「黒船、三津に来る」
文久元年(1861)7月23日、黒船が三津浜沖に出現した。久米の神官、三輪田米山(1821−1908)はこの日の日記に「黒船、三津へ来る。暁出帆、三津、夜を寝る人、一人もなし」
と記している。三津の町は緊張した。翌24日、米山は久米までやって来た三津の魚売りから情報を得ることができた。それによると、三津の町には役人が出動していて、浜辺には多数の高張り提灯、弓張り提灯が持ち出されているとのこと、黒船に乗っている異国人の数も800人とも300人ともいわれているとのことであった。その翌日、米山は事の実否をたしかめるため、弁当をもって三津まで出かけることにした。三津の番所の北の方の浜で弁当を食べながら、近くの店の主人に聞いたところ、黒船は松前方面からやって来たもので、大きさは25、6間ほど、見物あいならぬとのお触れが出たため見物人はみな退散した、すでに出帆したので詳しいことは知らないという。ところが、黒船出現直後、いち早く小舟に乗って黒船に接近した者がいる。この店の主人の向かいの酒屋の者がそれで、米山はその者からの情報も得ることができた。それによると、日本人の水先案内人が乗り込んでおり、三津浜付近の海の深さを測量していたとのことである。こうした情報を得ながらもまだ満足がいかなかったのか、米山は船元締兼帯船奉行の吉田助左衛門宅を訪ねて、詳細をさらに聞こうとした。煎餅(代1匁)を持参して吉田助左衛門宅を訪れる。吉田は米山にこう語った。船はイギリスの商船で、興居島(ごごしま)の西を通る予定であったが、潮流がわるく、三津にたちよることとなった。城下より目付、歩士目付ほか、もろもろの役人が来て商船であることを確認した。幕府からは上陸させないように、また鉄砲など打ちかけてきた場合は応戦するようにとの通達があったが、そのような問題も起こさず、無事、出帆した。米山は吉田からこれらのことを聞いて、ようやく得心がいったのか、帰途についた。帰宅した時にはすでに五つ(午後8時頃)を過ぎていた。
上記のことはすべて、米山日記、文久元年7月23日、24日、25日の各条に克明に記されている。米山は「好奇心・探究心が強く、変事を聞けば直ちに行ってみるという性格」(『松山市史料集』第8巻「三輪田米山日記」解題)で、「書」だけではなく、人間的にも魅力に富む人物であった。なお、この黒船に騒いだ3日間の松山地方の天候はいずれの日も晴天。そのよりどころはもちろん米山日記である。
(09年3月5日記)- 【参考文献】
- 松山市史料集編集委員会『松山市史料集』第8巻 1984年4月
- 松山市史編集委員会『松山市史』第2巻 1993年4月