伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記

当サイトは、伊予の住人、よもだ堂が歴史と文化をテーマに書き綴った日誌を掲載するものです。


資源輸出大国日本

その昔、日本は資源輸出大国であった。戦国末から徳川政権確立期にかけて、国内の各地で新たに鉱山が開かれ、鉱物資源が海外に輸出されるようになった。17世紀の前半には銀が、後半には銅が大量に輸出された。17世紀、全世界の銀生産量は年間60万キログラム前後と推定されているそうだが、日本産出の銀は、最盛期には輸出額に限ってもその3〜4割に達していたという。寛文8年(1668)、銀の輸出は禁止されたが、銅の輸出は増加しつづけ、寛文末年には国内産出量540万キログラムのうち、70パーセント近くが輸出にあてられた。日本産の銅はオランダ船・中国船を通じてアジア諸国のみならず、遠くヨーロッパ市場にまで販売され、かの地の市場価格に影響を及ぼすほどであったという。

伊予の別子銅山は、元禄3年(1690)、その銅鉱が発見され、翌年から大坂の泉屋(住友)が請け負って稼働しはじめた。その産出量は開坑4年にして世界一となったという。

伊予国の銅山は諸国の悪者の集まる所だと聞いて、一行は銅山を二日捜した。それから西条に二日、小春、今治に二日ゐて、松山から道後の温泉に出た。こゝへ来るまでに、暑を侵して旅行をした宇平は留飲疝痛に悩み、文吉も下痢して、食事が進まぬので、湯町で五十日の間保養した。

森鴎外の歴史小説『護持院原の敵討』には、別子銅山に言及した上記のような文章がある。「諸国の悪者の集まる所」は小説上の措辞に過ぎないが、別子銅山に各地から多くの人が集まり、目覚ましい発展を遂げたということは事実である。元禄7年(1694)の記録では、別子銅山に住んでいた人は銅山関係で5000人、そのほか各種の売り物に従う者、妻子ともで約1万5000人ほどいたというから、当時としては一つの都市といえるほどの規模を有していた。

東京の皇居前広場には楠木正成の銅像があるが、これは別子銅山開坑200周年を記念して、住友家が献納したものであるという。別子銅山が閉山したのは昭和48年(1973)、その歴史は280年余りに及んだ。日本が資源輸出大国であった時代は歴史の遠く彼方である。(09年4月30日記)

【参考文献】
『鴎外選集』第4巻 岩波書店 1979年2月
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 社会経済3 商工』1986年3月
水本邦彦『日本の歴史10 徳川の国家デザイン』小学館 2008年9月
内田九州男・武智利博・寺内浩編『愛媛の不思議事典』新人物往来社 2009年3月