内藤鳴雪が語る江戸時代
松山藩士の家に生まれた内藤鳴雪(1847−1926)は正岡子規の俳句の弟子であったが、大政奉還直前の慶応3年(1867)9月に生まれた子規よりも20歳もの年長であるから、江戸時代という封建の世を身をもって知っていた。鳴雪の自叙伝にはかれが実際に体験した江戸時代のことが種々書き記されていて、当時を知るための貴重な証言となっている。今そのなかから松山藩の諸事情や武士の生活に関することがらを箇条書きにして、示しておくことにしよう(岩波文庫本『鳴雪自叙伝』によって該当頁数を示す)。
○男子は8歳以上になれば、主君にお目見えをする。そうしておかないと、主君が没した場合、家禄が減ぜられる定まりであった。お目見えをすました子を「お目見え子」といった(23頁)。
○江戸の藩邸で、藩主が死去した場合、柩は通用門から出す。表門から出すことは幕府から賜った屋敷ゆえ憚る。士以下の遺骸は無常門というところから出す(24頁)。
○徳川家の菩提寺である寛永寺・増上寺へ将軍が参詣する御成(おなり)の日には、沿道の大名屋敷は外に向かった窓に銅の戸をおろし、屋敷内の者は外出を禁じられていた。幕府が外出を禁止していたわけではなく、各藩主が禁止していた(33頁)。
○江戸の松山藩邸の勤番者(単身国許から一年交代で江戸の藩邸に勤務する者)は月に4回だけ邸外へ出ることを許された。その日には目付役より鑑札をもらって外出し、帰るとそれを返付した。定府の者(家族とともに長期間、江戸の藩邸に勤務する者)の外出は自由であった(37頁)。
○藩の公務の旅でも、その費用は自弁であった。藩士は家禄の全部を使っても家族を養うのがやっとであったので、公務の旅をする場合は家禄の前借りをした。また別に侍中の共有の貯蓄があって、それをもらいうけることにもなっていた(55頁)
○大名が金を借りる時には必ず大阪の豪商(松山藩の場合は住友)に借りた。その交渉は必ず藩の留守居役が豪商の番頭を相手におこなった。留守居役は平素から番頭に贈り物をしたり、酒楼につれて行ったりしてその機嫌を取るのに汲々としていた(67頁)
○藩所有の船は大阪へ米を積み出すためのもの、藩士の往来に使うものなど多数あった。藩主・重臣専用の関船(せきぶね)というのもあった。関船は中に座敷めいたものがあって、両側に勾欄があり、多数の船頭が立って櫓を操る。藩主が乗船する時は幟、吹流しを立て、船の出入りには太鼓を打った(68頁)。
○松山藩の藩校、明教館には表講釈の日というのがあり、月に2回は必ず聴聞しなければならなかった。無断欠席の場合はただちに処罰された(74頁)。
○大名は京都御所へたちよることはできず、まれに将軍の代理として上洛することがあるだけである。藩主が朝廷から官位を授与された時などには朝廷に献上をするが、古例を守り作法をととのえなければ、公家から談判をされるので、諸藩はとかく京都に対しては敬遠主義をとっていた(88頁)
○松山藩は京都の公家、徳大寺家を通じて朝廷への用を弁じていた。藩は徳大寺家の家令に贈り物をして、その機嫌を取っていた(90頁)。
○武士が他家を訪問した際、腰に帯びる大小の刀のうちの大の方は座敷の次の間まで持ち込んでそこに置く。座敷で先方に挨拶する時でも小の方は帯びている。よほどくつろいで話でもする時でなければ、小刀は腰から離さない(118頁)。
○士族の生活は質素で、邸内の畑でとれた野菜や漬けてある沢庵を食した。魚は月に3日(朔日・15日・28日)のみ膳に上った。醤油なども手作りであった(119頁)
○衣服に関しては、男女ともに絹布は禁止で、木綿を着用する。簪に金銀を用いるのも禁止で、真鍮のものを用いさせた(119頁)
○松山は米のよくできるところであったから、藩は四公六民ではなく、十分の六以上、ほとんど七分くらい年貢米を徴収していた(121頁)。
○松山藩では士族の私闘に対する処罰が他藩より厳しく、一人が抜刀した時に少しでも傷を負わせるようなことがあれば、双方ともに割腹しなければならないことになっていた(123頁)。
○私用の旅行は厳禁であった。近くの大洲領内へさえ行くことはできなかった。ただし、神仏の参詣の場合は願えば許されることがあった。父母の看護を要する場合、その父母が居住する地へ行くことはできた(127頁)。
○家老は藩士をすべて呼び捨てにする。藩士は何々様といって主君に次いだ敬礼をする。道で出会っても、下駄を脱いではだしで地面に立たなければならないのだが、下駄のまま鼻緒の上に足をのせて形ばかり脱いだ式をした(174頁)。
○主君を前にする時は、互いに名を呼び捨てにする。家老であろうが親であろうがすべて呼び捨てである。言葉遣いも「どうしませい、こうしませい」といって決して敬語を用いない(174頁)。
上記はいずれも江戸時代を実際に体験していた鳴雪ならではものといえるであろう。内藤鳴雪、本名ははじめ師克、のちに永貞、さらにこれを素行(もとゆき)と改める。鳴雪という号の由来については「なにごとも成行きに任すということの当て字」(256頁)であると自身が語っている。いうまでもなく、「成行き」→「なり(鳴り)・ゆき(雪)」→「鳴雪(めいせつ)」である。(09年3月8日記)
[追記] 桜の開花を告げる季節となったが、松山の桜について、鳴雪が意外なことを述べているので、追記しておく。「藩地の城下の地面は砂地で、植物に不適当であって、殊に桜の如きは育ちにくいので、城下町では一本の桜も珍重する。花見といえば、城下を十町ほど離れた所に江戸山というのがあって、そこに五、六本の桜があるのを大騒ぎで見に行くのである」(81頁)。松山の桜は当時、この程度でしかなかったのだろうか。
東雲(しののめ)のほがらほがらと初桜
鳴雪の桜の句である。俳句に注釈をつけるのはまことに無粋だが、「ほがらほがら」は「晴れ晴れと明るいさま。空などがいかにも気持ちよく明けてゆくさま」。松山市丸之内、東雲神社参道にその句碑がある。
(09年3月17日記)- 【参考文献】
- 内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月