伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記

当サイトは、伊予の住人、よもだ堂が歴史と文化をテーマに書き綴った日誌を掲載するものです。


歌とともにある生活

 仕事のなかに歌があり、生活のなかに歌がある。かつてそういう時代があった。地搗きや材木の巻き揚げや重量物の運搬といった集団労働は歌とともにあった。人々は歌をうたって作業のリズムをつくり、歌をうたって労働に嬉戯の要素を加えようとした。農村の生活も漁村の生活もともに歌を欠かすことはできなかった。中国地方の農村で行われていた田植え歌行事の例を示してみよう。大田垣と呼ばれるその行事では、音頭とりの役割をするサゲ師と、苗を植える早乙女たちとがいて、サゲ師が音頭をとると、早乙女たちがうたいながら、苗を植えてゆく。サゲ師のまわりには太鼓を打つ者がいてリズムをとる。6月の陽光がふりそそぐ下で、サゲ師が声をはりあげてうたえば、早乙女たちは声をそろえてついてうたう。そんなのどかな田植えの光景が戦後のある時期までみられたという。

山村の生活では歌をうたって互いの存在を知らせ、身を守るすべともしていた。対馬(つしま)のある山村の古老は山道を歩く時にはよく歌をうたったものだと、宮本常一(民俗学者)に語っている。「歌をうたっておれば、同じ山の中にいる者ならその声をきく。同じ村の者なら、あれは誰だとわかる。相手も歌をうたう。歌の文句がわかるほどのところなら、おおいと声をかけておく。それだけで、相手がどの方向へ何をしに行きつつあるかぐらいはわかる。行方不明になるようなことがあっても誰かが歌声さえきいておれば、どの山中でどうなったかは想像のつくものだ」。宮本常一は古老のこの言葉を聞いて、山村で民謡が必要とされた意味を知ることができたという(『忘れられた日本人』)。

漁村の生活でも歌は重要な役割を果たしていた。宮城県のある漁村の例でいうと、出港時には櫓をこぎながら「大漁唄い込み」の「前唄」がうたわれ、帰港時にはその「後唄(本唄)」がうたわれた。「後唄」の方は漁獲高に応じて、「三アゲ」「五アゲ」「七アゲ」というように歌の数が決まっており、陸(おか)でまつ人たちはどの船が大漁なのかが判断できた。大漁をつげる歌声を耳にすると、陸の人々は祭りのような騒ぎをしたという。そればかりではない、浦祭りやエビス講、小正月など、年間を通して行われるさまざまな行事においても歌がうたわれ、漁業に生きる人々の生活を心豊かなものにしていた。

現代のように消費される歌ではない全く違った歌のありようが、こうした形でかつての時代にはあった。宮本常一は過ぎ去りし時代の生活について次のような指摘をしている。「仕事に追いまくられながらも昔の人たちはどことなく、のどかであり、かつ明るさがあったと思います。けっして昔の生活がいまよりゆたかであったいうのではありませんが、どこかのどかなものがありました。それは何故だったのでしょうか。それにはその生活のなかに二つの重要な生活を明るくする要素を持っていました。一つは時間にとらわれないこと、いま一つは労作業のなかに歌を持っていたことだと思うのです」(『女の民俗誌』)。歌によってどこか明るいものを持っていたかつての時代の生活様式、それをとりもどすことはもはやできないが、そうした時代の人々のありようや生き方を知るということだけは、現代のわれわれにもできる。そうしたことを知るという、ただそのことだけによっても、明るさの回復へとつながってゆく、なにかしらの変化が、われわれの意識のどこかに生じてくるのではないだろうか。

(09年3月11日記)
【参考文献】
宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫 1984年5月
宮本常一『日本の村・海をひらいた人々』ちくま文庫 1995年5月
宮本常一『女の民俗誌』岩波現代文庫 2001年9月
渡辺京二『逝きし世の面影』葦書房 1998年9月
川島秀一『ものと人間の文化史109 漁撈伝承』法政大学出版局 2003年1月