伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記

当サイトは、伊予の住人、よもだ堂が歴史と文化をテーマに書き綴った日誌を掲載するものです。


子規なじみの料亭―三津の「溌々園」

正岡子規(1867−1902)の随筆集『筆まかせ』の第一編「明治二十二年」の部には、「帰郷中目撃事件」という項目があり、「本年夏期帰省して一昨年と変りたるものの著しきものをあぐれば左のごとし」とあって、「一、三津港に高き烟突の多くできしこと」以下、27箇条が列挙されている。その中に「一、新浜に池洲(いけす)ができしこと」という1条があるが、柳原極堂(1867−1957)の著『友人子規』によると、これは三津に「溌々園」(はつはつえん)という名の料亭ができたことをいったものであるらしい。同書はこの1条に注を施して、「今の三津遊廓稲荷新地の北裏堀川畔にあって溌々園とも称せられし料亭のことにて、子規は此処に数回遊びしことあり」と記している。

三津の溌々園については、本年3月3日付の愛媛新聞に、その写真が確認されたとの記事が掲載された。それによると、溌々園とみられる写真付きはがきが県歴史文化博物館(西予市宇和町)に所蔵されていたことが郷土史家らの調査でわかったとのことである。同記事の一部を下に引用しておこう。

同園は1889(明治22)年、現在の松山市住吉2丁目の三津浜内港付近で開業。海水を敷地に引き込み、タイなど料理用の生魚を飼っていたため〈いけす〉の愛称で呼ばれた。明治末期には廃業したとされ、写真などは確認されておらず、研究者の間では〈まぼろしの溌々園〉とも言われていた。松山市立子規記念博物館によると、子規は東京の学生だった二十歳ごろから二十代後半まで、帰省のたびに来訪。酒宴や句会を開き、その様子を文章や句に残している。

講談社刊『子規全集』第22巻所収の「年譜」によると、子規はこの溌々園を9回訪れている。「年譜」では依拠となった資料にもとづいて、「三津のいけす」とも「新浜のいけす」とも記しているが、いずれも三津の溌々園を指すものである。「年譜」から該当する事項を抜粋すると、下記のごとくである。

明治22年9月9日(月) 武市庫太と三津浜の溌々園で中秋の名月を見る。

明治23年1月5日(日) 午後、太田正躬・柳原極堂・藤野古白・秋山真之とともに三津のいけす(溌々園)で新年会を開く。

明治23年1月23日(木) 故郷を発ち上京の途につく。松山駅より見送りの友人たちと共に列車に乗り込み、三津で下車、予定の船(平穏丸)が着港していないので新浜のいけすへ行き塩湯に入り晩餐をとる。

明治23年7月24日(木) 三津浜で藤野古白・相原栄三郎と泳ぐ。竹村鍛・河東可全も来ており、帰途、ともに溌々園で憩う。

明治23年7月(日にち不明) 紅葉会(第六回)を三津のいけす(溌々園)で開き、六名が参加する。

明治24年8月23日(日) 午後一時、三番町写真館にて河東静渓を囲み千舟学舎同窓諸生の記念撮影。集まる者、静渓、子規、西原義任、清水政則、五島武雄、柳原正之、太田正躬、安長知之。その後、汽車で三津に行き溌々園で会食。

明治25年7月19日(火) 碧梧桐と虚子、子規宅を訪問。両者の連俳を批評する。伊藤可南を加えた四人で三津のいけすに行き競吟を行う。

明治25年8月5日(金) 雨。三津のいけすで競吟句会。

明治25年8月16日(金) 三津の溌々園において競吟句会。

河東碧梧桐(1873−1937)の著『子規を語る』(岩波文庫)の中に「三津のイケス」と題する一章があり、明治25年8月5日の溌々園での競吟句会の模様が出席者の会話を再現する形で記されている。その中に子規の発言として、「イケスも立派になったな、(中略)加藤の叔父(加藤拓川)に二、三度連れられて来たきりじゃけれ」とあるのがどうも腑に落ちないのだが、碧梧桐の記憶違いなのかもしれない。

秋山真之(1868−1918)らとともに溌々園に集った明治23年1月5日の新年会は、子規にとってとりわけ思い出深いものであったらしく、『筆まかせ』の一章にはこの時のことを「此日の会は近頃愉快を余に与へたる者なり。(中略)之を千載一遇といはんよりは、寧ろ無窮の時間内に一たび起りし空前絶後の会なりかし」と書き記している。その同じ章に記されていることだが、秋山真之はこの時、酒に酔ってくだを巻きはじめ、柳原正之(極堂)に対し「お前は才子だ」と5回も繰り返していい、太田正躬には「妻をとるとも大阪の女は取ってくれるな、それよりは松山の女をとれえよ」と忠告し、子規に向かっては「お前、学校を卒業しても教師にはなるなよ。教師程つまらぬものはないぞい。しかしこうやってお前が生きておるのは不思議だ」などといったという。

子規が没したのはこの宴会があった年からわずか12年後、明治という時代をこえることはできなかった。子規なじみの料亭、溌々園も同様に明治をこえることなく、三津の地から姿を消した。

(09年3月22日記)
【参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』第10巻 講談社 1975年5月
『子規全集』第22巻 講談社 1978年10月
河東碧梧桐『子規を語る』岩波文庫 2002年6月