南朝方 河野家の武将 伊代佐衛門尉
子供の頃から聞く我が家の口伝では、勝岡家は伊台に住む豪傑の末裔で、蟹退治をした話が有名と聞いている。その豪傑が伊代左衛門尉とは近年になって知った次第です。
薄墨桜西法寺十五世薄墨賢衛住職に作成して頂いた系図(大正・昭和・平成の一部を追加・改定)平成8年4月
南北朝時代 伊代の太郎 南朝方の武士「伊代(伊田井)の太郎
伊台に伝わる昔話の「蟹退治」をした人
太郎塚」が今に残っている
「蟹退治」の話は私の子供のころから
勝岡家の口伝として語り継がれている
昔話に語り伝えられている
室町時代 伊代左衛門尉 河野家の武将で和気17人衆の一人
伊台・勝岡山の麓の住人
屋敷」という地名が残っている
馬印は「鍵の型
伊代左衛門尉の時代(河野家流族18家
西法寺が戦火に遭い詳しい資料焼失
安土桃山時代 伊代左衛門 河野家滅亡ののち豊臣家により
伊台の地を安堵され750石で治めている
勝岡備前守?
徳川家により豊臣家滅亡
「丸に蔦」
西法寺が戦火に遭い詳しい資料焼失
江戸時代 初代伊代屋儀蔵 徳川家の世となり「伊代屋」を名乗る 
文化、文政の頃、次第に松山の城下に転出
天保14年、西法寺本堂改築のとき
玉水町「伊代屋儀蔵」多額の寄進
(本堂の襖?に名前が見える)
伊代屋一族
長左衛門・新右衛門
平次兵衛・三左衛門
七衛門・茂八・和七
江戸時代 二代目儀蔵 文久3年、西法寺薄墨桜玉垣造成の世話人
(玉垣に伊代屋一族の名前が見える)
伊代屋一族
伝蔵・藤蔵・平次平
平助
平助 改め 半助
明治時代 三代目儀蔵 玉水町、新町(鉄砲町)から木屋町を経て
魚町に住む
伊代屋儀蔵 改め 勝岡儀蔵
伊代屋一族
半助 改め 長谷川 光太郎
平次平 改め 越智 平次平
大正時代 勝岡要太郎
勝岡虎次郎
勝岡茂市郎
長男 要太郎
次男 虎次郎
三男 茂市郎

要太郎 隠居
三男 茂市郎 家督を継ぐ
昭和時代 勝岡久夫
勝岡竹代
勝岡正一郎
平成の御代 勝岡正敏
勝岡昭
勝岡智彦
松山市 古三津 郷土の偉人  伝記 岡田 十五郎翁
古三津・儀光寺に残る「岡田十五郎翁」の記録、「古老」からの聞き伝えにより制作しました。
これ以前の系図は戦災で焼失してありません。(記録によれば450年前までの系図があったそうです)
古三津では「岡田十五郎翁」の徳をたたえ、約150年の昔から毎年8月7日・地元の人たちが集まり慰霊祭を行っている
岡田十五郎翁の家系図
「岡田利衛」 岡田十五郎翁の父
久枝神社」の「縁起」にある、
この地の豪族岡田氏の末裔
五三の桐
「岡田十五郎」 松山市古三津で
「郷土の偉人」と崇められている
岡田十五郎神社」の祭神
菅の婆様
岡田十五郎翁の姉
家老「菅五郎左衛門」に仕える
松山藩の「邦姫様」の乳母で権勢を誇った
新池工事では
家老「菅五郎左衛門」とのパイプ役として
影の力になった
邦姫のこと
十三代 松山城主 松平 勝善(島津斉宣の子)の娘
十四代 松山城主 松平 定昭(藤堂高獣の子)の正室

夭逝した十五郎翁の子供たち
十太郎(不明)
九郎次(九歳にて死去)
森太郎(二歳にて死去)
福太郎(七歳にて死去)
「おしん」 十五郎翁の娘
梶原家に嫁す
梶原平助馬回役・明暦4年(1658)あり
伊予史談会叢書「松山藩役禄」より
その後、梶原家についてはまったく消息不明
岡玄磧
十五郎翁の生き残ったただ一人の息子
松山藩の医者だったが「岡家」に養子し
中島で医業を営む・子なし
中島に墓あり
「宗次郎」 「おしん」の息子
福田家に養子
今は絶えたけれど「福新印刷」で有名な
紙屋町の「福田家」
「秀太郎」 「宗次郎」の次男
新浜(今の三津の近く)「白木家」より嫁す?
詳しくは分からない
白木家の消息不明
福田亀太郎
「宗次郎」の長男
岡田家の家宝「大黒様」を保管していたが
現在・所在不明
中島「小立家」より嫁す
「勝岡はる」 福田家より嫁す
「秀太郎」の一人娘
岡田家の500年に及ぶ家系図を受け継いで
いたはずだが戦災により焼失?
福田善次郎
「亀太郎」の次男
妻 福田スミエ
「勝岡竹代」 はる」の一人娘 福田順一
「善次郎」の長男
「勝岡昭」 竹代」の一人息子