伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記

当サイトは、伊予の住人、よもだ堂が歴史と文化をテーマに書き綴った日誌を掲載するものです。


三津浜今昔

愛媛県松山市の西端、瀬戸内の穏やかな海に面して、過ぎ去りし時代の面影を伝える三津浜の歴史ある町並みがひろがっている。三津浜は港とともにその歴史をつみかさねてきた町である。近世の当初には、沿岸に漁家が散在する程度の郷村であったが、慶長8年(1603)10月、加藤嘉明(1563−1631)が伊予郡松前から新城下町の松山に移った時、三津浜の港湾を改修し、松前の水軍根拠地を移して船奉行を置き、御船場をつくった。同時に松前の商人たちを多数移住させて、港町をつくり、商取引の発展をはかった。 松平定行(1587−1668)が桑名から松山に転封入国した寛永12年(1635)には、町奉行が置かれ三津町と称されるようになった。後背地にあった農村地域はこのころ分離して古三津村と呼ばれるようになった。参勤交代制の実施とともに三津町は藩主御用船の根拠地となり、城下町松山の外港として急速に発展して行った。

元禄8年(1695)2月、洲崎(先)の鼻に、長さ70間水上の高さ5尺の石積防波堤が完成した(のちにこれを古波止という)。港では藩の物資の積出・移入が盛んに行われ、三津町は繁栄した。現在につづく魚市場も早くから開設され、瀬戸内屈指の魚介類の集散地となった。下松屋・怒和屋・三津屋・唐津屋・辻屋・綿屋・船屋・利屋などの生魚問屋が出現し、豪商となるものもあった。草創期の魚市場の形態については明らかではないが、幕末の魚市場では町の北の砂浜に毎朝、扱い人が円形に立ち並んで市を開催するという形がとられた。市は必ず午前中に終了することとなっていた。松山藩は三津から5里以内の魚市を禁止して、三津の魚市場を保護した。 天保年間(1830−1844)、三津海岸の埋め立て工事が実施され(三穂町・栄町となる)、つづいて南北60間、東西85間の鉤形の防波堤が築造された。港町としての重要性はますます高まり、港に近い町筋では、問屋・土蔵が軒をつらねて「松山百町、三津浜五十町」といわれるようになった。

当時の三津浜の豪商の一つに松田家(唐津屋)がある。その10代当主信順(のぶまさ 1785−1842)は、縁戚であった松山の俳人、栗田樗堂(1749−1814)の顕彰につとめただけでなく、豊かな財力を用いて、菅茶山(1748−1827)、田能村竹田(1777−1835)、北条霞亭(1780−1823)、頼山陽(1780−1832)、篠崎小竹(1781−1851)、広瀬淡窓(1782−1856)・旭窓(1807―1863)兄弟など、各地の文人たちと交流してその詩文を求め、200有余の著名文人の作品からなる『九霞楼詩文集』を編んだ。「九霞楼」とは南洲崎町(南洲先町。明治維新後の須先町)にあった松田家の別邸の称である。松田信順は心を風雅の世界に遊ばせた三津浜商人のおおどかな気風を伝える典型的な人物であった。

三津の海岸に海防警備のための台場(砲台)が設置されるなどした幕末を経て、時代はやがて明治を迎える。近代化の波がおしよせるなか、三津浜は港町としての発展をつづけ、瀬戸内海航路の貨客船が毎日のように出入港するようになった。魚市場も会社組織となり、明治21年(1888)には、直径18間(32メートル余)の円屋根をもつ石畳の広大な魚市場が完成した。明治27年(1894)8月、三津浜の地をおとずれた国木田独歩(1871−1908)は小説『忘れえぬ人々』(同31年4月発表)でこの魚市場のありさまを次のように描写している。

その次は四国の三津ケ浜に一泊して汽船便を待った時のことであった。夏の初めと記憶しているが僕は朝早く旅宿を出て汽船の来るのは午後と聞いたのでこの港の浜や町を散歩した。奥に松山を控えているだけこの港の繁盛は格別で、わけても朝は魚市が立つので魚市場の近傍の雑沓は非常なものであった。大空は名残なく晴れて朝日麗らかに輝き、光る物には反射を与え、色あるものには光を添えて雑沓の光景をさらににぎにぎしくしていた。叫ぶもの呼ぶもの、笑声嬉々としてここに起これば、歓呼怒罵乱れてかしこに湧くという有様で、売るもの買うもの、老若男女、いずれも忙しそうに面白そうに嬉しそうに、駈けたり追ったりしている。露店が並んで立食いの客を待っている。売っている品は言わずもがなで、喰ってる人は大概船頭船方の類にきまっている。鯛や比良目や海鰻や章魚がそこらに投げ出してある。醒い臭が人々の立ち騒ぐ袖や裾に煽られて鼻を打つ。

魚市場周辺の喧噪がじつに印象深く語られている。小説ではこのあと姿をみせる琵琶僧が「忘れえぬ人々」の一人となるわけだが、それはおくとして、三津浜が近代化に向かって邁進していたこの時期こそが港町としての最盛期であったといってよい。

明治22年(1889)、町村制の実施にともない、梅田町、通町、桂町、久宝町、心斎町、広町、柳町、住吉町、新町、桜町、藤井町、三穂町、須先町、栄町などを主な町筋として、人口5800人余の三津浜町が誕生したが、同39年(1906)、北方約2キロの地点にある新浜村に高浜港が開港し、主要航路の貨客船が同港の寄港となって、これがやがておとずれる三津浜衰退のはじまりとなる。とはいえ、長年にわたってつちかわれてきた地元経済力はこの時期なお健在であり、町の人口もさらに増えつづけた。大正14年(1925)には、近隣の古三津村を合併し、昭和初年の統計では、16500人余の人口を数えるに至った。将来的には「三津市」を建設することが当時の住民たちの悲願であったという。

三津浜町役場が昭和4年(1929)8月に発行した『三津の面影』には、「三津浜町商工案内」として、当時、町内にあった銀行、会社(株式会社・合名会社・合資会社)、商工業者の名称が掲載されており、昭和初期の三津浜の状況を窺い知ることができる。同書によると、当時の三津浜町には銀行が5店舗あり、藤井町に三津浜銀行の本店、今治商業銀行の支店、仲田銀行の支店、三穂町に五十二銀行の支店、須先町に芸備銀行の支店があった。これらの銀行があった藤井・三穂・須先の3町は互いに隣接しており、三津浜の北部、内港近辺に位置している。3行の本・支店があった藤井町は現在の三津2丁目の東端にあたる区域である。当時は銀行通りと呼ばれていたともいい、古くから海運業者と卸商人によって賑わっていたという。同町にあった今治商業銀行三津浜支店の建物はほぼ昔のつくりのままで船具店となって残っている。五十二銀行の支店があった三穂町は現在の三津1丁目、2丁目で、三津浜全盛時代には中軸となって栄えた町であったという。芸備銀行の支店があった須先町は三穂町の東側に位置し、現在では三津1丁目に属している。 当時の三津浜の銀行は多くの土蔵を所有しており、各行とも仲仕と呼ばれる専属の職員が5、6人いて、大八車で担保を取りに行ったり、返しに行ったりしていたという。その担保というのも土地柄を反映して、米や海産物が多かったらしい。銀行所有の土蔵にそれらの担保を一時保管していたわけで、当時の銀行は倉庫業も兼ねていたことになる。「三津浜の町を歩いていると土蔵の多いのには驚かされたが、大部分が銀行の所有であるということにも驚かされた」―昭和53年(1978年)に刊行された佐々木忍著『松山有情』にはこう書かれてあった。その土蔵も今ではほんとうに少なくなった。

前記『三津の面影』には、三津浜町内の会社として、19社の名称(株式会社6社、合名会社3社、合資会社10社)が掲載されている。そのなかの一つ、石崎汽船株式会社(大正7年創立)は今も健在で、大正14年(1925)1月に完成したその本社ビルはほぼ当時の姿のままで三津1丁目に残っており、国の登録有形文化財に指定されている。設計者は旧藩主久松家の別邸萬翠荘や愛媛県庁本館を設計したことで知られる木子七郎(きごしちろう 1884−1955)である。 三津浜町内19社のうち、肥料の製造や販売にかかわるものが4社、絣の製造・販売にかかわるものが3社あることが特色といえるであろう。劇場経営の株式会社永楽座(柳町・明治45年創立)があることも目を引く。梅田町にあった三津浜煉瓦株式会社(大正2年創立)もその赤土の山と大きな窯で三津の人々の記憶にながく残っていたようである。19社の所在地をみると、三穂町3、藤井町・須先町・栄町の3町に各2があり、三津浜北端のごく狭い区域に半数近くの9社が集在していたことが知られる。まだ言及していなかったが、栄町は三穂町の西側に位置し、三津浜では最も新しい町であるという。現在では三津1丁目、2丁目に属している。

『三津の面影』には商工人名録として、428の営業主名、屋号、営業種目などが掲載されている。わたしの曾祖父の名もそのなかに見出されるが、今試みにその営業主数を各町別に仕分けしてみると、下記のようになる。 栄町62 三穂町37 須先町25 藤井町34 住吉町43 桜町10 新町23 柳町20 広町13 心斎町5 桂町30 久宝町34 梅田町5 新立32 苅谷13 古三津24 新浜18 営業種目についていえば、最も多いのが米穀(雑穀・穀物も含む)の32で、生魚・生魚問屋の31がこれにつづく。蒲鉾15、海産物8、回漕業6、船具6等々といったところは三津浜の特色をよく示すものといえるであろう。蒲鉾15のうち5、海産物8のうち5、回漕業6のうち4は栄町が占めている。船具6があるのは三穂・須先・藤井の3町内である。営業主名から明らかに女性と判断されるものは、428のうち55で、比率にすると約13パーセントとなる。この数値を高いとみるかどうかは問題だが、昭和初年という時代背景を考えれば、女性の占める割合は高かったといえるのではなかろうか。営業主が男性であっても実際には女性がきりもりしていたというようなケースも多々あったことであろう(生魚関係などとくに)。海にかかわる品々で特徴づけられる三津浜はまた、経営にたずさわる女性が多数いたことによっても特徴づけられる町であったと思われるのである。

昭和15年(1940)、三津浜町は松山市に合併編入された。同20年(1945)7月26日の松山大空襲で、市内中心部の大半が焼失した。三津浜は戦災を免れたため、昭和20年代には松山からの買い物客で三津の住吉商店街がたいそう賑わったと聞くが、その時分わたしはまだ生まれていない。わたしの記憶にあるのは昭和40年前後からの三津浜で、賑やかな町であったとの印象はとくにない。平成21年の現在、三津浜はさびれた町になってしまった。住吉商店街のアーケードもすでになく、往来する人もまばらである。人口も30年前から比べると、ほぼ半減しているという。わたしの通った三津浜小学校も児童数わずかに280名ほどと聞く。わたしが小学生だったころは1200人余りの活気にあふれた学校だったと記憶しているが、「往事眇茫としてすべて夢に似たり」である。

三津浜小学校の中庭には御茶屋井戸跡というのがあった。御茶屋とは松山藩主が三津浜港で乗下船する際の休憩所である。藩政時代には、この御茶屋の北側に三津町奉行所、船奉行所があり、官庁街となっていたという。幕末に築造された台場(砲台)は三津浜小学校のある梅田町の西の海岸あたりにあったようである。安政2年(1855)の4月から2か月ほどで築かれたにわかづくりのものであった。内藤鳴雪(1847−1926)の自叙伝には、「三津浜には早くより不充分ながら砲台が出来ていて、三十六磅(ポンド)という大砲をすえ付けていた」(『鳴雪自叙伝』岩波文庫181頁)と記されている。 旧藤井町から旧須先町界隈を歩くと、古い町家が点在していて、三津浜全盛時代の面影をとどめている。須先町の北端にはひろく知られた三津の渡しがある。大正の末期ごろまでは干潮時にはここを歩いて渡ることができたという。港山の側からは、内港に繋留する数多くの漁船、時代を経た石造りの雁木、古い家並み、家々の屋根より一段高く抜き出てたつ寺の本堂、こうしたいかにも三津浜らしい光景が見渡される。すべてが駘蕩としていて心安らぐ光景である。その光景のなかにたつ寺は西性寺、本堂の正面には「海穏山」の山号を記した大きな扁額が掲げられている。海穏やか、穏やかな海、瀬戸内の海が穏やかであるように、三津浜も今のままのおちついた穏やかな町でありつづけてほしい。三津浜の町がこれからさきもながく安穏であることを念願してやまない。

(09年3月2日記)
【参考文献】
三津浜町役場編『三津の面影』1929年8月
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
佐々木忍『松山有情』愛媛県教科図書株式会社 1978年5月
美山靖「九霞楼詩文集」愛文14号 1978年7月
大石慎三郎監修『日本歴史地理大系39 愛媛県の地名』平凡社 1980年11月
高市俊次「伊予俳人拾遺」教育研究集録22集 1980年3月
島津豊幸『史論とエッセー 絵馬と薫風』創風社出版 1990年5月
松山市史編集委員会『松山市史』第2巻 1993年4月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月
窪田重治「近世城下町松山の形成と変容」(武智利博編『愛媛の歴史地理研究』関奉仕財団 2004年6月)