「三津から東は……」
「三津から東は極楽のようなものでありました」―明治の終わりころ、四国遍路の旅をした周防大島(山口県の屋代島)のある女性の昔語りとして、宮本常一(民俗学者)の『忘れられた日本人』に書きとどめられている一節である。当時、周防大島の若い女性は四国遍路や出雲参拝の旅をよく行っていたと同書は記す。以下、その記述にしたがって書きすすめると、「三津から東は…」と語ったこの女性は、19歳の時に女友達3人ほどで、周防大島から船で三津浜に渡り、太山寺を参拝して、南路、宇和島の方へ向かった。宇和島の山の方は貧しい暮らしをしている人が多かったが、それでもみな親切で宿に困るというようなことはなかったという。土佐の国へは行かなかった。「土佐は鬼の国ちうて、おそろしいところだときいていた」からだという。「女四国」という言葉があって、当時の女性遍路は、土佐をのぞいた三国の参拝にとどめることがあったらしい。この女性は土佐との国ざかいまで行っておりかえし、三津までもどって、東にむかう旅をつづけ、讃岐・阿波を回った。その旅をふりかえった感想が、「三津から東は極楽のようなもの…」という言葉だったのである。善根宿があったので宿に困ることはなく、お接待が出たので食べるものも十分にあったという。当時は豊後(大分県)や周防(山口県)など、四国以外のところからわざわざお接待をしに四国へ来る人が多数いたらしい。「豊後の国どこそこの者であります。お接待じゃけえうけてくだされ」等といって、遍路にこころざしの品をささげる人がたくさんいた、とこの女性は当時を語る。宇和島には豊後の方から、三津浜には周防の方からお接待をしに来る人が多かったらしい。この女性の場合、家を出た時には2円だった所持金が布施にあずかるなどして帰る時には5円に増えていたという。
宮本常一(周防大島の出身である)の『忘れられた日本人』(初刊は1960年2月)には、こうした忘れ去られた過去の暮らしの事実が数多く記されており、読んでいて興味が尽きない。忘れ去られたといえば、もうひとつ、明治初期、新政府が文明開化政策をおしすすめていたころ、「旧習」を否定するあまり、地域に根づいた習俗を禁止する布告が次々と出されたことがあった。京都府は盆行事を禁止し、愛知県は初午(はつうま)、盆踊り、灯籠祭り等々を禁止した。そして、愛媛県は四国遍路を見当たり次第速やかに呵責・放逐せよ、という命令を出した。まことに驚くべきことであるが、これもまた忘れ去られた過去のひとつである。
(09年3月3日記)- 【参考文献】
- 宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫 1984年5月
- 牧原憲夫『全集日本の歴史13 文明国をめざして』小学館 2008年12月