伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記

当サイトは、伊予の住人、よもだ堂が歴史と文化をテーマに書き綴った日誌を掲載するものです。


漱石、荷風の曲筆(?)

夏目漱石が正岡子規の思い出を語った「談話」(「ホトトギス」11巻12号 明治41年9月1日)に次のようなことが述べられている。

なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところへ遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、此処に居るのだという。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る。御承知の通り僕は上野の裏座敷を借りて居たので、二階と下、合せて四間あった。上野の人が頻りに止める。正岡さんは肺病だそうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいう。僕も多少気味が悪かった。けれども断わらんでもいいと、かまわずに置く。僕は二階に居る、大将は下に居る。其うち松山中の俳句を遣る門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来て居る。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でも無かったが、兎に角自分の時間というものが無いのだから、止むを得ず俳句を作った。

いかにも子規らしいエピソードがここに語られているが、事実は少し違っていたようである。明治28年(1895)8月27日、子規は当時、夏目漱石(愛媛県尋常中学校英語科教員)が住んでいた松山市二番町の下宿(上野義方邸の離れ)に移り住んだ。これは「僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて」いたことではなく、あらかじめ漱石の承諾を得たうえでの移居であった。柳原極堂がはやくから指摘していることだが、8月27日付の子規宛て漱石書簡では、漱石自身が子規に対して来宿を促している。その書簡には、「今朝鼠骨子来訪貴兄既に拙宅へ御移転の事と心得御目にかゝり度由申居候間御不都合なくば是より直に御出であり度候(中略)身体丈御出向如何に御座候や先は用事まで」とあるから、漱石の下宿へ子規が承諾も得ずのり込んで来たわけではないということがわかる。

「毎日のように多勢来て」いて、「どうすることも出来ん」、「止むを得ず俳句を作った」というのも、事実を少々曲げているようである。「多勢」の一人、極堂は次のように述べている。

例の漱石流の文章で、面白く読ませようといふ文章のあやから事実を曲げてゐるのである。漱石は二階に、子規は階下に居り、我々松風会員が子規の間に運座を開いたといっても、多い時で十名の上にのぼる事は稀であって、普通五、六名、少い時は二、三名に過ぎぬ。加之(しかのみならず)病人に世話になってゐるのだから、各自慎んで大声をあげるとか騒ぐとかいふ様なことは少しもない。常に至極静粛であった。これが二階の漱石に何のかゝはりのあらう筈がない。

階下の集まりも漱石の勉強の邪魔になるほどのものではなかった。漱石は二階でどうすることもできないから、階下の運座に加わったのではない。漱石自身興味があったからこれに参加したのである。極堂も述べているように、漱石の「談話」はそのサービス精神によって事を面白く脚色したもののようである。

漱石、子規の二人は、漱石が借りていたこの家で52日間、同居生活をし、句作に熱中した。漱石は自身の俳号にちなんでこの家を愚陀仏庵と呼んだ(「愚陀仏は主人〈あるじ〉の名なり冬籠り」という漱石の句がある)。市内二番町にあった愚陀仏庵は、戦災で焼失したが、現在は一番町の萬翠荘の裏手に忠実に復元されている。極堂の文中に出る「松風会」(漱石の文中にいう「松山中の俳句を遣る門下生」)とは、子規の俳句理論に共鳴した松山尋常高等小学校の教員らが組織した俳句の結社で、漱石は俳句の上では子規の弟子であったが、松風会の会員ではなかった。

永井荷風が42年間書き続けた日記『断腸亭日乗』の昭和11年(1936)3月18日条に次のような一文がある。

むかし一橋の中学校にてたびたび喧嘩したる寺内寿一(ひさいち)は軍人叛乱後陸軍大臣となり自由主義を制圧せんとす。

荷風は「喧嘩」をしたと書いているが、同級生であった寺内寿一の一派が一方的に荷風に制裁を加えたというのが事実であったようである。当時、荷風が通っていた中学校では短髪が規則であったのに、荷風はいつの間にか頭髪を伸ばし、髪に分け目をつけて登校した。硬派の寺内一派はそれを見て憤激し、放課後、校庭の片隅に荷風を呼び出して、鉄拳制裁を加え、無理矢理あやまらせた。二・二六事件(上記一文にいう「軍人叛乱」)の直後、寺内寿一が陸軍大臣となり、荷風は中学生当時の一件を思い起こして日記には「喧嘩」と書き記した。「喧嘩」は事実とはほど遠い表現であったが、「自由主義を制圧せんとす」は根拠のないものではなかったようである(寺内寿一は軍の要望する国政一新政策を極力推進した)。荷風に屈辱の思いをさせた寺内寿一は、米騒動の責任をとって総理を辞した寺内正毅(まさたけ)の長男。三津、厳島神社の境内にある戦利兵器奉納の碑には、寺内正毅の名が陸軍大臣の肩書とともに刻まれている。

【付記】戦利兵器奉納の碑については、「戦争を刻む碑(2)」の項目を参照していただきたい。(09年4月29日記)

【参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
永井荷風著・磯田光一編『摘録 断腸亭日乗(上)』岩波文庫 1987年7月
『國史大辞典』第9巻 吉川弘文館 1988年8月
半藤一利『荷風さんと「昭和」を歩く』プレジデント社 1994年12月
『漱石全集』第22巻 岩波書店 1996年3月
『漱石全集』第25巻 岩波書店 1996年5月