
とルーゲンタは淡く白味を帯びた、どこかピンクっぽい刺身を指差した。
「最高級、日本海で水揚げされた真鯛の刺身です。皮を氷水でしめたものも用意してありますよ。それからこちら、」
今度は脂の光るような刺身を指し、
「天然物ではなく養殖ですが、天然以上に美味な、有明で育った寒ブリのお刺身です。ご希望でしたら、ブリ大根だってなんだってお出しします」
「……一つ言っていいか」
「はい?」
「鯛って旬は?」
「夏ですね」
「ブリの旬は?」
「冬ですよ?」
それが何か、みたいな顔してんじゃねーよ。
「大分前にも言ったよな。前過ぎて忘れたか? 季節感を無視する奴って嫌いなんだよ、俺は!!」
怒鳴りながらちゃぶ台返しでもしてやりたかったが、生憎自分のベッドの上では何も武器がない。
「もう、季節なんか気にしないでくださいよぉ。とにかく、これはちゃんとこちらの世界のものです。ちょっとばかり時間とかずれてますけど、誤差の範囲です」
「誤差で済ますな!」
「細かいこと気にしてたら禿げますよ?」
「うちは別に禿げる家系じゃねぇ」
「そうなんですか?」
「そうだ」
「…知りませんでした。孝太がそんなに髪の毛のことを気にしてたなんて……」
「誰がそんなことを言った!?」
いかん。
ついまたルーゲンタのペースに飲まれるところだった。
「違ったんですか?」
「違う。つうかもうお前帰れよ。めんどくさい」
「孝太と一緒にお刺身を楽しむまでは帰れません」
「……じゃあ、食ってやる」
それだけで帰れよ。
「本当ですか?」
「ああ、だからお前も……」
「嬉しいですっ!」
と言ったルーゲンタの手が何故か俺のパジャマ兼部屋着である中学の時の体操服にかかった。
おい?
「え? 付き合ってくれるんでしょう?」
「刺身を食うのにな」
「ええ、だから脱いでください」
「なんでそうなる!?」
いいから離せとぎゃあぎゃあ騒ぐまでもなく、緑色の影が俺の目の前を一閃した。
さぼだ。
「っ!」
息を呑んだルーゲンタの鼻先につっと赤い傷が走る。
「ルーゲンタ! 母様をいじめるな!!」
という勇ましい声もした。
見れば、リィが勇ましくも剣を構えて立っていた。
その肩に、さぼが跳ねて戻る。
「助かった…」
ほっとした俺に、ルーゲンタは不満そうな声を上げる。
「なんですっかり私が悪者ポジションなんですか」
「当たり前だろ! いきなり服を引ん剥こうとしておいて悪さをしてないなんぞと言い張るつもりか!?」
「えー? だって、女体盛りはこちらの伝統芸でしょう?」
「違う!」
どこで覚えてきたそんなもん!
「大体、俺は男だ!!」
「今は違いますよ?」
えへらっとした笑いを浮かべるルーゲンタは、そう言って俺のTシャツを掴んでいた手を離した。
重力にしたがって落ちた、Tシャツとしてはやや厚手の生地が、どういうわけか平坦にならずに二つの丘陵を描く。
……いつか来るだろうとは思っていたが、こんなくだらない理由で女にされる日が来るとは…。
目眩なんてもんじゃない頭のぐらつきに危機感を抱く俺の耳に、
「母様が本当に母様になった…!」
と感激したようなリィの声が届く。
「喜ぶんじゃありません」
「ご、ごめんなさい」
ぺこんと頭を下げたリィに少しばかり胸が痛んだが、
「孝太は厳しいですねぇ」
とルーゲンタに言われると怒りにかき消された。
「お前が言うな!!」
「リィが喜んでるんですから、いいじゃないですか」
「よくねぇよ!」
「えー? リィの本当の母様になってくれないんですか?」
「声真似すんな気色悪い!」
と言うかもういっそ死んでくれ、この変態。
「いいからとっとと元に戻せ…っ!」
血反吐を吐きそうな気持ちになりながらもそう言ったのは、ルーゲンタが何かやらかした以上、俺じゃどうしようもないと分かっていたからだ。
そしてそれは、ルーゲンタにも分かったらしい。
にんまりと非常に腹の立つ笑顔を見せ、
「条件があります」
「なんだと…」
お前と取引なんか出来るか。
「女体盛りをしてくださ」
「死ねボケぇえええええ!!」
思わず全力で殴り飛ばした。