第八章 疎開先の新生活      住めば都 井の中の蛙ミナミを知らず    
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(一)天王寺区小橋町ライオンズマンション   
一月十七日早朝の、阪神淡路大震災からの数日は、第一章に記述したが、ただただ生きるための生活行動パターンであった。本多の兄夫婦の尽力で、鶴橋のライオンズマンションの手配が一週間後につき、一月二十四日夜八時に始めてマンションの鍵を受け取る。その日は、朝から森南町で片付けをしており、往復とも西宮から芦屋までの八キロを歩いたので、正直言って疲労困憊であった。横関工務店が運んでくれた荷物を部屋に引き上げ、その夜は布団もないので、新大阪トーコーホテルで宿泊した。その後、松山に戻り、運んだ家財を整理していたので、疎開先の生活がスタートしたのは二月に入ってからである。                                                      
異常事態では、精神力もそうだが、肉体的にも極度に緊張しているので、あまり悩みや愚痴をいうこともないのだが、雨露のしのげる、安眠できる、食事も日常的になってくると、いっぺんに抑えていた鬱折した気分が表面に出てくる。会社で責任ある地位にあって部下を叱咤激励している私にして、愚痴を言いたくなってきているから、発散の少ない妻には、考えられないくらいのストレスが溜まっているのだろう。 
メンタルヘルスとか洒落た専門用語もあるが、個人的にはここで妻に寝込まれてはどうしようもない。妻の三十数年の思い出も、作品も、人間関係も一瞬に喪失した以上「上を向いて歩こう」とは言えないまでも、なんとか「前を向いて歩く」しかない。 @まず寝ること(暗くすると怖くて寝れない)とA腹一杯食べること(なかなか食べられないのだが)とB夫婦で話し合うこと−−−から、疎開先の新生活は始まった。      
二月七日は、富山の藤村幹夫君から名物の鱒すしと清酒「立山」が届き、前田喜与子さんが激励に訪れ、ロブスターの土産を頂戴し、和・洋折衷の豪華な晩餐となる。翌八日には、纏まってお見舞いの手紙やお見舞いの品物が疎開先に続々届くようになった 。折り返し近況を知らせることで、緊急避難の自分なりの整理をすることにした。 
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(二)マンション生活一年生    
家具も殆どなく、物不足の昭和三十五年の新婚時代に較べても、箪笥なし、本箱なし、冷蔵庫なし(たまたま真冬だったこともあるが)、洗濯機なしの状態は、生活保護の最低水準を遙かに下回っていたし、マンションに居ても、男は正直なところなにもすることがない。健気ということがあるが、妻は健気に、神戸市東灘区役所に出掛けて罹災証明書の交付や現地の整理や次男宅に運んだ荷物の片付けや・・・・・暇になって考え事に耽らないように一生懸命身体を動かしているようだ。  
二月二十六日の一部解体から三月十日の家屋解体迄の半月は、二人にとっては「積木崩し」であり、「思い出崩し」でもあった。時には掘り出し物(諦めていた品物)を手にして気分の和らぐなどの日も僅かながらあったのが、救いでもあった。 
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(三)ストレス−−−−被害者意識を越えて   
二月一杯は、神戸現地の片付けと、新しいマンションの整理もあり忙しかったが、一応の落ち着きを取り戻すと、がらんとした室内で夫婦が語ることと言えば、生活の中断であり、思い出の崩壊であり、地震の恐怖の体験であった。 「死んだ子の歳を数え」ても、済んでしまったことは取り戻せないのは分かりきっているのだが、どうしても愚痴っぽくなってくる。 勤め人である私は、朝マンションを一歩出ると、ビジネスの世界が展開するのだが、妻は終日家に居るだけに、私の帰宅とともに機関銃のように鬱積した思いが吹き出てくる。 聞き役に徹することが必要とは承知していても、時には言い争いになり、時には同調して二人でしんみりしてしまうことも多い。                                                        
神戸に居れば、被害者が大勢いるだけに、被害者意識も程々でおさまるのだろうが、大阪では近くに被害者とていないだけに、「なんで我々だけが・・・・・」の気持ちを強まりこそすれ、弱まることにはならない。このままでいくと「阪神大震災症候群」患者になることを危惧しはじめた。応急措置としては、くよくよする時間がないほど自分を忙しくすること、要は何かに集中する時間を持つことが最良の治療法と判断して、妻は大丸の婦人服の縫製直しを自宅でこなすこととなった。 もともと洋裁は好きであり、結果的には最良の治療薬になったようだ。 
マスコミに発表される「阪神大震災症候群」から、@真っ暗にして安眠できるA地震の夢をみなくなるB軽度の地震があっても。恐怖感を感じなくなるをクリアできれば、まずは心配いらないだろうと自己判断した。真っ暗にして安眠できるようになったのがいつだったのか、明確な記憶はないし、記録もない。そういうものだろうと思うし、それを気にしているようでは、バリアを越えていないと逆説的には言えるのだろう。 
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(四)すべてを洗い流そう 
七月の声を聞き、震災後半年が経過するので、この当時の気分を比較的自分に正直に記述した挨拶状をワープロ印刷して、返礼には「すべてを洗い流したい」との気持ちを込めてカネボウ石鹸とした。 
暑中お見舞い申し上げます。早いもので阪神大震災から半年が経過しました。その節には、心暖める御激励やら  御見舞いを頂戴致しまして、心より御礼申し上げる次第です。三十年に亘り住み親しんだ芦屋・神戸東灘の地を離れ、大阪ミナミの居に落ち着き、妻共々恙なく過ごしておりますので、他事ながら御休心の程願い上げます。                                                                        東灘区森南町の再開発は数年先の見込みであり、当面は新築を諦めざるを得ない状況です。とは申せ、阪神大震災とは一応の区切りをつけたく、別便にて気持ちばかり  の御礼を御送付申し上げましたので御受納下さいませ。一月末松山に帰省し、家族の無事を霊前に報告の上、温泉で疲れをとりましたが、湯滝口に彫られた「十年の汗を道後の湯に流せ  子規」を見て、忘れかけていた自分を取り戻した気分になりました。                今年は冷夏とやら・・・・・気候不順な折柄、呉々も御自愛専一の程記念申し上げます。先ずは御礼と近況御報告迄。
阪神大震災の直接のストレスである「自分たちだけが、なんでこんな目に会うのか。 といった被害者意識が徐々に薄れてきた。癌の告知を受けた患者が 「自分たちだけが」と自暴自棄になり、やがて諦めの境地に入り、終末を迎えるというパターンであり、メンタルヘルスを癒すには、夫婦の共同作業が最も望ましいと思った。結婚式などで「喜びを二倍に 悲しみを半分に」と夫婦の在り方を述べるのが一般的だが、実際に被害者になって感じることは、「悲しみを半分に」は与えるほうの理屈であって、与えられるほうは必ずしも「半分に」にはならない。持てるもの、幸せな人への僻みすら生じる。
癌で入院した患者を見舞うことは、見舞いにくる方は義務を果たした気持ちだろうが、患者のほうは、元気な友達の姿を見て、「なんで自分だけが」と思い、見舞客が帰った後で布団をかぶって悔し涙を流すのも真実である。「喜びを二倍に」は余程の親友でないと出来はしない。会社の出世街道でもそうだろうし、親戚だってあまりに大成功すると付き合い辛くなるものだ。 この点、銀婚式を了えた私ども夫婦にとっては、素直に「喜びを二倍に 悲しみを半分に」受け入れることが出来るし、夫婦揃ってメンタルヘルスを健全に維持しなければ、苦況を乗り越えては行けない。 
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(五)妻との「ちょっといい旅・ハイク」 
前向きのストレス克服は、狭っくるしいマンションから飛び出て、大自然に触れることだろう。夫婦で出掛けたハイキングなどの外出を時系列的に挙げてみよう。四月 桜とともに、妻とハイキングに出掛けることが多くなった。お互いに相手へのいたわりからか、手はつながないものの、心は結ばれているなという感じではあった。心の痛みを和らげてくれるには、古き奈良であり、京都であり、斑鳩の里であった。           
四月三日(日)
暖かい陽光の下での大和路散策は、大震災以来、定番ユニフォームとなったリュックを背負ってのハイキングである。近鉄新大宮で下車、暫く歩くと佐保川に出る。奈良市内から随分西に当たり、観光客も少ない。普退寺(通称業平寺)を経て、山裾にそって歩くと、ウワナベ古墳、コナベ古墳が見えてくる。古墳の主は特定できないようだが、大和朝廷に縁のある有力者であろうか。古墳を取り囲む池畔で小休憩。そこから、お目当ての海竜王寺と法華寺に参詣。総国分寺尼寺であるだけに、構えは壮大である。本堂裏のお庭の茶室の佇まいも心和む。気儘に西に歩き、平城京の広大な広場で春風を胸一杯吸い込み、夕日を眺める。
四月十六日(土)
天候はいまひとつであったが、飛鳥の里で過ごすことにして、大化の改新の立役者藤原鎌足の拠点であった多武峰からスタートする。談山神社は、峯々の緑の中に、朱色が鮮やかに冴え、村人の結婚式に出会う。談山神社は大化の改新の密談の場所でもあり、その昔の飛鳥の宮廷へ道筋を辿って、長い道のりを歩く。飛鳥石舞台から岡寺(東光山竜蓋寺)に回り、更に橿原神宮にまで足を伸ばす。    私どもの「地震の改新」も、原点からのスタートだなと心新たにした。
四月十七日(日)
雨でもあり、奈良国立博物館開館百周年記念特別展「日本仏教名宝展」に揃って出掛ける。正面に設置された鑑真和上座像(唐招提寺)を前にして、生きている高僧を前にしている感じとなる。あれ程の艱難辛苦の末、日本に招提された鑑真和上を前にして、阪神大震災がなんと小さい私事に過ぎないかを悟った。大いなる生き甲斐を前に甘えることなかれと叱声していただいた。これほど素晴らしい仏像に出会ったのは始めてのことであった。それ以外にも、御物法華経義□(聖徳太子真筆)、良弁上人座像(東大寺)など、日本を代表する国宝が多く陳列されていた。東京国立博物館鷲津学芸部長の「鑑真和上の旅」と題する公開講座を聞く。帰途、その昔は、東大寺に匹敵したであろう西大寺を参詣する。今はお参りする人も少なく、地元の老人、子供連れが多い。  
五月の黄金週間 
恒治・淳志夫婦も合流して、故郷松山に帰省し、墓参りと大震災で送り返した家財の整理をする。道後の家にファミリーが集まるのは、二十年ぶりであろう 道後の本宅にファミリーが集まるのは、二十年ぶりであろうか。父母が生存していれば、どんなに喜んでくれたことだろう。久し振りの道後温泉の入浴で精気を取り戻す。 
五月二十日(土)
山の辺道の出発点でもあり終着点でもある天理を散策する。 駅前のロータリーにある「ようこそおかえりくださいました」の垂れ幕は、天理教の発信ではあろうが、大震災で打ちのめされた古傷を持つ者にとっては、この上ない安らぎのメッセージである。天理教本部の本殿に上り、見よう見真似で天理王命にお祈りをする。 新緑の、むしろ暑く感じる山道を半時ほど歩き石上神宮を参拝する。「なにごとのおわしますかは知らねども」だが、鬱蒼とした神域と鶏の声を聞くと、日本の最も古い神々に会ったような気にもなる。帰途は、関西で最も新しい「けいはんなプラザ(親水公園)」を散策する。
六月
大和郡山の矢田寺のあじさい、大阪都島の城北公園の菖蒲園、万博記念公園の日本庭園を散策する。 
七月
京都の祇園祭
八月
お盆の墓参で松山に帰省する。
郡上八幡、丹波篠山、播州竜野、御所の葛城山と、紅葉と秋晴を求めての「ちょっといい旅」を夫婦で続ける。この頃になると、すっかり大震災ショックからは立ち直っており、時には愚痴が出ることはあっても、「これも災難」と割り切って、これからの生活に向かっての計画をたててみようという気持ちになった。
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(六)臨危不変 
「阪神大震災私記」の副題は「臨危不変」とした。この言葉は、平成七年秋の播州竜野の「ちょっといい旅」で、私の心を打った言葉である。平成八年の年賀状にもこの言葉を使った。 
実は、この言葉は、日本を代表する哲学者西田幾太郎が愛弟子三木清に送った揮毫である。昭和初頭、軍国主義化する日本で、象牙の塔から一歩も二歩も踏み出した三木清にも思想的にも、行動的にも迷いは多くあったのであろう。恩師が愛弟子に伝えた「臨危不変」こそ、真理の不変なることを凝縮したことであろうし、弾圧の中で「不変の行動」をする愛弟子への惜別のメッセージかもしれない。「たかが地震の被害くらいで何をバタバタしているのか。この大馬鹿野郎。今まで、人生について、学問に関して此処まで悩んだことがあるのか。人事マンというが、これほど他人の為に悩んだことはあるのか。」と叱責された感じを抱いた。                    
春の奈良国立博物館開館百周年記念特別展「日本仏教名宝展」での鑑真和上座像(唐招提寺)に威圧され、「大いなる生き甲斐を前に甘えることなかれ」と直観した時の感動と同じであった。「臨危不変」なる言葉が、私自身の基軸になってから、気負いもなくなり、自然体で 「阪神大震災後症候群」に向き合うことができるようになったと思う。因みに、この言葉に触れたのは、十一月初旬の竜野への小旅行中の出来事であり、その日の日記をそのまま記録に留めておこう。   
十一月十九日(日)
 妻との「ちょっといい旅」は播磨の小京都竜野の紅葉狩り。今回はJRふれあいハイキングに合流し、姫新線本竜野駅を十一時に出発す。約一五〇人参加。ヒガシマル醤油工場から揖保川を渡り、うすくち醤油資料館−−如来寺−−三木露風「赤とんぼ歌碑」−−竜野神社・聚楽亭(昼食)−−もみじ谷−−霞城館(三木露風・三木清・内海青潮・矢野勘治<鳴呼玉杯にの作詩者>)−−竜野城(歴史文化資  料館・本丸御殿)−−−−と見物する。
聚楽亭もみじ谷入り口の紅葉は見事なり。あと一週間で全山紅葉か。脇坂藩五万石の城下町だが、鉄道から離れているだけに眠ったような町で、下川原 商店街もまったく買い物客を見かけない。醤油は○東で、協同組合運営である。山の中腹にある国民宿舎赤とんぼ荘で後日一泊したいものだ。
聚楽亭に保管陳列されている西田幾太郎から三木清に贈った「臨危不変」の額は、時代背景と歴史的事実を考えると、魂を揺さぶる言葉である。私にとっては、永く記憶に留まる「回天の言」である。午後三時過ぎ、帰路につく。四・五キロの行程だが、秋を十分に満喫できた。
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(七)「脳内革命」−−−−−夜散歩と瞑想    
休日は妻との「ちょっといい旅」が、日帰り旅行から一泊旅行にと充実し、夫婦の話題も、地震から離れて、その土地その土地の自然や人情や民俗・民芸へと話題を広げていくようになった。ウイークデイは、TVを眺めていて「阪神大震災特集」の画面になれば、夫婦の話題は「夫婦が直面した悲惨な地震」の話になり、最後はお通夜みたいな雰囲気になる。この事態を救ってくれた「バイブル」は、平成七年から平成八年にかけて、ベストセラーになった春山茂雄(田園都市厚生病院院長)氏の「脳内革命(上・下巻)」がある。
「脳から出るホルモンが生き方を変える」かどうかはともかく、「プラス発想こそが心身にとって最高の薬」との著者の主張は、当時の私には素直に受け入れたかった。特に、そのポイントが @食事 A運動 B瞑想 の三つであり、自分がやる気になれば、日常的、習慣的な生活パターンになるので、案外実行できるのではないかという気持になった。 夫婦ペアが理想的だが、まず私が実行してみて、それから妻に勧めようと考えた。震災後の対策も一段落し、午後六時半には定時退社できるようになったので、夕食後の散歩から始めた。歩きながら考えることは楽しいし、震災の時購入したウオーキングシューズの履き心地もよく、一時間内の「夜散歩」で、自分なりの「脳内革命」の第一歩を踏み始めた。当初の「夜散歩」コースは行き当たりばったりで、迷子になることもあったが、そのうち定番コースが決まった。                                                                 
第一のコースは、近鉄上本町からの「上町歴史散歩道」ルートである。千日前通 [小橋町] から、創価学会文化会館→高津高校→大阪明星学園を経て空堀通  を渡り、大阪クリスチャンセンター→聖マリア大聖堂(高山右近・細川ガラシャ記念  像・マリアと三人の子供像)→大阪女学院→越中公園・越中井(細川越中守忠興屋敷跡/細川ガラシャ自害の地)→(大阪城公園)である。
第二のコースは、千日前通〔鶴橋〕からの「真田山・宰相山公園ルート」である。真田山公園での犬の散歩族の輪を抜けて、競技場の夜間練習を眺め、真田幸村銅像・ 大阪城への真田地下抜け道→三光神社を経て長堀通に出る。帰路はJR玉造回りか、寺町通りを通ることになる。 明かるければ、大阪靖国霊園と興法山興徳寺(池の鯉が素晴らしい)を追加する。
第三のコースは、「四天王寺コース」である。谷町筋(高津神社→生国魂神社→夕陽丘/家隆塚→愛染堂)か上町筋から四天王寺くまで足を伸ばす。
第四のショートコースは、「上本町界隈」である。近鉄都ホテル・近鉄劇場・ 国際交流センター・清風学院・大阪赤十字病院・聖バルナバ病院やハイハイタウンのショッピングアケードやカラオケに顔を出す。晩酌のほろ酔い加減で歩き出すのだが、そのうち心身共にリフレッシュして爽快な気分になる。マンションに帰るころは、程よく汗ばみ一風呂浴びることになる。 
真冬でも雨の日も、創価学会文化会館界隈の辻々には青年部の屈強な青年がガードに立っており、上町歴史散歩道には「夜散歩」を楽しむ女性ペアや中年の夫婦ペアも多い。公園では、毎日が犬の品評会と情報交換会で、ハイハイタウン前の広場での「河内音頭の盆踊り」は浪速ならではの雰囲気である。神社や寺町の行事は、夏から秋にかけては、いつも、どこかではやっているようで、ふらっと覗いては祭りの雰囲気を楽しんだ。  
妻も、週二乃至三回は一緒に「夜散歩」を付き合うようになり、二人にとって一日の話題を、歩きながら、公園のベンチに腰掛けながら、ウインドーショッピングしながら語り合うのが日常になり、震災から一年半後には「阪神大震災後遺症」からの卒業間近になってきた。 
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(八)鶴橋と上本町−−−山の手と下町の同居    
鶴橋の地名は、阪神族では「焼肉の臭い町」であり、住んでみようとも、行ってみようとも思わない町であるようだ。芦屋で三十年過ごした私ども夫婦も、当初は戸惑ったが、あまりに落差が大きく、却って抵抗なく「鶴橋のおじさん・おばさん」になることができた。とにかく鶴橋は、戦後の闇市から発展した町であり、商店街はその当時のエネルギーがそのまま充満しているようだ。
品物は豊富で安い、店の人は親切で知識豊富、キムチや焼肉とチマ・チョゴリの雑居、日本語と朝鮮語が入り交じる−−異文化と浪速文化が混じり合った町とでもいうのだろうか。江戸前にぎりの「栄鮨」、焼肉の「鶴一」、お好み焼きの「風月」など、店の雰囲気が鶴橋独自である。特に「鶴一」は、一時間待ちが普通であるが、待ちくたびれてやっと焼肉にありつくと、こんなにも旨いものかと舌鼓を打つのが常であった。西に一キロも歩けば、都会センスの上本町があり、近鉄の本社所在地であり牙城でもある。その中間に私どもが住んでいるマンションの所在する天王寺区小橋町がある。
この界隈は朝鮮(百済)の帰化人が多く住み、仁徳天皇はたびたび行幸され猪甘津(いかいつ)の丘で休まれた。この丘に「行幸森(みゆきもり)天満宮」があり、猪甘津(いかいつ)に架けた橋が、「小橋(おばせ」)であり、最も古い橋の周辺で白鶴が舞っていたので「鶴橋」であるという。当時の先進国朝鮮の諸国家(百済、新羅など)を最初に迎え入れた迎賓館が四天王寺であれば当然のことだが、朝鮮に関する地名は随分多いのに驚き、戸惑った。  
例えば、近くにJR森の宮駅があるが、森之宮神社の正式の神社名は鵲森宮(かささぎのみや)で、新羅から献上された鵲を難波の森で飼ったことに由来するらしい。鶴橋(小橋町)に住むことにより、朝鮮の歴史、民族、風俗、習慣を身近に見聞して理解が深まったのは、予期せぬ幸運だった。この機会に勉強をとは考えたが、平成八年秋には東京へ転勤したので、折角のチャンスを物に出来なかった