伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記

当サイトは、伊予の住人、よもだ堂が歴史と文化をテーマに書き綴った日誌を掲載するものです。


子規ただ一度の其戎訪問

明治20年(1887)7月下旬のある日、夏季休暇で松山に帰省していた正岡子規(当時21歳)は、親友、柳原極堂(子規と同年齢)をともなって、三津の俳諧の宗匠、大原其戎(きじゅう 当時76歳)の家を訪れた。子規の随筆『筆まかせ』に「俳句を作るは明治二十年、大原其戎宗匠の許に行きしを始めとす」、「余が俳諧の師は実に先生を以てはじめとす。而して今に至るまで未だ他の師を得ず」とあるように、大原其戎は子規にとって唯一の俳諧の師である。

子規はこの日の其戎訪問の模様について、あまり具体的には書きのこしていない。『筆まかせ』に「明治二十年の夏、余勝田氏の紹介を得て始めて先生に謁す。先生体皃可魁偉、年已に八十に垂(なんな)んとす。(中略)然れども応接は懇切に礼儀は鄭重に而して其中犯すべからざる所あり」と書き記している程度である。当日の模様を比較的詳細に書き記しているのは、同行した極堂の方である。極堂はその著『友人子規』の中で、其戎訪問の模様を次のように述べている。

此夏に予も偶々帰省していたが(中略)一度子規を訪問すべき予は其玄関に入ると、今ちょうど三津ケ浜の大原其戎といふ宗匠をたづねるべく出掛けるところだが、暇があるなら君も同行してはどうかと云ふことであったから、其儘子規と連れだって三津ケ浜に向った。未だ汽車の出来ない頃だから、往復三里を話しながらテクテク歩いたものだが、何を話し合ったか少しも記憶がない。

三津ケ浜の何町であったか覚えていないが、店は呉服屋であった。其処が其戎の宅と教へられて、其店に名刺を通ずると、隣へ廻ってくれとのことで、一応店を出て隣へ這入り直した。隣と云っても仮に入口を別にしたままで、家は一つであったように覚えている。通されたのは六畳位の二階で、其壁といはず、襖といはず、天井に至るまで俳諧に関する文書類で、貼りつめられて一杯だ。各地方より寄せし風交上の消息なども、だいぶん交っているようであった。

其処へ現れたのが七十以上と思はれる背の高い上品な老人、頭はつやつや光っていた。是れぞ宗匠大原其戎であるとはすぐ覚り得られた。極めて真面目で、おちついて言葉もすくなく、しかも鄭重な其応接ぶりに対しては、我々は余計な口がきけず、子規は早速予て用意の句稿、それは半紙一枚に十句ばかりの俳句をしたためたものを懐中から取り出して、其批評を需めたが、其戎は徐ろに紙面に目を通した後、至極結構に出来ていますと云ひつつ句稿を返して、暫く何も言はないので子規は、又季のことに就て一二質問を試み、匆々帰り仕度を始めた頃、何日頃東京へ御帰りになりますかなどと少々愛嬌を言っていた。此訪問時間は三十分を越ゆることはない、至ってアッサリした簡単な会見であった。

子規が其戎を訪問したのは明治20年7月のこの日ただ一回だけであった。翌月末には、子規は松山を発って東京に戻っている。其戎が死去したのは明治22年3月31日、この間、子規は一度も松山に帰省していない。子規がただ一回の訪問で其戎を「俳諧の師」といっていることを、極堂は当初「甚だ変に感じた」(『友人子規』)という。だが、其戎が死去するまでの間に、子規が書簡を通じて何度も其戎の指導を仰いでいたことを知るに及んで、当初感じた不審は「自ずから氷解した」(同)と述べている。

講談社刊『子規全集』第22巻所収の「年譜」をみると、子規宛ての其戎書簡が7通、其戎宛ての子規書簡が1通あることが確認されているから、実際にはこれ以上の数の書簡のやり取りが両者の間にあったものと思われる。書簡を通しての教示という形ではあったが、其戎はたしかに子規の「俳諧の師」であったのである。

子規、唯一の俳諧の師、大原其戎は文化9年(1812)5月18日、三津浜に生まれた。本名沢右衛門。通称熊太郎。四時園を名のる其沢(松山藩御船手大船頭。綿・麻織物を扱う太物商)の長男。父の跡を継いで二世四時園となり、その息、其然が三世を継ぐ。万延元年(1860)、大可賀に芭蕉の「あら株塚」をたてて上洛、七世桜井梅室の門に入り、二条家から宗匠の免許を受けた。その後、郷里に帰って俳諧の結社、明栄社を興し、全国でも3番目に古い月刊俳誌「真砂の志良辺」(明治13年1月創刊)を発行した。同誌に投句した俳人は関東から九州にまで及び、その数は804人(県内608人・県外196人)に達している。

子規は其戎の死の翌年、其戎の経歴や受け取った書簡等について、追悼の意をあらわした文章を記し、「我郷里に俳諧の盛んなる実に先生の力与(あずか)りて大なりといふべし」と述べて、其戎の功績を称えている(『筆まかせ』)。

【付記】 「大原其戎居宅の跡」の石碑が現在、三津2丁目にあるが、其戎の居宅が実際にあったのはこの石碑近くの歯科医院の北隣(鯛メシ専門店の裏)あたりではないかと思う(三津1丁目)。この石碑の傍らには「花之本大神 敬へばなほもたゞしや花明り」の其戎の句碑と、「芭蕉翁塚 しぐるゝや田のあら株のくろむほど」の松尾芭蕉の句碑(あら株塚)とがある。芭蕉の句碑は元来、大可賀にあったもの。三津大可賀公園(大可賀1丁目)には其沢、其戎父子の墓碑がある。其沢の墓碑には「大原氏 其澤之塚 造作なふ共に消えけり雪仏」とあり、其戎の墓碑には「宗匠四時園其戎翁之墓 明月や丸うふけゆくものゝ影」とある。

『筆まかせ』に「明治二十年の夏、余勝田氏の紹介を得て始めて先生に謁す」とあるように、子規の其戎訪問は勝田主計(明庵・宰洲 のちに大蔵大臣・文部大臣をつとめる)の紹介によるものであった。其戎は主計の祖母の実兄に当たる。

昭和9年(1934)に発表された森連翠の論稿「大原其戎翁」に、子規の其戎訪問の模様について伝聞するところを僅かではあるが記しているので、引用しておこう。「此時居士(子規)は浮巣とは何ぞや、行々子は何とよむやなど質問し、翁は富士越しの竜をよみたる句を半切紙に筆して居士に与へたりと云ふ」。同論稿では其戎の人柄について、次のように述べている。「俳諧には秘伝口授という事あり。大概の宗匠は容易に伝えざるを例とす。然るに翁は之を親切に門下に指示せり。選句に際し、高弟を召し其意見を聴取して選定す。高ぶらざること概ねかくの如し」。

其戎主宰の俳誌「真砂の志良辺」第92号(明治20年8月12日発行)に、「虫の音を踏みわけ行くや野の小道」という子規の句が「松山 正岡」として掲載されている。子規の句が活字になったのはこれが最初である。以後、子規の句は同誌第128号までに計44句が掲載される。子規は明治25年6月27日付の虚子・碧梧桐宛ての書簡で、其戎の高弟、森連甫(三津在住。前記森連翠の父)の「年古き棟木めでたし煤払」「二ツ三ツ重なりあふて雪の嶋」など7句を名句として紹介し、「此句を見て小生又一奮発の勇気を起し申候。大兄等以て如何となす」と述べて二人の奮起を促している。子規は其戎門下の俳人にも関心を寄せていたのである。

(09年4月2日記)
【参考文献】
森連翠「大原其戎翁」伊予史談78号 1934年6月
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』第10巻 講談社 1975年5月
『子規全集』第18巻 講談社 1977年1月
『子規全集』第22巻 講談社 1978年10月
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 文学』 1984年3月
『俳文学大辞典』角川書店 1995年10月
二神将『二神鷺泉と道後湯之町』アトラス出版 2003年5月