花卉をめぐる話 ―子規の心に咲く花―
花や庭木を栽培し観賞すること、中尾佐助氏にしたがってそれを花卉(かき)園芸と呼んでおこう。ガーデニングという便利な言葉もあるが、それだと造園、庭造りの意味が表に出てしまう。中尾氏によると、花卉園芸が大衆に普及しはじめたのは、日本では元禄期頃からで、西ヨーロッパより200年ほど早いという。「庶民が花を楽しんだり、花卉、庭木の品種改良があったり、植木屋のような専門業者のあることは、どこの国でもいつの時代でもあったことだと考えるのはあやまりである。このような花卉園芸文化の中に現在ではありふれたことが、江戸期には世界のどこよりも、当時の西ヨーロッパよりも先がけて展開した」―中尾氏はこのように指摘し、「江戸期の日本の花卉園芸文化は全世界の花卉園芸文化の中で、もっとも特色のある輝かしい一時期である」、「花木の品種改良は日本の江戸中期では明らかに世界のトップに立っていた」と述べている。
高木性の花木である椿、桜の品種改良はすでに室町時代に始まっていた。世界の他の地域では、この時代までに低灌木のバラ、牡丹の品種改良はあったが、椿、桜といった高木になる花木が大改良された例は日本以外、どこにも見当たらないと中尾氏はいう。日本で品種改良された花木は江戸時代になると海外に渡った。その影響は大きく、川添登氏によると、「日本のつくった文化のなかで、世界に最も大きな影響を与えたものとして、まず挙げるべきものに、観賞用植物がある。江戸時代に、日本から渡ったキク、ツバキ、サクラ、ツツジ等々の花卉・植木は、ヨーロッパに、花の革命ともいえるものをひき起こした」という。18世紀にヨーロッパにもたらされた日本の椿はかの地で評判となり、華麗な八重咲き品種が好まれて、アレクサンドル・デュマ・フィスの小説『椿姫』の題名ともなっている。
椿(松山市の市花はヤマツバキ)といえば、「武士の首がぽとりと落ちるようで縁起がわるい」という俗説がある。この俗説は明治時代につくられたもので、薩摩や長州の出身者にしてやられるばかりだった江戸ッ子が、椿の好きな薩長の政府高官や士族に投げかけた皮肉がそもそもの始まりであったという。椿の俗説をこう謎解きしたのは兵庫県立フラワーセンター(加西市)の滝口洋佑氏だが、今はそれを紹介した半藤一利氏の文章に依拠して述べた。
正岡子規は「わが幼時の美感」(「ホトトギス」2巻3号 明治31年12月10日)というエッセーのなかで、湊町新町(現在の松山市湊町4丁目)の自宅庭園をさまざまに彩った花卉の思い出を語り、「花は我が世界にして草花は我が命なり」と述べている。子規の家の庭には、大きな桜の古木があり、「正岡の桜」と呼ばれてかなり有名であった。花盛りの頃には「中の川の清流は真紅にそまって真にうつくしいものであった」(柳原極堂『友人子規』)という。だが、「殊に怪しきは我が故郷の昔の庭を思ひ出す時、先づ我が眼に浮ぶ者は、爛漫たる桜にもあらず、妖冶たる芍薬(しゃくやく)にもあらず」と子規はそのエッセーでいう。子規の「先づ我が眼に浮ぶ者」、それは「溜壺に近き一うねの豌豆(えんどう)と、蚕豆(そらまめ)の花咲く景色」であった。「如何なる故か自ら知らず」、子規自身にもその理由はわからない。ただ「その花を見れば心そぞろにうき立ちて楽しさいはん方なし」であったという。えんどうの花とそらまめの花、子規の心の原風景には、この二種類の花が人知れず咲き開いていたのである。
【付記】デュマ・フィスの小説『椿姫』を原作とするヴェルディのオペラ『ラ・トラヴィアータ』(道を踏みはずした女、人生をあやまった女といった意味)は、日本では原作の題名『椿姫』で呼ばれることが多い。2002年2月の収録で少し古いが、ソプラノの名花、ステファニア・ボンファデッリ主演のこのオペラのDVDがある。(09年5月1日記)
- 【参考文献】
- 柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
- 川添登『東京の原風景 都市と田園との交流』NHKブックス 1979年2月
- 阿部昭編『飯待つ間 正岡子規随筆選』岩波文庫 1985年3月
- 中尾佐助『花と木の文化史』岩波新書 1986年11月
- 半藤一利『荷風さんと「昭和」を歩く』プレジデント社 1994年12月