散歩
幸田露伴の著『一国の首都』によると、江戸時代、散歩は「犬川などといひて卑(いや)しむ傾き」があったそうである。「犬川」とは「犬の川端歩き」、すなわち無用のことという意味である。大佛次郎(おさらぎじろう)の「散歩について」というエッセーには、江戸時代、散歩は「遊び人か隠居だけに許されること」で、「神詣(もう)で寺詣でなら目的があってよいが、ぶらぶら歩きなどは、はしたないことで、してはならぬ行儀であった。散歩は、やはり西洋人が来て教えた。(中略)町人の社会でも、堅気な家など、用のない外出を戒めたのは当然である。(中略)日本の武士で町によくぶらぶら歩きに出たのは、勝海舟である。父親の勝小吉が武士でも本所(ほんじょ)の遊び人だったせいだけでなく、やはり外国人の散歩の習慣に習ったのである」と記されている。日本では、散歩という習慣はどうやら近代になってから定着したものであったらしい。
江戸時代の日本人は、腕を振って歩く習慣もなく、「なんば歩き」といって、右足と同時に右肩を出し、左足と同時に左肩を出す歩行法をしていたといわれる。この歩き方では、どうしても前かがみとなり、身体を揺するような格好となりがちだから、「してはならぬ行儀」という以前に、気ままに歩く散歩という行為自体がなりたたないようにも思われる。明治になってからの初年兵教育では、日本人のこの「なんば歩き」を改めさせるのにたいへん時間がかかったという。
『日和下駄』(ひよりげた)と題するエッセーに「市中の散歩は子供の時から好きであった」と述べて、散歩好きを自称していたのが永井荷風である。荷風は江戸の面影をのこす東京の下町を好んで散策し、路地のたたずまいにえもいわれぬ詩情を見出した。挿絵作家として有名な木村荘八は、それまでだれも気づかなかった路地の良さを発見したのは荷風であるといったそうである。
荷風が『日和下駄』を上梓した大正4年(1915)当時、東京の隅田川にはまだ渡し場がいくつかのこっており、人の往来に渡し船が用いられていた。荷風は『日和下駄』の中で、「今日世界の都会中渡し船なる古雅の趣を保存している処は日本の東京のみではあるまいか」と述べ、渡し船は「古樹と寺院と城壁と同じくあくまで保存せしむべき都市の宝物である」といっている。
路地や渡し船を偏愛した荷風が、三津の町並みや三津の渡しを目にしていたら、どのような感想を述べたであろうか。都会派を自認していた荷風であるから、地方都市の良さについては語ろうとしないかもしれないが…。荷風の句、
行く春やゆるむ鼻緒の日和下駄
荷風は晴れの日でも蝙蝠傘(こうもりがさ)を持ち日和下駄をはいて、東京の街を散策した。これは「年中湿気の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである」と自ら述べている。
(09年4月10日記)- 【参考文献】
- 『大佛次郎随筆全集』第2巻 朝日新聞社 1974年1月
- 野口富士男編『荷風随筆集(上)』岩波文庫 1986年9月
- 幸田露伴『一国の首都』岩波文庫 1993年5月
- 半藤一利『荷風さんと「昭和」を歩く』プレジデント社 1994年12月
- 川本三郎『荷風好日』岩波書店 2002年2月
- 牧原憲夫『日本の歴史13 文明国をめざして』小学館 2008年12月