米山筆「年豊人楽」
三津の厳島神社(神田町)の入り口左右には、「年豊人楽(年豊かにして人楽しむ)」の字を刻した大きな注連石(しめいし)がたっている。三津の人々にとっては周知のことがらであるが、この字は三輪田米山(みわだべいざん)の筆になるもので、古くから名碑の誉れが高い。注連石の裏側には同じく米山の筆で「大日本帝国」「明治十八年十二月」と刻されている。明治18年は西暦1885年、米山は文政4年(1821)の生まれであるから、この注連石の文字は65歳(数え年)の時の筆であることがわかる。なお、米山の没年は明治41年(1908)、88歳の長寿であった。
米山は久米郡日尾八幡神社(松山市鷹子町)の神官であったが、その書家としての名声は存命中から伊予一円に高く、近年は全国的にも認知されるようになって、その評価は弥増すばかりである。松山の地には米山の筆になる注連石・神名石が数多く残されているが、なかでもこの厳島神社のものは一、二といわれるほどの優品で、風格美の漂うその雄渾な筆致は見るものの心をとらえる。これを刻したのは三津在住の石工、吉村右三郎である(注連石の側面に「三津石工吉村右三郎作之」の刻がある)。線の底まで丸みを出すようにしてじつに丁寧に磨かれており、当時の三津浜職人の技術の高さがしのばれる。
松山市中島の忽那八幡宮には、米山75歳の時の筆になる「年豊民楽」の字を刻した注連石がある。「年豊人楽」「年豊民楽」は同意で、「稔り豊かで人々みな楽しむ」という意味である(この場合の「年」は「その年の稔り」の意)。豊作を予祝する意味合いをこめてこの語を選んだものと思われる。
書家、米山はまた丹念な日記をつけていたことでも知られる。その日記は弘化5年(1848)から明治34年(1901)までの54年間にわたって、書き続けられたもので、総量300冊にも及ぶ膨大なものである。日々の天候も書き添えられていて、この間の松山地方の天気を詳しく知ることができる(例えば正岡子規の生まれた慶応3年9月17日の天気は「曇天。七つ後誠にいささか雨これあり。黄昏いささか雨。夜雨止みて曇る」というように)。なお、この米山の日記の中には、「黒船、三津に来る」の注目すべき記事があるが、それについては、項目を改めて書くことにしよう。
(09年3月5日記)- 【参考文献】
- 松山市史料集編集委員会『松山市史料集』第8巻 1984年4月
- 米山顕彰会監修『米山の魅惑』清流出版 2008年12月