歴史用語さまざま
前項の「黒船、三津に来る」で「幕府からは上陸させないように…」と書いたところがあったが、そのもとになっている米山日記の原文は「尤も公儀よりは上陸も…」である。江戸時代の人は幕府を主に「公儀」と呼んでいた。天皇のことも「主上」「禁裏(裡)」(退位後は「院」)などと称していた。幕府や天皇という語は当時の人々にとっては馴染みのない呼称だったのである(「天皇」号が一般化する経緯については、藤田覚著『幕末の天皇』を参照していただきたい)。
井伊直弼が殺害された桜田門外の変(1860)は当時、「桜田門の一件」と呼ばれていた。大政奉還(1867)も当時は「政権返上」だったそうである。
鎌倉幕府は自身のことを「関東」と称していた。承久の乱(1221)以降、京都の朝廷は鎌倉幕府を「関東」と呼んだ(それまでは「武家」または「関東」)。東国の独立性を強調する網野善彦氏(日本中世史)は「関東」は準国号であったとまでいっている。「鎌倉幕府」という言葉が「用語」として定着するのは、明治20年(1887)ごろからだったそうである。
(09年3月6日記)- 【参考文献】
- 網野善彦・森浩二『馬・船・常民 東西交流の日本列島史』河合出版 1992年5月
- 藤田覚『幕末の天皇』講談社選書メチエ 1994年9月
- 渡辺浩『東アジアの王権と思想』東京大学出版会 1997年10月
- 五味文彦編『日本の時代史8 京・鎌倉の王権』吉川弘文館 2003年1月
- 大石学『新選組 最後の武士の実像』中公新書 2004年11月
- 河合敦『教科書から消えた日本史』光文社 2008年6月