はじめに
平成七年(一九九五年)一月十七日−−−−−阪神大震災が突如発生した。
 二年経過した今日でも、神戸市内の繁華街の大通りから一歩入れば、そこには大震災の爪痕が残っており、道行く人に何かを訴えてくる。
 東灘区森南町の拙宅の跡地は、神戸市の区画整理事業が未解決であり、更地のまま駐車場に活用している。
主の居ない庭には、春には木蓮、初夏にはのうせんかずらが橙赤色の大花をつけ、続いて夾竹桃が大震災に関係なく紅色の花を咲かせる。「年々歳々花相似タリ 年々歳々人同ジカラズ」であるが、私を含めて、望郷の念は強いがいまだ「彷徨える神戸人」も少なくはあるまい。
極めて希有な個人的体験であった阪神大震災の私なりの貴重な体験を「思いを言葉に 言葉を形に」と考えて、「私記」として取り纏めることにした。大阪では薬品支店長としての「会社人間的行動」が勿論あったが、大震災を機に妻との交流を大切に考えて「家庭的人間行動」も生活の重要な一面を占めることになった。「厄年」というものがあるとすれば、平成七年(一九九五年)は、私にとってはまさに「還暦」に当たり、人生六〇歳にして営々として積み上げてきた「財産」を一瞬に失ったことになる。
 幸い、夫婦は無事に倒壊した二階から自力で脱出できたし、役員の在任期間中でもあり生活は保証されていたし、家屋の解体・家財の撤去と肉体労働に追われながらも夫婦ともに健康を維持することができた。あわせて、なによりも故郷松山には、いつでも隠遁することができる物心両面の余力が残っていた。あと数年後に同じ事態が発生したとすれば、すべての面でマイナスが作用して、再起が困難だったかもしれない。
阪神大震災で失ったものも多かったが、失わなかったものも多くあった。
『人生は、どんなに辛いことがあっても、生きるに値する。
 それには三っのことが必要だ。勇気、希望、そしてサム・マネーだ。』
大震災後の私ども夫婦の歩みは、まさに『ライムライト』の世界であった。私ども夫婦を支えていただいたすべての方々に心からの感謝を申し上げ、あわせてご多幸をお祈り申し上げる次第である。
平成九年一月十七日 阪神大震災二周年を迎えた日
はじめに 平成七年一月十七日午前五時四十六分
阪神淡路大震災が突如発生した
第一章 人生で一番長い日 地震・雷・火事・オヤジ
第二章 ホテル住まいの危機対応 いつもあなたのそばにある
第三章 夫婦分業復旧作業 一難去ってまた一難
第四章 ストレス克服へ あるがままに生きる
第五章 混沌からの飛翔 がんばろや WE LOVE KOBE
第六章 早春賦 春は名のみの 風の寒さや
第七章 森南町区画整理 誰がために町はある
第八章 疎開先の新生活 住めば都 井の中の蛙ミナミを知らず
おわりに 天災は忘れなくてもやって来る