伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記

当サイトは、伊予の住人、よもだ堂が歴史と文化をテーマに書き綴った日誌を掲載するものです。


空蝉の伊予滞在

 『源氏物語』に登場する空蝉(うつせみ)と夕顔は対照的な女性として描かれている。空蝉は光源氏を拒否する女、夕顔は光源氏をうけいれる女。空蝉は『源氏物語』の作者、紫式部の自画像とする説もあるが、物語のうえではおもしろいことに、京都からこの伊予の国に来たことになっている。「夕顔」の巻の末尾近くにこうある。「伊予の介、神無月の朔日(ついたち)ごろに下る。女房の下らむにとて、たむけ心ことにせさせたまふ。また内々にも、わざとしたまひて(中略)かの小袿(こうちき)もつかはす」。この「伊予の介」は空蝉の夫であり、彼女は夫とともにその任地である伊予に下向する。源氏は空蝉との別れを惜しみ、その思い出の品である小袿を彼女に返す。「年立」(としだて)ではこの時の源氏の年齢は17歳。したがって、物語の設定では、空蝉の伊予下向は源氏17歳の時の10月初頭(神無月の朔日ごろ)ということになる。

次に「関屋」の巻に目を移そう。その冒頭には「伊予の介といひしは、故院かくれさせたまひてまたの年、常陸になりて下りしかば、かの帚木(ははきぎ)もいざなはれにけり」という一文がある。空蝉の夫、伊予の介は桐壺院崩御の翌年、常陸の介に任じられたので、空蝉をともない任地常陸に向かった。この一文にいう「故院」は桐壺院、「帚木」は空蝉のことである。桐壺院の崩御は「年立」では源氏23歳の時であるから、その翌年、源氏24歳の時に空蝉は伊予から常陸へと移って行ったことになる。伊予に来たのが源氏17歳の時、伊予を発ったのが源氏24歳の時、その間、空蝉は伊予に滞在していた。伊予にいた時の空蝉の動静が『源氏物語』の中で語られているわけではもちろんないが、物語の設定のうえからは、空蝉の7年間の伊予滞在ということが導き出されるのである。

 この空蝉と対照的な女性として描かれている夕顔、その墓と称するものが京都市下京(しもぎょう)区内にある。下京区堺町通松原上ル、その名も夕顔町というところに「源語伝説 五条辺 夕顔之墳」という昭和4年建立の石柱碑があり、その奥の民家の中庭に夕顔の墓「夕顔塚」と称するものがある(非公開)。安永9年(1780)、京都の書林吉野屋から刊行された『都名所図絵』にも、この「夕顔塚」が絵入りで紹介されているから、江戸時代の中頃にはすでにそれがあったものと思われる。京都人は夕顔という架空の人物の墓までもつくりあげた。伊予の国には好事家がいなかったのか、「空蝉住居の跡」はつくられていない。

(3月10日記)
【参考文献】
石田穣二・清水好子校注『源氏物語(一)』新潮日本古典集成 1976年6月
石田穣二・清水好子校注『源氏物語(三)』新潮日本古典集成 1978年5月
西沢正史編『源氏物語作中人物事典』東京堂出版 2007年1月