伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記

当サイトは、伊予の住人、よもだ堂が歴史と文化をテーマに書き綴った日誌を掲載するものです。


黙認する江戸時代の役人

十両盗めば死罪というのが江戸時代の定法(じょうほう)であった。だが、実際には十両盗んでもほとんど死罪にはならなかった。江戸時代、盗難の被害届は十両以上であっても、九両三分二朱などと書かれることが多く、役人もそれを黙認したためである。

当時の役人はなにかにつけて黙認することが多かった。松山藩士であった内藤鳴雪(1847−1926)は、江戸時代の関所の役人について次のような証言をのこしている。

「町人百姓がなにか事故があって手形をもらわなかった時は、関所の前の宿で偽造の手形を高価で売っているのを買って、それで通ることもできた。このことは黙許になっていた。その偽手形も買わぬ者は関所を通らずして抜道を通った。なんでも手形をもたぬ町人百姓が関所に来ると、役人は『これからどちらへ行ってどう曲がると抜道があるが、それを通ることはあいならぬぞ』といって、暗に抜道を教えたということである」(『鳴雪自叙伝』岩波文庫60頁)。

このあきれかえるような話を結んで、鳴雪は「旧幕時代は諸事むつかしい法度があるとともに、またその運用に極めて寛大なところもあったのである」と述べている。江戸時代、役人の法運用が極めて柔軟で、人々の現実生活にうまく対応できるようになっていたのは、たしかに鳴雪が指摘するとおりであろう。だが、その同じ鳴雪が証言していることだが、捕縛した犯罪者を手数がかかるからという理由で牢内で毒殺してしまうことも当時はあったということである(同12頁)。江戸時代の役人の柔軟さはこうしたいまわしき面にも発揮されていたのである。

(09年3月4日記)
【参考文献】
渡辺京二『逝きし世の面影』葦書房 1998年9月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月