相撲昔話
和歌山市の井辺八幡山(いんべはちまんやま)古墳から発掘された埴輪の一つに、褌を締めて両腕を突きだし相手に組みつく姿をしたものがある。力士の姿をかたどっていることは明らかで、古墳時代すでに相撲が行われていたことを示している。この力士型埴輪を発掘したのは考古学者の森浩一氏であるが、氏は古墳時代の相撲について、「今日では相撲といえば、スポーツとしてとらえられているが、人の死、それも突然の死とか不慮の死とかにさいして、鎮魂のために相撲をとらせたことがあった」といい、相撲は「葬儀にさいしての鎮魂」の意味をもつものでもあったと指摘している。
現在の大相撲では、土俵の上方に吊り屋根があるが、昭和27年9月以前は、四本柱といって土俵の四隅に柱が立ち、その上に屋根がおかれ水引幕が下がっていた。民俗学者の五来重氏によると、これは葬具の四門(仮門)と同じであるという。四門は四本の柱の上に屋根をのせたもので、戦前まではたいていのところで用いられていた。葬儀の時にはこの屋根の下に水引幕をまわしたというから、かつての大相撲の四本柱と全く同じである。五来氏はいう。「葬の四門と相撲の四本柱が似ているといえば、なにか不吉な感をもつかもしれないが、相撲は〈すまひ〉(素舞)であり、力強い〈しこ〉(醜足)を踏むことに意味がある。これは悪霊や死霊や荒魂を踏み鎮めて共同体を安全にする呪的足踏で、もと〈だだ〉といい、のちに反閇(へんばい)といわれたものにあたる。今の大相撲も力士の〈揃い踏み〉や横綱の〈土俵入り〉などというのは、一種の宗教行事であって、天下国家の悪魔を払うのである。これをまた最後に呪師散楽として演ずるのが、弓取式の足踏である」。相撲の語源を「すまひ(素舞)」とするのは確証がもてないが、五来氏の指摘にはうなずかせるものがある。
日本の相撲に限らず、現在スポーツとされているものの中にも、その始原にまでさかのぼれば、鎮魂の行事としての意味をもつものがあったのではないだろうか。古代ギリシアの叙事詩『イリアス』(第23歌)では、パトロクロスの火葬の直後、その親友アキレウスが戦車競走、拳闘、徒競争、投擲などさまざまな競技を主催しているが、これら一連の競技はパトロクロスの葬送の一環として行われている。もちろんこれは歴史上の事実の記録ではなく、文学作品の中での叙述に過ぎないが、当時の人々の共有観念を反映していることはたしかであろう。古代ギリシアの各種競技も鎮魂の行事と無縁ではなかったと思われるのである。
話を相撲にもどし、郷土に関連したことをいえば、平安時代、一条天皇(在位980−1011)の頃、都で有名だった相撲人9名のひとりに伊予出身の越智経世(常世)の名がある(『続本朝往生伝』『御堂関白記』『権記』『小右記』など)。説話集『古今著聞集』373段、374段(岩波日本古典文学大系本)に出る相撲人「常世」は、越智経世のことであるという(『愛媛県史 文学』の説)。経世の子の富永(富長)、是永(惟永)も後一条天皇(在位1016−1036)の頃、しばしば相撲節会に召された伊予の相撲人であった(『小右記』など)。
三津の元町、厳島神社に向かう参道の傍らには、力士の墓石が6基、2列の形でならんでいる。前列右から「三ツ湊」(万延元年没)、「千代之松」(明治22年没)、「押尾川」(文化6年没)、後列右から「打波」(天保7年没)、「上林産 押尾川」(明治2年没)、「古三津ノ産 松之音久吉」(明治7年没)である。文化6年没の押尾川は三津塩屋町(旧藤井町、現在の三津2丁目)の灘屋喜太八の8男で、松山藩お抱えの力士であった。かれは上林村(東温市上林)出身の要岩を養成して押尾川の名跡をつがせた。その次に押尾川を襲名したのが田窪村(東温市田窪)出身の御坂山である。元町に二人の押尾川の墓をたてたのは、この御坂山の押尾川で、かれは墓の建立に伴う追善相撲興行をも主催した。三津の海岸で7日間おこなわれたこの興行は、ながく話柄にのぼるほどの盛況であったという。
(09年4月9日記)- 【参考文献】
- 三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
- 『古今著聞集』岩波日本古典文学大系 1966年3月
- 愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 文学』1984年3月
- 『國史大辞典』第8巻 吉川弘文館 1987年9月
- 五来重『葬と供養』東方出版 1992年5月
- 松平千秋訳『イリアス(下)』岩波文庫 1992年9月
- 森浩一『記紀の考古学』朝日文庫 2005年2月