子規、真之の交遊
明治17年(1884)9月、松山出身の二人の青年、正岡子規(1867−1902)と秋山真之(1868−1918)はそろって東京大学予備門に入学した。正岡子規は学校にほど近い神田猿楽町、板垣善五郎方に下宿住まいをした。明治19年の春、秋山真之がこの板垣方に転居し、二人は同居生活をはじめることになった。近くには同じ松山出身の柳原正之(極堂 1867−1957)も住んでいて、三人でよく落語・講談の寄席通いをしていたという。後年、柳原が書き記していることだが、寄席では、「秋山はずいぶん乱暴であった」という。「気に食わぬ芸人が高座にあらわれるとダメダメ退却退却などと叫びはじめる。そのうち我々の持っている下足札を集めてカチカチガタガタと妨害をする。居士(子規)等もその尻馬に乗って相当秋山に加勢をする。こうなると他のやじ馬も各所から応援をはじめるので、たいていの芸人は兜を脱いで中途、楽屋に引きさがってしまうのであった」―この時、子規は数え年で20歳、秋山は19歳、もう大人といってもいい年齢であるが、無邪気で明るかったいかにも明治時代の青年らしいエピソードである。
子規、真之は遊んでばかりいたわけではない。ある晩、寄席から帰ると二人は、今日は徹夜で勉強しようと相談し、落伍して先に眠ってしまった者は罰としてなにか奢ることを約束した。その晩、子規はついに机上に眠り伏してしまったが、秋山は眠ることなく勉強をつづけた。翌日、柳原正之が子規の部屋を訪ねてみると、机の横の壁に、机上に伏して眠ってしまったとおぼしき人の姿が、鉛筆で輪郭をとって描かれている。柳原が秋山にあれはなにかと問うと、秋山は「正岡の寝姿だ。僕が昨夜、輪郭をとっておいたのだ。いかに強情な正岡もこうしておけばぐうの音も出ないだろう」といって、呵々大笑したという。秋山真之は当時、宵のうちは友人たちと盛んに遊び、深夜から明け方にかけて猛勉強する習慣があった。負けず嫌いの子規はこれになんとか対抗しようと努力したが、ついにかなわなかった。子規は「秋山は偉いね」とよく褒めていたそうである。
子規、真之の同居生活は柳原によると、ほんの2、3か月ほどであったという。秋山真之は子規との同居後、東京大学予備門を自主退学し、海軍兵学校に入学することになる。海軍の軍人となる道を選び、いったん松山に帰省することとなった秋山に子規は
海神も恐るる君が船路には灘の波風しづかなるらん
いくさをもいとはぬ君が船路には風ふかばふけ波たゝばたて
という二首の歌を贈っている。これに対し秋山は
送りにし君がこころを身につけて波しづかなる守りとやせん
こころせよきみはなれにし武蔵野もなほ是よりはあつさまされば
という二首の歌でもって答えている。ともに文学に志のあった子規、真之。真之はその志をみずから葬り去った。二人はこの歌の贈答を境としてそれぞれ全く別の道を歩むことになる。
- 【参考文献】
- 柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
- 柳原極堂「子規の〈下宿がへ〉に就て」(『子規全集』第10巻所収「参考資料」講談社 1975年5月)
- 『子規全集』別巻3 講談社 1978年3月
- 『子規全集』第22巻 講談社 1978年10月
- 田中宏巳『秋山真之』吉川弘文館 2004年9月