第四章 ストレス克服へ   あるがままに生きる
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二月四日(土)晴、寒し  ファミリー集合
朝九時に家を出る。阪神電車は、リュックサック姿の人・ひと・ヒトである。甲子園から徐々に被害が酷くなってくる。芦屋駅から妻と歩く。被災地の元の建物や立木を思い出しながら、またエレクトーンの先生や津知町の知人の消息を話題にしながら、やっと森南町に着く。早速片付けを開始する。程なく長男夫婦(恒治、有紀)が来る。午後一時頃、次男夫婦(淳志、尚子)も来る。妻は台所中心、恒治は思い出探し、有紀もよく手伝う。妻は、料理メモ、財布を発見し大満足そう。私個人としては、アルバムを捜し出したいのだが−−−−−−−−− 。
松下電工で長男の上司である柚山所長も挨拶に来られる。活動的な営業マンの姿がそこにはある。松下電工からのお見舞いを頂戴する。鐘紡の見舞金が未支給だけに、些か気がひける。次男夫婦とは阪神梅田で別れ、タクシーで上本町に戻る。 三人で近くの「海南亭」で焼肉を食べ、精力をつける。片付けはキリがないが、やっと山を越えたかなと思う。
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二月五日(日)曇り一時雪  体調崩れるが、機関車は止まるわけにはいかぬ
風邪気味で体調は良くない。熱もある。ワープロで「三行日誌」を取り纏める。自分との対話となると、六十歳にして自分が築いた「財産」の総てを失ったショックの大きさは想像以上だ。悔しい。総てを失ったとは思いたくないが、元に戻すことは不可能であることはハッキリしている。一月二十六日と同様にANA四五五便一八時三五分伊丹発にて松山に向かう。二〇時半に道後の実家に着く。妻の手作り弁当で夕食。椿湯に出掛け、体を暖める。浴槽で、知人と阪神大震災のことを話題にする。離れの間の冷え込み厳しく、布団を頭からかぶって寝るのだが、頭が冴えてなかなか寝つかれない。
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二月六日(月)晴  松山からピストン出勤
朝五時半、起床。邸内の庭を散策する。長屋門の鬼瓦と昨年葺き替えた屋根瓦を眺めていると、不思議に気分が落ちつく。三〇〇年も保ち続けた家屋敷の威厳か。ところで、犬でも飼うか−−−−−−−−。
朝九時すぎ、西部運輸の荷物が到着。県立文化会館前の通りで、四トン車から二トン車に移しかえて運び入れたので、十一時すぎにやっと完了する。神戸では、掘り出した家財は少ないと思ったのだが、それでも玄関の間を占領した。整理整頓は次の機会にして、妻から頼まれていた電子レンジを荷造りして、スーパー井手野の奥さんに発送を依頼する。ANA四五〇便(一三時五〇分発)で松山を発ち、十五時半支店に出社する。
早速三部長と情報交換する。@得意先への見舞金が決まらず、他社に遅れをとったこと。A漢方療法推進会取扱いについてもいま一つ決定が遅いことで苦情が噴出している。TV「家なき子」で「同情するなら金を呉れ」という台詞があったが、メーカーに泣きつけばなんとかなるということでは再建もおぼつかない。「出来るだけの努力をしよう。安請け合いをするな。緊急事態だから、非情な行為は致し方ない。他社との比較は不要だ。しかし、不人情にはなるな。カネボウを信じてほしい。」とのメッセージを部長を通して全員に伝えた。「拙速か、巧遅か」の議論もあるが、支店としては「無いものの袖は振れぬ」し、パートでカバーするしかあるまい。
長岡藩の「米百俵」の逸話は山本有三の劇作で著名であるが、飢饉に際して救援米を分配して雲散霧消することを選ばず、将来の人材の育成に賭けた小林虎三郎の強固な意思とロマンを想起した。取引先に「未来を語る」ことからはじめようと決意した。昭和初頭の六甲の大洪水や昭和二十年の神戸の大空襲から立ち上がった誇り高い神戸っ子に、「同情するなら金を呉れ」でなく、「同情するなら夢を呉れ」こそ相応しいことを訴えよう。会社から二十万円の見舞金が出る。広範囲な被害が出たので、被害状況よりも、地域を重点に決定したとのことである。有難く頂戴することにした。漢方療法推進会からは、十万円の見舞金を頂戴する。松山往復で疲労さらに累積する。早めに就寝する
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二月七日(火)晴  鱒すしとロブスター 
朝六時、自然に目が覚める。出社後、盛実・和田両部長と打合せ。朝礼時、阪神大震災の被災者に対する会社からのお見舞いを一人ひとり手渡す。神戸営業所関係は来週神戸に出掛けて手渡すことにする。推進会ブロック長宛に、支店を代表して礼状を一括で認める。先に頂いた松下電工からのお見舞い金の礼状は、忙しさにかまけてそのままになっており、これも慌てて認めた。 高岡の藤村幹夫君(高岡工場総務部長)から「鱒すし」と「清酒立山」が届く。あまりに重いのでタクシーで帰宅したが、お見舞いの重さもさることながら、温かい気持ちに感激する。飯と酒−−−−もっとも日本的な「戦時食」であり、「元気食」でもある。昼間、小林の千恵子叔母と(前田)喜恵子さんが激励に来てくれ、手土産は喜恵子さんが手広く扱っているロブスター。夕食は、和洋の豪華な料理となる。
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二月八日(水)晴  さくらめーるの近況報告
慶応3Cクラス会と燦々会(昭和三十三年鐘紡同期入社)からのメッセージが届く。卒業以来、それぞれに上を向いて、或いは真っ直ぐ前を向いて働きつづけてきた還暦の企業戦士にとって、定年はあまりにも大きな壁であり、仲間社会に目を向けてきたようだ。双方ともに、大被害を受けた私達に対する義援金募集のキャンペーンである。一応はお断りしたが、暖かい申し出に心から感謝を伝えた。仲間達にとっても、何かをしないと気が済まないという気運が盛り上がってきているようだ。いつまでも多事多忙というわけにもいくまい。 「さくらめーる」に近況報告を兼ねて、落ち着き先の住所を連絡することにした。
暦の上では春となりました。今般の阪神大震災では一瞬のうちに住み親しんだ我が家は倒壊しましたが 御蔭様で夫婦共に怪我もなく二階から脱出することができました。その節には心暖まる御激励やら御見舞いを頂戴致しまして心より深謝申し上げる次第です 人の情けの有難さをつくづく感じました。当面 左記の住所に落ち着きましたので他事ながら御休心下さいませ  御高承の通り 居住しておりました神戸市東灘区森南町は最激震地区に指定され神戸市の都市計画の対象地域となりましたので本格的な再開発は数年先になろうかと危惧しております。あと一ヵ月半も経てば、例年のように芦屋川畔には見事な桜が咲くのでしょうが 我が廃墟は無惨な姿その儘に春を迎えることになりそうです。まだまだ寒さ厳しき折から 呉々も御自愛専一の程祈念申し上げます。先ずは新住所の御知らせと御挨拶迄。(平成七年二月七日付)
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二月九日(木)晴  取引先に信用不安の噂
疲れがでてきているのか、仕事とのリズムがいま一つ合っていない。早く地震前の昔に戻ろうと努力はしているのだが−−−−−−−。昨日、今日と新聞の切り抜きの習慣が戻ってきた。神戸に関しては、盛実部長−−福岡課長ラインに一任しているが、情報がいま一つで不安である。特に大被害を受けた本山こーなん、牧野に信用不安が出ている。デマか単なる噂か、真実か、為に流す謀略か。本社清水経理部長に、非常時の「信用不安」対応の中央見解(政府、通産、大蔵等)の蒐集を依頼する。本社では、漢方研究所、高槻工場、販売会社をワンセットにした別会社案を検討しているようだ。私としては、本社管理担当当時からの持論であり、大賛成の由伝える。
吉永直道(カネボウスピニングINC社長−−−在アメリカ)氏に書状を認める。太平洋を越えて、随分心配してくれているようだ。夕、カネボウ不動産潟潟|ート入手。阪神大震災のリポートが中心で、生々しい記事が胸を打つ。編集者である八木勝企画部長にリポート称賛の一筆を認める。
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二月十日(金)晴  無一物中無尽蔵
昨夜は一週間振りの入浴を楽しみにしていたが、妻も疲れていたのだろうか、風呂の点火栓のバネを切ってしまい、明日までお預け。冬だからなんとか辛抱できるが、夏だったらぞーっとする長さである。風呂に入る時間があれば眠りたいというのも本心である。長男、次男に手紙を認め、カネボウ不動産鰍フ震災レポートを同封する。母に頻繁に電話するように依頼する。マンション生活をしていると、電話が、特に長電話が唯一のコミュニケーションツールになりそうだ。
人事部長当時、私のデスク掃除を担当してくれた清掃係の水野知青さんに道で出合う。これといったものは何もありませんが、食器類であれば差し上げますから遠慮なく言ってくださいと見舞いの言葉をかけてもらい、なによりも嬉しかった。水野知青さんとは、人事室の壁面に架けていた一灯園の西田天香先生の「無一物中無尽蔵」の色紙を前に、俳句や仏典のことを話したのが印象的だ。周囲の社員たちは、人事部長と掃除のおばさんの組み合わせと対話を怪訝に眺めていたのだが−−−−−−−。見舞いの礼状を昨日、今日で七十枚認める。夕、潟oイアスの卸会議懇親会に出席する。(みなみ「石亭」) 震災後、始めての料亭である。島岡社長、石原常務の気遣いと熱い労りの気持ちがじーんと伝わってきた。