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おわりに 天災は忘れなくてもやって来る |
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平成七年一月十七日午前五時四十六分−−−阪神大震災が発生し、家屋倒壊の中で恐怖を体験したが、徐々に恐怖は薄れ、記憶も曖昧になっていく。 失ったものは数えきれないほど多いが、危機に瀕した時、いかに家族の絆が大切かを痛感したし、住民の連携の有難みも感じた。それ以上に、自分という存在を確かめることができた。 |
戦後の高度成長やバブルの異常さの中で、人間生活と直接関係のない虚飾に酔った街の生活がいかに虚しいものかを教えてくれたような気がする。総てを失って、この世は「色即是空 空即是色」であり、「無一物即無尽蔵」こそ豊かさであることを知った。被災者という「差別存在」の中では、被災者は互いにいたわり励ましあう共同体の一員であることも実感した。 行政も、警察も、消防も、コンビニも、平時では考えられない程のエネルギーで与えられた使命を果たそうとしたのは事実だが、十分とは言いがたかった。十年に一回、百年に一回の為の「危機管理」を経済的、社会的に許すほどには、現代は豊かでないし、自己犠牲的でもない結局は、「自分のことは自分で守る」ことが一番大切であることを知った。同時に、お互いを信じ合い、励まし合い、知恵を出し合って、心の充実した生活を築くことが、いかなる危機に遭遇しても、絶望に至らない人生ではないかと悟った。 |
rinki |
「臨危不変」であれ。 |
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その為には |
(1) |
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素直に生きよう |
(2) |
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信じ合うなかに悦びを見出そう |
(3) |
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生活の知恵のなかに実りをもたらそう |
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をモットーに、自宅の再建とともに、心と身体の健全な発達を目指していきたい。 |
ikite |
生きて、生かされて |
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−−−−結びにあたって、震災一年後の生活をここに記しておきたい。 |
平成八年の元旦は郷里松山で迎えた。 |
0101 |
一月一日(月)晴 |
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何年振りかの故郷での正月−−−−−母が元気だった頃だから、十五年は経っているのだろうか。感無量である。正月の飾り物、屠蘇一式の所在が不明で、お雑煮だけの形ばかりの元旦の朝を迎える。雑煮の餅は三っ。ローソンで愛媛新聞、日本経済新聞を求める。三十六頁は新書並みである。食後は 庭の散策。穏やかな朝である。 昼食は、予約していた旅館ふなやの和風レストラン「葵苔」の懐石。食器も揃っており、正月の華やかさあり。福引は干支の置物。ロビー展示室には、「天皇の御宿」としての逸品を披露。食後は、別館の温泉(檜風呂、岩風呂、露天風呂)で初風呂。伊佐爾波神社に初詣。温泉街を通り、白鷺通りを上り、かわきち別荘内「桐壺」で珈琲を飲む。砥部焼き「くに子人形」が愛くるしい。夜は茶の間でTV。 |
第四十回実業団駅伝競技大会で鐘紡十八年振りに優勝。昭和六十年から六十四年迄、防府工場長として、中国地区実業団競技連盟の会長として面倒を見てきただけに、感無量である。今年は、私にとっても良い年であるような気持ちがする。 |
そして、一月十五日、阪神大震災一周年を迎える。 |
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一月十七日(水)晴 |
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平成七年一月十七日午前五時四十六分−−−−−我が人生で決して忘れてはならない一瞬である。朝五時半に起床し、TVのスイッチを押し、神戸の現地の放映を見ながら黙祷。妻に一年間の労苦を心から感謝する。長くもあり、短くもあったこの一年−−−−危機は完全に乗り切ったと思う。 |
午前九時、神戸営業所で、震災祈念式を挙行。社長回章の朗読、メッセージ(喜里山社長、松石事業部長、福岡前神戸営業所課長)の披露の後、支店長(私)挨拶。震災直後のミーティング内容を改めて披露し、「自立」のメッセージを贈る。午後、漢方療法推進会大阪中ブロック会に出席し、新春の挨拶。 |
夜、妻と大阪城ホールの「阪神淡路大震災チャリティーコンサート」に出掛ける。司会は和田アキ子と葛西聖司NHKアナウンサー。出演は都はるみ、堀内孝雄、坂本冬美、川中美幸、香西かおり外の豪華メンバーで関西出身の人気歌手の総出演となった。 慌ただしく、祈念すべき一日が過ぎる。生きていて良かった。 |
以 上 |