第六章 早春賦    春は名のみの 風の寒さや  
(一)花嫁姿に母の面影 
0218
二月十八日(土)曇り  
午後、新幹線で上京。十年振りに大井町のホテルアミスタに宿泊する。夜TVの速報で「関西地区に地震」の文字が画像に流れる。ギクツとして、妻に電話したが、「異常なし」とのこと。 いつになく明るい声で、夕方に淳志・尚子夫婦が来て、一泊することになったので随分喜んでいる。ひとまず安心である。一日も早く、若い二人が、神戸での「新婚生活」を再開してほしいものだ。天災とはいえ、淳志の単身生活は気になってしようがない。   
二月十九日(日)晴 
朝八時前にホテルを出る。上野駅から常磐線で約一時間、土浦に着く。随分田舎の都市と思っていたが、首都圏への通勤圏内で人口十三万人の町である。もっとも休日でもあり、駅構内はまばらではあるが −−−−−−。 杉原薫さんと市村康史さんの結婚式並びに披露宴に出席。式場は霞ヶ浦グランドパレスで、駅から一〇分ほど。霞ヶ浦が目の前に見える絶好のロケーションである。人事部長の当時、従姉妹の千賀さんに頼まれて、杵淵邦夫大阪事務所総務部長に紹介して採用が内定した経緯があるのだが、十年以上も鐘紡に勤務。職場の評判もよく安心していた。結婚式には是非にとの薫さんの希望もあり、震災以来初の遠出となった。                                            
薫さんは、私の母と同じく浅井家の血の流れなのか、背が高くほっそりしていて、顔は全体像に比較して小さく、輪郭ははっきりしている。一見弱そうに見えるのだが、芯は強いとでも言おうか。 母も四十歳を越してからは太ってきたが、学生時代に接した母は、とっても美人で、私にとって理想的な女性だった。薫さんの花嫁姿を眺めながら、ふと母のことを思い出し、無性に恋しくなった。今後は両親と一緒に大家族で住むらしいが、薫さんなら辛抱できるだろうと確信している 
同じ親族の卓には、浅井一志・クニ子夫妻、浅井清志さん、天野高伸・なつ子夫妻の従兄弟が並び、思い出話や俳句、親戚の消息と阪神大震災のニュースなど話が尽きない。新郎は、日本テキサスインスツルメントの優秀な技術者で、今年にもアメリカ勤務とのこと。新婦側の来賓者は鐘紡の産業資材部の谷山陽一部長、ベルセイム部の梅沢慶司部長らが列席する。親戚に私が居るのを知って、大変に驚いていた。三時にお開きになり、大阪に直行し、夜八時過ぎに帰宅する。 大震災のストレスが徐々に弱くまってきているようだ。
(二)「新春顔見せ」夢口上   
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二月二十日(月)晴
週初の朝礼で、阪神大震災から既に一ヵ月経過、いよいよ「同情」から「自力更生」の段階に入ったことを強調する。昼前、堺市中百舌の「じばしん」で開催した漢方療法推進会大阪南ブロック会で挨拶。会社の震災対応を伝え、協力を依頼する。                      
夕は、京都パークホテルでの光株式会社の経営発表会並びに懇親会に出席。御池会長、御池社長、安田常務、ジョンソン&ジョンソンの部谷浩生支店長と懇談。それにしても京都の夜は随分冷える。  
二月二十一日(火)晴
午後、リバ−サイドホテルで開催した漢方療法推進会大阪北ブロック会で挨拶し、当社の震災対応を伝える。震災一ヵ月の疲労蓄積か、夕食後は寝床でごろりとなり休養。
妻は、いたって元気であり、前田喜恵子さんと小林豊夫人(りつ子さん)と三人で、神戸宅に出掛け、喜恵子さんの馴染みの芦屋のガラス工芸店にお見舞いに立ち寄った。工芸店の被害も甚大だったろうと思う。 芦屋奥池のエンバ美術館の陶磁器や西欧の置物が潰滅的な被害があったことを、最近の新聞で見たのだが−−−−−−。                           
二月二十二日(水)晴   
引き続き本日も、漢方療法推進会大阪中ブロック会に出席、元気な姿で挨拶し、大阪の支援を強く要請。これで、関西地区の全ブロック会に出席し、震災後の復興への呼び掛けを済ましたことになる。最大の被害者が支店長の私であることが分かっているだけに、メンバーは直接、私には強いことも言えずといった所らしい。個人的にも厳しい環境の中で、経営トップが顔を見せることに主眼をおいたのだが、真意は通じたように考えている。 
防府日報の「人短信」欄に私の罹災ニュースが載る。 
家は倒壊しましたが、家族は全員元気  〔三好恭治さん・元鐘紡工場長〕 
一月十七日、神戸市東灘区の我が家が倒壊しましたが、おかげさまで家族一同ケガもなく自力脱出できました。地震の怖さを身近に感じました。近くに住んでおられた板橋義夫さん(元工場長)は死亡され、本当にお気の毒です。あと一か月もすれば、近くの芦屋川の河畔には何事もなかったように見事な桜並木||が見られるのでしょうが、我が家は廃墟のままで春を迎えることになりそうです。頑張っています。皆さんにおよろしく。   
(三)念ずればこそ宝物発見  
0223
二月二十三日(木)晴 
朝から阪神御影、阪急六甲周辺の被災状況を視察し、岡本の次男宅に立ち寄る。偶々、水道局の施設員に出会い、次男宅の水道を開栓してもらう。部屋に入り、水道栓を捻ると、一ヵ月振りに水が飛び出してくるではないか。一瞬感激する。早速、両掌で水道水を受けて、顔を洗ってみる。ライフラインの確実な復旧こそ、住民にとって何よりの安らぎである。                           
午後、森南町で妻と合流し、片付けの共同作業を開始。山一質店の上西宏和さんから解体業者(商社系列の株式会社スターツ)の紹介を受け、市会議員の小嶋喬さんからは、都市計画法に基づく十七メートル道路案の説明を受ける。行政サイドの広域の土地買収がなければ、大規模な都市計画は無理ではなかろうか。  片付け最中に、日本テレビの取材を受けるが、行政批判に控えめな、好意的な発言をしたので、確実に没になることだろう。  
二月二十四日(金)晴  
朝、三井生命の嘉村武夫さん(関西担当役員)が見舞いに来社、短時間ではあったが、支店内の喫茶室「いなほ」で懇談。懐かしい友はいいものだ。全社的に二月度の業績は伸び悩んでいるが、震災を受けた大阪支店の実績見込みの方が勢いがある。ダイエーの「がんばろや WE LOVE KOBE いつもあなたのそばにいる」というコピーは、なぜか神戸人の心を打つものがある。 
二月二十五日(土)晴
二十五、二十六日の二日間をかけて、家屋解体前の本格的な「掘り出し作業」に妻と取り組むこととなった。その気になると不思議なもので、隠れていた宝物が目の前に現れてくるのだ。妻の指輪、宝石箱や古いアルバムや新婚時代の振り子時計も取り出すことができた。これらの「想い出グッズ」を手にすることが出来て、妻は大喜びである。私まで嬉しくなった。夕、本多の兄から、疎開先のマンション契約の詳細な連絡を受ける。「一年契約で再契約あり」だが、あと何年このマンションに住むことになるのか。
二月二十六日(日)曇り   
朝八時から、神戸宅の一部解体作業に入る。茶の間の解体では、食器類の取り出しが中心だが、ある程度纏めて取り出した筈の家電製品は、シンプルなトースター以外は、外形は使えそうに思えるのだが、全滅であった。 洗濯機、冷凍庫などの電化製品は、最小限度早期に取り揃えなくてはなるまい。    昼迄で、一応整理は完了。
芦屋駅近くの阪神国道管理事務所前広場でボランテイアから豚汁の馳走になる。ボランテイア慣れをして、それが当然のようになり、感謝の気持ちを忘れてくると、人間としての美学が失われてくるに違いない。気温が下がっているだけに、碗から伝わってくる暖かさと、ボランティアの親しさと、牛肉がたっぷり入って中身で、心も体も芯から温まってきた。妻は、三日連続の片付けで、体調を崩す。解体まで十日はあろうから、元気を回復してほしいと祈る。
(四)痩我慢は男の美学なり 
0227
二月二十七日(月)晴     
朝九時の新幹線で上京。赤坂東急ホテル内の「有薫/丸天うどん」で腹ごしらえ。一時間程余裕があり、震災以髪の手入れを気にならず、残り少ない髪の毛が耳にかかっているので散髪を思い立つ。ホテルの理容店に入る前に料金表を見ると、調髪料金は九千円。東京は大震災とは無縁な大都市だ。近くの都道府県会館で三千円の調髪に切替える。さっぱりした気分で、二月度定例役員会に出席し、爽やかに、阪神淡路大震災後の現地報告と支店の対応を報告する。「痩我慢の男の美学」かもしれない。役員会終了後、久しぶりに関係者と打合せして、日帰り出張を終わる。                       
二月二十八日(火)晴  
月末でもあり、妙に静かな支店で、内勤者とともに、数字を睨みながら業績分析を続ける。 二月度支店業績は、予想以上に売上は伸長し、神戸を取り巻くドーナツ化現象が周辺の薬局やドラッグに寄与したようだ。「火事場の−−−−」ではないが、「捨てる神あれば拾う神あり」だし「大いなる悲観は大いなる楽観に一致する」雰囲気でもあった。特にチェーン店部の対計画一〇〇%超達成は、高く評価したい。但し、回収はいま一つであるが、これは致し方あるまい。 
(五)ウエルスタ−ト ハ−フ ダン   
0301
三月一日(水)晴  
月初の支店全体会議を開催。約一時間、阪神大震災の影響を踏まえて二月度の営業指針を示達。神戸営業所は、交通事情もあり、別途現地で開催することにした。夜は、本社の進藤営業部長を交えて幹部と「光楽」で鍋を囲む。 
三月二日(木)晴  
社長宛の「支店月報」取り纏め。神戸の落ち込みを大阪・京都が完全にカバーしたことを評価し、支店の体力アップを強調する。
三月三日(金)曇り     
午後から神戸で営業会議を開催することにしたので、朝から苦役の出勤となる。阪神御影駅から三宮までの連絡バスは一キロ以上の長蛇の列である。うんざりする。一時間半かかって、やっと支店に到着。 神戸営業所のモラ−ルアップの決め手として、来期からの営業所再開を訴え、その為にも全員で営業体制を確立していこうと呼び掛ける。支店のモット−である「共有・共感・共生」を確認しあう。                                       大阪へは、昼間で順調に連絡バスが流れ、約一時間で支店に着く。早速、支店内での 拠点戦略会議(積み上げ会議)に出席。営業マンの納得づくの目標設定だが、最終的には課長のリ−ダ−シップ如何である。                                                           夕、恒治と一緒に、鶴橋の焼肉の老舗「鶴一」で食事。評判は昔から聞いていたのだが食事するのは始めてである。炭火焼き、物凄い煙と一緒に、超満員(一時間待ちが普通)、安価、美味−−−と、 どこをとっても大阪は下町の店である。大いに精力をつ ける。ニンニクの臭いが気になり、イタリアンレストラン「ローリエ」でコーヒーを飲む。店内のコ−ナ−や棚に飾られた陶器の人形が、松山近くの砥部焼きであることに妻が気付く。そう言えば、道後の隣家の趣味の店「雅夢」にも同じような飾り人形があった。聞けば、マスターが四国出身の由、成程と納得する。
三月四日(土)晴 
大安吉日で、結婚式が二組重なる。甥の山地宏君と社内の森川省吾君である。森川君と新婦の伊藤智恵子さんは、ともに小太郎漢方の出身で、私が管理担当の当時に二人を過年度採用した縁もあり、身内のような気がする。深夜まで、親子水入らずで語り合う。このような平和なひとときを仕合わせといのだろうか。                                                                                      
三月五日(日)晴 
炬燵に入って、来週予定しているダイエ−流通科学大学の企業研修生への講義レジュメを取り纏める。今回はかなり推敲したので、出来映えに満足している。主眼は、阪神大震災下、支店長はナニを考え、どのように行動したか−−−から話を始め、営業の原理原則をユニ−クに展開していく内容である。   午後、ワ−プロで疲れたので、上本町の近鉄本社ムラを中心に散策する。                               
(六)確定申告にも「地獄に仏」     
0306
三月六日(月)晴 
確定申告は、忘れなくともやってくる。六日に、申告用紙に下書きするが、特例が多く一筋縄では行きそうもない。税務署の担当官のお情けにお縋りするしかなさそうだ。                      
三月七日(火)晴 
 阪神御影駅までは電車、バスで東灘区役所に向かい、「固定資産評価証明書」を入手。 谷崎潤一郎の旧宅(倒壊)のある住吉川を下り、魚崎駅から芦屋までは電車。芦屋税務署で山口徴税担当官と税務相談をする。時期が時期でもあり、非常に親切に、好意的に対応してもらい、家屋被害額を二〇〇〇万円と判定される。平成六年度と合わせ平成七年度も、所得税の過半は還付されることになる。還付額は有効活用したいが、可能なかぎりシンプルライフせ過ごしたいものだ。        
夕刻、関西国際空港でヒグチ産業の樋口社長一行の豪州視察を見送る。妻は、大阪ガスの料理教室に出席の後、心斎橋筋をぶらついた由、表情が一段と明るくなってきた。  
三月八日(水)晴   
タナベ経営大阪本社で池田専務の「阪神大震災が及ぼすインパクトとその対応策」に関する講演を聞く。 
三月九日(木)晴 
流通科学大学企業研修生に対して講義を行う。テーマは「営業第一線の危機対応」である。 ダイエー中内功会長の当日以降の最高経営者のしての決断と実行策を前段で説明し、支店長である私が何を考え、どの様に行動したかを率直に述べ、営業の何たるか、消費者指向とは具体的にはどういうことかを問題提起した。 
昼前、松葉杖でカネボウ合成の伊達静男社長来社。お互いの無事を確認し、握手する。 午後、イーグルクラブの例会に出席し、目加田浩副本部長の「二十一世紀に於ける企業経営のあり方」を聞く。原理原則経営を聞くこと自体、思考と行動に安定感が出てきた証拠と自己診断する。  
(七) 宅解体−−−「神戸の時代」の終焉  
0310
三月十日(金)雨    
朝から住み慣れた我が家の解体作業。感無量である。生憎の雨だが、埃もたたず、能率が上がるものらしい。応接間では、応接セットのうち椅子三脚は助かった。引出しに入れていた小物は搬出できたが、置物の類は破損も酷く諦めざるを得なかった。 
三月十一日(土)晴  
晴天で、解体と回収は順調に進み、昼までに略完了する。私たちにとっての「神戸の時代の終焉」でもある。涙は不思議に出なかったが、疲労感は急に、どっと出てきた。すべては終わったのだ。 帰宅後、二人の息子に端書を認める。
平成七年三月十一日十一時、恒治・淳志にとって、もっとも想い出多き神戸市東灘区森南町一丁目二番十一号の自宅の解体に伴う家財を、西部運輸のトラックで、道後に発送しました。恒治が神戸高校、淳志が本山中学入学の春に、確か入居したと思う。本当に残念だった。寂しくなった.。更に、恒治には松山で「従兄弟姉妹会」を、淳志には「旧宅へのバラード」の作詩作曲を依頼した。 
三月十二日(日)晴 
昼前、松山の林さんに電話して、神戸の家財が無事到着したことを確認する。午後、妻と上本町界隈を散策し、カラオケボックスやMJB七色の珈琲店を発見する。
三月十三日(月)雨、春雷  
事業場長会議で東京日帰り出張。 週末にかけて平成八年度の支店事業計画作成の為、盛実・和田・平井三部長との打合せが中心となる。来期は大震災の影響がまともに出てくるし、予測が極めて難しいのだが、「これ以上は悪くはならないだろう」の原点発想で、数字を積み上げていくことにする。
三月十四日(火)晴          
午後、漢方療法推進会大阪北ブロック会に出席し、大震災後の金融危機の情報を流す。特に手形ジャンプの事例は興味があるようだ。事態が深刻であることを強調したのだが、日経の夕刊に同趣旨の内容が掲載されており、大変驚く。 
三月十五日(水)晴    
夕食後、妻と気晴らしを兼ね、先週末に上本町ハイハイタウンで見つけたカラオケ店に入る。私は「裕次郎」だが、妻は「北上夜曲」「北の宿」など、自分に合う歌の選曲に余念がない。こんご時折は、二人でカラオケ・デュエットしたいと思う。現在の夫婦の置かれた立場からすると「そして神戸」を持ち歌に加えたいのだが、「大阪しぐれ」になりきろうかとも思う。もっとも、カラオケの操作方法が分からず、隣室で歌っていた若い女性に来てもらってやっとGOというお愛嬌もあったのだが−−−−−−−−。                                                                    
三月十六日(木)雨                                  
京都出張の予定を変更して、ストア課の仲川豊弘課長の実父の告別式に参列の為、河内長野市まで往復する。社員の車に同乗したので雨も苦にはならなかったが、往復四時間近くのドライブは、結構疲れるものではある。本社の松石管理担当と、喜里山薬品本部長の出席を前提に、神戸営業所再開パ−ティの打合せを進める。                         
(八)わがものと 思えど重し 罹災家具   
0317
三月十七日(金)晴 
阪神大震災から早くも二か月が経過した。自分なりに、イザという時の整理整頓が頭から離れない。時系列的に「袋入れ」をしているが、この手法が徐々に役立ってくるだろうと確信している。夕刻、伊丹空港で妻と待ち合わせ、ANAにて松山に帰省する。 
三月十八日(土)曇り  
三月十九日(日)曇り  
三月二十日(月)晴   
十八日から二十一日の午後三時まで、風邪気味のなかで、神戸から送り返した家財の整理に夫婦で格闘する。四日間、温泉町にいたのだが、外食は一度もなく、温泉に入浴する時間も惜しんでの片付けである。まさに重労働の日々であった。 お陰で、手の荒れが酷く、足の膝や腰が痛む。妻のほうがもっと大変だったから、口にする訳にもいかず、我慢するのみ。 
私としては、数千冊の書籍だけは整理、格納しておきたかったので、長屋門の一室に蔵書をひとまず集中させた。残念ながら送り返した書架ではあるが、専用の「つめ」を紛失しており、半分位しか役立たない。整理整頓は次回に延期することにした。玄関広間の本箱には全集物を揃える。「明治文学全集、和辻哲郎・福沢諭吉・正岡子規・西田幾太郎・森鴎外・夏目漱石・芥川龍之介・大塚久雄・三木清・ゲ−テほか個人全集など」。そのほかに地震で痛みが激しいのだが、吉川英治全集、現代教養全集などのどうにか全巻揃っており一安心する。    
北梅本の平岡穆さんには庭木剪定代金を支払ったが、逆に「お見舞い」を頂戴したり、長屋門の本葺瓦の改修やら本屋の手入れをお願いした三実建設さんからは都築健二社長、木下専務)がお揃いでお見舞いにみえ、随分高額の「お見舞い」を頂くとともに長屋門の門扉や御影石の敷石の支払い猶予を申し出て頂いた。別にお金に不足しているわけではないが、ご好意は素直にお受けすることにした。また、パイプ小僧松山の田中謙介部長には、留守中の下水管の工事で、敷地内の基礎調査を含めて大変世話を掛けてしまったようだ。
松山での最終日は、菩提寺である義安寺への墓参り、伊佐爾波神社・湯神社(湯祈祷)参拝やら、昔ながらの行事を済ませる。
三月二十一日(火)晴                                                   
朝九時前に、日本通運の「単身パック」で洗濯機、冷蔵庫、ふとん、衣類など、必要最少限の家財を大阪のマンションに送る。昼時、山地真子さんが、お彼岸のおはぎを持ってお見舞いに来られ、二人は久しぶりの姉妹の会話を大声で楽しんでいた 。 夕五時過ぎの大阪行きANA便で松山を発つ。夕食は、大阪のマンションだから、松山−−大阪の距離など、時間的には短いものではあるのだが−−−−−−−。 
(九)期末の「詰め」は、「次の一手」  
0322
三月二十二日(水)曇り  
久しぶりの出勤である。デスク上の書類整理と一週間分の新聞などの情報を切り抜きしていると、昼前になってしまった。JRで住吉駅まで行き、タクシ−で阪急御影駅、そこからは阪急が三宮駅まで乗り入れている。JR・阪急・阪神の復旧工事は連日連夜続いており、大方の予想ではJRが全国から応援を組んでいるので早期に全線開通の見通しで、阪神間で一番南を走っていた最大の被害が出た阪神電車は最も遅れて秋に全線開通するかどうかというところらしい。個人的にも、阪神電鉄の株主であり、頭が痛いところだ。 
神戸の対策は大阪でなく神戸で考えたいというのが、支店長である私の発想のベ−スであり、「地図と現地の齟齬は、現地が常に正しい」と本社にも言い続けてきたので、大被害を受けた営業所内で、盛実勉部長、福岡正義課長と打ち合わせる。          
主題は、@営業所再開条件整備と具体的スケジュ−ル A平成七年度の体制づくり B異常事態における平成六年度人事考課・実績評価査定の基本的な考え方である。私なりに腹案を持ってはいたが、現地の部課長の見解を最大限尊重するつもりである。帰りは、連絡バスと阪神電車を利用したが、自宅までおおよそ二時間半を要した。 
一方、妻も震災関係の手続きのため神戸に出向き、家屋廃棄処分手続き、震災見舞金(僅か一〇万円)受給手続きを済ます。昼には、次男が勤務する三和銀行三宮支店に顔を出し、次男と昼食を一緒にし、銀行の「粗品」(背広入れケ−スバッグ・ポリラップ・タオルなど)を一抱え貰って帰る。当分は、尚子と別居が続くらしい。菩提寺の義安寺から送られてきた「星祭りの御札」を息子夫婦に、近況を付して送る。  
三月二十三日(木)曇り  
朝一〇時に駅前第三ビルにある潟Xタ−ツを訪問し、担当の沖光二氏に合い、解体家屋の撤去作業の段取りを詰める。神戸市の都市開発の対応が微妙に変化してきており、申請から解体廃棄承認迄六ヵ月が必要となった。さらに遅れる可能性もあるという。被災地での新築ブ−ムを冷やしているのではといった穿った発言もあり、同社としてもハッキリとしたことは確認できないということらしい。税制の特例や跡地活用のこともあり、もっと情報を入手して、自分なりに検討する必要がありそうだ。                          
午後、平成七年度計画案を本社に送る。震災があったとはいえ、支店の実力は十分ついてきたと考え、基本路線は別として、来期は部長に大幅な権限を与えていきたいと思う。 鐘紡本体の経営陣への復帰については、求められれば別だが、あえて望むこともあるまい。地震を契機に、ビジネスマン人生以外の豊かな人生を模索していくことも考えて生きたいと思う。
(十)売上足りて 銭足りず     
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三月二十四日(金)晴のち曇り 
朝から、大手取引先のセガミメディックスとの回収トラブルの処理に忙殺される。この忙しい時にとカッカしてくるのだが、担当者の責任回避的発言多し。遂にトップが言ってはならない「進退伺を覚悟しろ」と爆弾を落とす。後味は悪い。昼前、ブティックの山浦直次郎総務部長が本部での賃上げ徹夜交渉の帰りに立ち寄り、見舞金を頂戴する。
東京本社の移転が具体化し、住友銀行の斡旋で、田町の海岸通りに新設したヨコソウビル入居が近々プレス発表とのこと。いよいよ本丸明け渡しか。資金繰りから判断すれば、長期的には、大阪都島の本部・研究所と繊維部隊が入居している大阪駅前ビルの明け渡しまで追い詰められことになりはしないか。経営的には心配の種は尽きない。
午後、芦屋税務署に出掛け、確定申告の手続きを済ます。総収入は一五00万円だが、震災による雑損控除が一九00万円があり、結果的には一三〇万円の還付となった。翌年以降の繰越が七〇〇万円あり、来年も若干の還付を受けられそうだ。 
三月二十五日(土)雨   
花粉症なのか、鼻が痒く鼻汁が出る。「小青竜湯」を服用するも、ずーと調が悪い。  休日ではあるが、午後から支店に顔を出すと、セガミメディックスとの回収トラブル処理で業務関係者は出勤中。売上・回収の対計画比、対前年実績比、対業界伸長比という量的比較も必要であるが、バブル崩壊後の今日の指標は営業利益・経常利益の絶対額確保と営業マンのP/H(営業生産性)であるべきだと思う。 四月の支店全体会議で発表する支店方針の構想を考える。キ−ワ−ドは「プロセ−ルスマン」で「支店業績寄与額査定」である。本社の対応は旧態依然であるので、支店独自の業績評価システムで、採算向上をはかることにする。        
妻は、終日、道後から送り返した家財の整理をしているのだが、マンションは作り付けの棚があまり無いので、荷物が片づかない。マンションの快適な生活には収納が必要条件だが、必要以外の物品は「買わない、置かかない、貰わない」ことが肝心なことかもしれない。当方は、目下の住まいは「疎開先」であり、積んでおくしか致し方ないか。 
三月二十六日(日)雨 
妻と二人で、天王寺までぶらりと散策する。ハイハイタウンから上町筋を南下、谷町筋にある大阪星光学園正門脇の芭蕉の句碑「松風の軒をめぐりて秋くれぬ」、勝鬘院愛堂、大江神社に立ち寄る。境内は静かである。  四天王寺は相変わらずの善男善女の賑わいである。甲羅を干す亀の姿が愛くるしい。  昼食はYKKのとんかつ。帰途ハイハイタウンに立ち寄り、カラオケの熱唱は「いい日旅立ち」「北の宿」など。近鉄阿倍野店、ス−パ−共栄堂でショッピングして、土地勘を広げる。セシ−ルの通販で、デスクセット(三万円)注文−−−やっと本が読める環境になる。 
三月二十七日(月)晴 
三月度定例役員会のため上京する。今回は、阪神大震災後の信用不安と都心部の復旧状況につき詳細報告する。残念ながら、本社の数字中心発想と現地の問題意識とのズレが埋めきれない。日帰り出張だが、車中では仮眠が多くなる。春なのだろうか、それとも疲労か。 
三月二十八日(火)晴  
京都営業所で、和田部長、武内健蔵課長と、京都営業所の来期方針を詰める。具体的なイメ−ジが浮かんでこないのは、戦術はあっても戦略がないかただろうか。地域戦略が決定的に欠如していることを痛感する。 
午後は、武内課長の車に同乗して、円町、四条、錦市場、北大路など繁華街の営業拠点を回る。量販店の「京都包囲作網」がいよいよこれから本格化してこようし、現地はもっと危機感をもって対処してほしいのだが−−−−−−。                京都は京都独自の商圏を頑に守っており、徹底してよそもの余所者を嫌う。「応仁の乱以来」といった言葉を耳にすると、あまりの歴史の重さに圧倒されるが、閉鎖流通の京都は薬品のOTC売価がもっとも高いし、メ−カ−の仕切り値の高く、収益率も高い。結果としてその皺寄せは、一般消費者が被っているのだが、目下のところ「眠れる京都」は目が覚めていない。流通事業の積極的な市場拡大を眺めていると、早晩、少なくとも二〇世紀末までには、古都京都も包囲網が確立して、その網から逃れられないのではと推察している。                                                                   
(十一)「サシスセソ」症候群  
0329
三月二十九日(水)晴   
花粉症か、朝から鼻ばかりかんでいる。
流通科学大学から学生の採用について、担当の山雄さんが来社する。大学の情報誌のほかに、中内功理事長(ダイエ−会長)が毎週ダイエ−・ダイエ−コンビニエンス・大学に発信している葉書メッセ−ジを纏めた冊子を頂戴する。この冊子は、学生の父兄にも送付しているとのこと。中内功ダイエ−会長をめぐっての毀誉褒貶をよく耳にするが、直接「消費者=父兄」への働きかけは、「さすがに」の感を深くする。毎日を修羅場で生きている経営者だけ 教育という「モノづくり一年、土づくり一〇年、人づくり一〇〇年」にかけるロマンは激しく、豊かなものであろうか。     
夕刻、元人事室長の矢島康弘さんの母堂の通夜式に参列する。連絡の不手際もあったのだろうが、鐘紡からの花輪もなく、関係者中経営幹部はカネボウ電子の玉垣喜三社長(同期)のみという寂しさである。人事労務後輩の中川裕文、市川邦彦、野村忠夫君達に出会う。 
三月三十日(木)豪雨   
期末であり、各種デ−タの分析を中心に時流を整理する。思いつきだが、「サシスセソ症候群」なるキ−ワドを作成。目下、自画自賛中である。
  サリン       (新宗教、終末思想、無差別殺人)   
  震災        (大都市災害、震災手形、都市計画、活断層)
  ス−パ−三〇一条  (規制緩和、対米収支、APEC、覇権主義)
  選挙        (五十五年体制、ネジレ、中央・地方、官僚性)
ソ  底値        (円/ドル、株価、土地、バブル、金融破壊)
全国的な豪雨である。お陰で花粉症はおさまった。      
三月三十一日(木)晴  
期末業績(速報)が纏まる。全支店の情報は不詳であり、支店単独の評価ではあるが、売上対計画達成率が九十八%、回収対計画達成率が九十四%で、阪神大震災の直接の影響を考慮すると、合格点であろう。期末業績(速報)が纏まる。全支店の情報は不詳であり、支店単独の評価ではあるが、売上対計画達成率が九十八%、回収対計画達成率が九十四%で、阪神大震災の直接の影響を考慮すると、合格点であろう。
元来強気ではあるが、今回に予期せぬ地震には、正直いって参った。着任以来一年半で過去債務は殆ど消去して、平成六年下期は対計画をクリアする見込みであったし、全体のモラ−ルも上がっており安心していたのだが。それはともあれ、一月以降の二ヵ月半の営業は大変厳しかったが、ここまでの業績を挙げ得たのは部課長の指導性と営業マンのひたむきな活動であり、支店長としては全員を高く評価してやりたい。
次男から電話があり、今回の三和銀行の人事で、同期のトップクラスで支店長代理に昇格したとのグッドニュ−スである。声も弾んでいる。「よかったな。おめでとう。明日、都合がつけば家族で食事をしようよ。」と誘う。妻と相談し、梅田の「光楽」を予約する。会社員にとって、始めての役付きほど印象に残る、嬉しいことはあるまい。私も三十二歳で本社の人事部人事係長の任命を受けた時、会社で始めて幹部として認知を受けたきがしたものだった。次男にも、サラリ−マンの大先輩としてのアドバイスをしてやろう。 
暦の一日で、私どもを取り巻く環境がそれほど変わることはなかったが、平成七年一月十七日の阪神淡路大震災は、一瞬で人の運命すら変えた。私どもも、人生で始めて「人生の中断」を味わったことになる。三月末までの一ヵ月半は、まさに疾風怒濤の一日一日の積み重ねであった。明日から四月に入る。
「SPRING HAS COME.WINTAER IS OVER.」である。ドキュメント風に記述してきたが、正に、一日一日が「人生の積み重ね」を実感した一カ月半であった。無我夢中で過ごしてきたのだが、四月からは少しは落ち着いた生活が始まるのではないかと思う。