第一章 人生で一番長い日   地震・雷・火事・オヤ
平成七年一月十七日  運命の午前五時四十六分
平成七年一月十七日午前五時四十六分、阪神大震災発生の一瞬を生涯決して忘れることはないだろう。阪神大震災の記録は、マスコミや行政諸機関やルポライター、体験者の赤裸々な記録も公刊されており、新たに付け加えることは殆どないのかもしれない。また私の住んでいた神戸市東灘区森南町の記録は、野田正彰著『わが街 東灘区森南町の人々』として文芸春秋社から平成八年七月に出版されている。とはいえ、個人の体験はあくまでも特殊的であり、他の誰もが経験してはいない私個人固有の出来事でもある。私にとっての阪神大震災の記録も、他の人と同様に、あの瞬間までは温かい布団で熟睡していた場所、時間から話を始めざるをえない。
ぐらーぐらぐらぐらー、ぐらーぐらぐらぐらー、みしぃみしみしの大きな揺れに目が覚め、布団を手でしっかりと握って、暗闇のなかで天井を凝視した。一分も揺れたのだろうか。踏ん張ることも出来ず、じーっと揺れるのに身を任せるしかなかった。−−−大海原で、荒波に翻弄される小舟のようなものだったろうか。一瞬身体が軽くなったような気がした。浮いている感じだが、その時は何が何だかわからない。揺れがおさまった。
「おい」「お父さん」と妻と同時に声を掛け合った。「凄い地震」「うん」−−−−。 ちょっと間をおいて、大きな揺れを感じた。今までの揺れとは違う。横揺れと上下動が共鳴して、家を動かしているようだ。最初の地震よりは揺れは弱く、時間も短く感じた。 静寂を破るかのように、悲鳴が聞こえてくる。「助けてー」「あー」「ウオー」と地獄からの野獣のような唸り声と甲高い女の声が、うねりのように、遠く近くから耳に届く。目が暗さに慣れてきたのか、寝室の中が薄ぼんやりとわかってきた。目をこらすと、階段らしきものが天井を突き破っている。何故っと自分に言い聞かせ、暫くたってから、事情がはっきりとわかってきた。「母さん、一階が潰れたらしいぞ。ほら、階段が二階の天井を破っとるわ。」「うちの家だけかしら。随分古い家だったから。」「そうかもしれんな。」の会話があり、揺れがおさまった間を見つけて立ち上がり、窓から東の方を眺めた。いつもと同じような光景とも思えたが、電灯が総て消えているのでよくわからない。じーっと眺めていると、瓦屋根は見えるが、二階家屋ではなくなっている。一瞬身体が冷え切った。凄い地震が発生した ことがやっと分かった。
 「助かった」とも思ったが、次の余震で二階も潰れてしまうこともあるなと、窓の引き戸に手をかけたとたん、痛みが身体を走った。ガラスの破片で手を切ったらしい。次第に冷静さを取り戻したらしく、周辺の暗闇から火事が発生していないことを確認した。「母さん、助かったぞ。よかったな。」 妻への励ましか、私自身への励ましか、比較的落ち着いて妻へ話しかけた。「そうですよ。お父さん達に守っていただいたのよ。」とすぐ妻の返事が戻ってきた。絶えず揺れているし、立って動くわけにもいかず、布団に座って揺れの止まるのを待つことにした。怪我を覚悟で飛び出せば外に出れないことはなかったが、もう少し明るくなってからと判断して、寝巻を着なおし、今後の対応を考えることにした。もっとも、この間で地震発生から二乃至三分位ではないかと思う。
実は三連休を利用して、二人の故郷である愛媛県に帰省し、昨晩神戸に戻ってきたばかりである。十四日(土)は祖母の弟の妻の告別式を松山で、十五日(日)は妻の父の三回忌法要を宇和町の妻の実家で執り行い、昨十六日(月)は、菩提寺である道後姫塚の義安寺の墓所を詣でた後、平成六年年末に開通した松山・岡山間を走るマドンナエキスプレス号に乗車し、瀬戸大橋を渡り、岡山でJRに乗換えて夕方神戸に帰宅した。旅の疲れもあり、衣類は一階で片付け、家具の置いていない二階で前夜は早々に就寝したのである。「もし一階に寝ていたら、最悪の事態かな。」と思った。着替えを済ませたあと、三十分ばかり、妻と三十年間の思い出を語り合った。夫婦のこと、息子のこと、家のこと、故郷のことなど、閉鎖された穴蔵にでも居るような錯覚で、共通の話題を確認しあった。  「落ち着け、落ち着け。生かされている、生かされている。」と自分に言って聞かせながら−−−−−。
隣家の泉浩一さん夫婦が一階に閉じ込められたらしい。救助の人が駆けつけ、板を剥がす音と、「助かるぞ。しっかりせい。もう少しだぞ。」と励ましの声と解体の音が響く。 道を隔てた山一質店の上西宏和さんの一家は娘さん二人はいち早く飛び出したが、一階で寝ていた夫婦も娘さんの励ましのなかで自力で脱出されたらしい。「お父さん。お母さん。」という娘さんの喜びと感激の声が聞こえてくる。音だけで感じる周辺の気配は、部屋に閉じ込められた私共にとって、何よりの力強い味方となった。二人して「お隣さんが助かってよかったな。」と言いあった。そして、「三好でーす。生きていまーす。」と大声で叫んだ。「良かったですねー。」と、こだまのように直ぐに返事が戻ってきた。
一時間経った六時半頃だろうか、次男の淳志が二キロ離れた岡本から駆けつけてくれた。「お母さん。お母さん。」と心配そうに崩れてしまった一階を中心に、必死に母親を捜し求める声が聞こえる。「淳ちゃん、淳ちゃん。二階、二階。」と妻が叫ぶ。倒壊した塀と一階の屋根を伝わって、淳志が駆け上ってくる。ガラス窓を外し、部屋に飛び込む。「大丈夫だった?」「うん。淳志の方は?」「家具は飛んだけど、尚子も怪我なし。」 「よかったな。」「大地震だよ。道中の家は殆ど倒れている。死者も出ているらしい。詳しくわからないけど。山手通り以外は歩けそうもない。」−−−−−−あとは言葉にならない。一年前に結婚した次男夫婦はJR岡本駅の近くに住んでおり、私共の住む森南町は隣駅であるJR芦屋駅との中間にあり、車で近く歩いて遠く、自転車の距離に位置している。 次男が駆けつけてくれたことは、感激であり、勇気を与えてくれ、肉親のつながりを強烈に意識した。抱いてやりたい気持ちである。妻も同じであったろう。涙声になってきた。辺りも明るくなり、余震の続くなかで必要最小限のものを持って、倒壊した家屋から出ることにした。携帯ラジ オが畳に転がっており早速情報を入れる。神戸地区が震源地であることを始めて知る。妻はミシンの引出しから、生活費の残額か「へそくり」かは知らないが、十万円を取り出した。「お父さん、使って。」と現金を手渡された時は、山内一豊の心境であった。その時は、咄嗟の判断であったが、この二つが何にもまして非常時には役立つものとなった。
二階の窓から次男の案内で、恐る恐る這い出て,崩れた屋根を踏み外さないように気をつけながら、やっと外に出た。大地に足を踏ん張って、「これで助かった」と実感した。 近くには、質屋の上西宏和さんの家族や、市会議員の小島喬さんの家族や、通りに面した商店街の人たちが、なかば呆然として突っ立っている。お互いに、繰り返し繰り返し、地震の瞬間の恐怖や脱出の苦労をそれぞれに語り合う。「三好さんとこは、二階に寝ててよかったよ。一階なら危ないとこだった。理髪店の奥さんはまだ閉じ込められているよ。」「あの家は、お年寄り一人で大丈夫だろうか。見かけないんだけど。」「はやく救急隊がきてくれないものか。」とか。次男には、迎えに来る迄ここで待っているから、早く戻って尚子を安心させ、家の片付けをするように伝え、宇和町の妻の実家、松山の従妹、東京の長男恒治には「生きているから心配するな。」と緊急連絡するように依頼して別れる。公衆電話が不通ということは知らないものだから、九時以降に会社には連絡することにして、庭の松の木に携帯ラジオを吊り下げ、集まった人にも聞こえるようにボリュームを上げた。報道は繰り返しが 多く、現地の肝心のニュースには程遠いが,とにもかくにもアナウンサーが喋っている声が聞こえるだけで孤立感から救われたような気分になる。
道ひとつ隔てた昨年(平成五年)秋竣工したサティ&セルバの建物は、大丈夫にも見えたが、中は壊滅状態に近く、棚が倒れ、商品が散乱し、壁にはひびが入っている。五分おきに余震が、時にはかなり強く身体に感じる。その都度、倒壊した建物から壁が崩れ、内部の柱の軋む音が聞こえる。不思議なもので、「しようがないな、助かったのが儲けか。」という気分になり、集また全員が被害者だけに、自然に連帯感意識が芽生えてはじめた。九時を回ったので、国道二号線に出て、公衆電話を掛けようとするが、機械が千円札を受け入れてくれない。十円貨を借りたいのだが、急ぎ足の人は皆んな着のみ着のままだけに、声を掛ける気にもならない。会社宛の連絡は諦めて、自宅に戻る。
やがて神戸の西が火焔に包まれているとか,森南町、清水町、津知町の一帯が死者が多いとか、次々とニュースが入ってくる。犬は東向いて走っているから、大阪は被害が無いらしいとか、強盗が横行するとか、山口組が心配だとか、デマか本当かわからない不安な情報が飛びかい始めた。関東大震災の朝鮮人殺害暴動事件や陸軍被服公廠での大量焼死のシーンが蘇ってくる。新しい情報が流れてこない。次第に不安になってきた。昼前に部下である大阪薬専支店ストア部の盛実勉部長が、芦屋浜からぐるーっと回って立ち寄ってくれる。お互いの無事を確かめ、安堵する。会社に私の無事を連絡するよう依頼する。会社への生存確認の通知ができて一安心する。
昼から、妻と二十年間過ごしてきた芦屋、森南町の生活ゾーンを見て歩くことにする。 北側の鉄骨のマンションは築後十年未満だが、一階が陥没しており、南側の商店の並びは国道沿いのパチンコ店迄すべて倒壊の大被害である。国道二号線沿いは更に被害が酷い。モンタブラザーズの実家門田さんのインテリア店の近くは、最も被害の多い地帯であり、まともな店は一軒も残っていない。鉄筋の建物も、亀裂が走っている。僅かに福岡外科病院だけは外観からは大丈夫なようだ。清水町に入ると、筵を被せた遺体がこちらに一体、あちらに二体と、無造作に並べてある。手を合わせて、山手へと進む。高い塀で周囲を威圧していた薩摩さんのお屋敷も倒壊し、邸内に何体かの遺体が通りからも見える。なんと酷たらしい情景か。地獄そのものである。角々に何人かづつ集まって話し合っている。検視が済むまで、遺体を動かしてはならないこと、芦屋小学校など指定の場所に運び通夜をすることなどが緊急通知されてはいるが、今は誰も流す涙も出ない。森公園から市立本山第三小学校迄の道筋は、殆どが木造の一戸建ての町並みであるが、森温泉の煙突が道を塞ぎ、女優の浅野ゆう子さ んが小学校時代に住んでいた界隈も、見事にという形容がぴったりするような全滅の状態に変わり果てていた。
サティの西側に戻ると、鐘紡の社員やOBの木造住居が数軒あるのだが、板橋義夫元取締役,小山裕章・尭子夫妻、宮地輝子夫人が家屋に押し潰されての死去を知る。自力で脱出できたのは、私共を含めてあまり多くはないらしい。道端で呆然と立っている宮地部長と子息に掛ける声も出ず、深々と頭を下げるばかりであった。非常時には、遺体は死体になり、物化している。火葬場も崩壊し、寺院も倒壊し、僧侶は緊急疎開中となると、野辺の送りはどうなるのか。生きている者は、道端の遺体が通夜会場に移転するまでは、この町に止まることが人間としての義務なのだと気づいた時、会社への忠誠心よりも生活共同体の一員として行動することが重要だと確信した。その瞬間、肩の重荷が取れたような気がした。見ず知らずの遺体であっても、ひたすらに供養しようという気持ちになると、死体は明らかに遺体になり、人間としての身近さを感じるようになった。理容店の奥さんの救出、東隣りの岡田のおばあさんの無事(朝起き会に出席していたとのこと。)など朗報も届く。夕方までに遺体の移動も終わり、寒さも厳しくなってきた。泉さんは子息の家、上西さんは親戚、小島さん と岡田さんはともあれ自宅が残ったので自宅にと、大震災の最初の夜を離れ離れに送ることになった。
次男夫婦が車で迎えに来てくれたが、倒壊した家々が道を完全に塞いでいるので車が近くには入らず、重い足を引きずりながら、持てるだけの身の回り品を手で持って、山手幹線まで歩く。−−−−−−敗残兵の様な身なりと明日の不安を胸一杯抱いて−−−−−。山手幹線沿いのペプシコーラ甲南配送所の水道管(自噴水?)の水を求めて長蛇の列が続く。「安全と水と空気は只ではない。」とのイザヤベンダサン「ユダヤ人と日本人」の冒頭の章句が、これほど真実であることを痛感したことはない。もし真夏だったら、多くの罹災者は虚脱状態になっているに違いあるまい。
岡本の次男の家は片づいており、家具の透かしガラスやTVのブラウン管は破損していた。電気製品の箱物は殆ど駄目になったようだ。それほど揺れが酷かったということか。 蝋燭を灯してパンを口に入れる。今日一日、何も口に入れてなかったことに気づく。あまり食欲はない。五分置きに余震が続く。布団に横たわり、ほっとする。疲れてはいるが、いつ地震があるやもしれず、衣服をつけたままで眠ることにする。 戦時中の灯火管制、松山の空襲そして終戦直後の道後の家の情景が浮かんでくる。親戚からのひっきりなしに架かってくる電話は、次男夫婦が受けてくれ、いつしか眠りの世界に入ったようだ。                           平成六年一月十七日−−−今までの「人生で一番長い日」がどうやら帳を降ろした。
0118
一月十八日(水)晴  犬は東に逃げたが−−−− 
次男の家で、幸いにも一夜を過ごしたが、余震が相次ぎ、興奮もしており、夜中何度となく目を覚ました。明日からどうするか、妻を次男の家に残して大阪の支店で寝泊まりするか、もし大地震が起こって妻の身にもしものことがあればどうするか、現実に大阪までどうやって辿り着くのか、倒壊した家に残っている家財はどうするか−−−−−−−−次々と問題点が浮かんでくる。地震と鯰はつきものだが、昨日の話では地震前夜から今暁にかけて、放し飼いの犬が、東(尼崎、大阪方面)を向いて移動したとかの噂があった。交通機関は完全に途絶しており、再開の目処は立っていない。社員に異常、特に死亡事故はなかったのか。−−−−−−−
うつらうつらしていたのだろう。朝五時半頃、尚子の姉婿(西谷裕章さん)が突然訪ねて来た。六甲アイランド内のプロパンガス貯蔵タンクの爆発の危険性があり、付近住民に山手に緊急避難の報道が流れているとのこと。次男の家は該当地域からは少し離れており、大丈夫とは思ったが、取り敢えず「動く」ことにして、次男夫婦と車に乗り込む。他の三台のパーティーと合流する。六甲山の中腹の高台で小休止して、次なる行動を決心しなければならない。緊急避難の解除は何時になるのか見当もつかない。もう一度神戸市内に戻るか、東に走るか、それとも北へ行くか。地震報道で北の情報が殆ど流れていない。何故なんだ。関東大震災で東に向かった群衆が隅田川に遮られて焼死或いは水死した惨事の歴史的事実。何故、北へ逃げなかったのか。本能が太陽の道を誘うのだろうか。大和朝廷も、「太陽の道」に沿って東進し、飛鳥の地を拠点とした。犬もまた東を向いて、神戸から去って行ったらしい。妻は神戸市内から離れることに反対だった。市内であれば、勝手が分かっており、野垂れ死にすることは絶対にない。知人も多い。「淳志たちと一緒に行こうよ。」と、自信はなか ったが、妻に翻意を促し、避難パーティーと共に、六甲トンネルを抜けることにした。−−−−トンネル内での地震が発生しないことを念じて。
六甲トンネルを越えると、空気の味が変わって感じられた。地震の恐怖感が徐々に消えていくようだ。罹災者の姿は見えない。JR宝塚線は全面不通であり復旧の見通しは立っていない。数日は駄目だろう。若手のメンバーの話し合いで、ひとまず福知山で落ち着こうということになった。私にとっては願ってもない幸運な決定だった。
大阪支店長として地域戦略を展開するに当たって、京都府、兵庫県にまたがる但馬、丹波、丹後地区の扇の要の「場」が福知山であり、カネボウの福知山工場や化粧品の販社もあり,数回訪れて土地勘があり、ぞっこん惚れ込んでいる城下町であったからだ。今度は、妻に自信をもって「福知山なら大丈夫だ。任しておけ。」と力強く語った。落ち着いてくると、腹が減っているのに気づくものだ。仲間も同様であった。三田市東本庄の国道一七六号線四つ辻交差点にあったドライブレストラン「寿侍路」に飛び込み、三十数時間ぶりに飯にありつく。極端な空腹時に急いで飯を食べると胃が受けつけないこともあるとかの遭難の記事を思い出して、「ゆっくりゆっくり」と自分に言い聞かせながら、和食を取る。皆んなおしゃべりも忘れて、もくもくと餌にありつくといった風情である。食後、NTT一〇四で電話番号を確認して、カネボウ福知山工場に電話、細田総務課長を呼び出す。話したいことは山程あるが,被害状況と現在の状況を報告し、JR駅前の福知山富士グランドホテルを二室予約依頼し、併せて目下手元不如意である旨付け加えた。 私どもが元気であることを喜んでく れた。午後三時前にホテルに着く。全員の部屋割りも終わり、部屋に落ち着く。
早速、本社の松石薬専営業担当と石川管理担当に神戸からの脱出と今夜の落ち着き先を連絡する。支店への第一声は「社員は大丈夫か。神戸営業所ビルは大丈夫か。」から始まる。支店の平井久勝業務部長と佐藤将明業務課長から支店の被害状況を聞く。詳細は不明であるが社員並びに家族に死亡者や重傷者がいないとの報告に大安心。本当によかった、不幸中の幸いと神に感謝したい気持ちになった。神戸営業所ビルは大被害を蒙り出入りは出来ないが、建物は倒壊していない。近くの神戸市役所の旧館は半壊、元のワールドの本社は全壊にちかいとのこと。営業の砦がともかくも残ったということは、「場」は残ったということだ。案外早く立ち上がれるかもしれないなと、前途への明るい希望が湧いてきた。
明日万難を排して大阪に辿り着き支店に出社する旨伝え、大阪市内のホテルを二室、料金を問わないから一週間押さえておくように指示した。一室は個人用、他の一室は支店幹部用として、二十四時間体制の緊急本部として機能できるように考えた。結果的には、この判断は正解であったことが、数日を経ずしてわかった。他の連絡は後にして、早速入浴を済ませ、震災の埃と垢を洗い落とす。震災の現場にはいたが、全体の情報が皆目わからないので、TVに集中する。見る画面、流れる報道に唖然とする。もし事前に承知していたら、六甲トンネルは怖くて通れなかったのではないかと思う。フロントから連絡がありロビーに出ると、黒岩福知山食品工場長と細田総務課長の顔が見える。旧知の間柄であり、挨拶もそこそこに震災の話題となる。永井福知山綿糸工場長も神戸で罹災して、目下宝塚に居るとのこと。両工場長名で「見舞金」を頂戴する。ともあれ目下のところ、お金は何よりも有難い。遠慮なく受け取ることにした。
夕食は次男夫婦と一緒に鍋物を注文し、酒で身体を温める。やっと生き返った感じがする。被災地の真っ只中、小学校で不安な二晩目を迎えている同じ罹災者の方に申し訳ない気持ちで一杯だが、一面では六甲越えを決断して良かったという安堵感に酔ったのも事実である。人間の心の複雑さでもあるのだが。食後、次男夫婦は姉夫婦(西谷さん)と一緒に町に出掛け、食料品や洗面具や下着類を買い求めて届けてくれた。妻は疲れが一時に出たらしく、ベッドで休養を取っていたので部屋に残して、JRの情報を得るため、福知山駅に足を運ぶ。幸運にも、福知山線は不通だが、山陰本線は定刻より遅れるかもしれないが、予定通り運行するとのこと。どこまで運がついてるのか。神に感謝しよう。明朝七時四十三分の特急で大阪に向かうことを決める。東京に居る長男(恒治)に電話して無事を伝える。大阪に今直ぐにでも駆けつけたい様子だったが、一応落ち着くまでは心配せずに東京に居てほしい旨伝える。長男、次男の息子二人だか、今日ほど息子たちが力強く、頼り甲斐があると感じたことはなかった。妻も同じ気持ちだろうと思う。
夜遅くまで、TVの虜になったように、画面に釘付けになる。関西以外の人は、今回の大震災をどの様にみているのだろうか。率直なところは、自分の住んでいる場所でなくて良かったと思っているのだろう。そして「お可哀相に」という同情の気持ちか−−−−−−−−−。いつのまにか、被害者意識に自分がなっているのに気付く。ベッドでTVを眺めながら、妻と改めて震災当初の出来事を語り合う。なかなか寝つかれず、ベッドから起きて、明日以降の会社での対応についてのケースを書き出す。窓からは福知山城は見えない。静かな内陸部の城下町であり、震災とは全く関係がないような雰囲気の中で夜が深まっていく。神戸とは違い、夜空の星が多く、輝いてみえる。小学唱歌の「冬の星座」が口に出てきた。
(1) 木枯らしとだえて さゆる空より
地上に降りしく 奇しき光よ
ものみないこえる しじまの中に
きらめき揺れつつ 星座はめぐる
(2) ほのぼの明かりて 渡るる銀河
オリオン舞い立ち スバルはさざめく
無窮をゆびさす 北斗の針と
きらめき揺れつつ 星座はめぐる
(掘内敬三作詩 ヘイス作曲)
地震直後に妻が言った「お父さん達に守っていただいたのよ。」という言葉を思い出した。時間が取れ次第里帰りして、祖先の墓に詣でて無事を報告し、祖先の霊に感謝しようと自らに誓った。そして、妻の安らかな寝息を聞きながら、眠りについていった。 平成六年一月十八日−−−−−−震災第二日目は、まったく予期しない城下町福知山のホテルで,妻とともに、静かに一日を閉じることとなった。
0119
一月十九日(木)晴  着の身着の儘の疎開旅
一夜が明けた。熟睡できたという程でもないが、朝風呂に入り気分はさっぱりとしている。七時過ぎに食堂に下りると、次男夫婦はもう席に着いている。グリル富士の朝定食をとり、早々にホテルを出発する。ホテルのフロントでテレフォンカードをプレゼントされ、「頑張ってください。」と激励される。
定刻七時四十三分発山陰本線京都行きの特急タンゴエクスブローラーに乗車する。次男夫婦が見送ってくれる。次男は三和銀行三宮支店に勤務しているので、尚子が実家に落ち着き次第、銀行の指示に従い指定勤務先で震災後の緊急対応の戦力になるようと伝える。特急に乗車するまでは、阪神大震災の罹災者の一人としての意識と行動をとってきたのだが、客席に座った途端、周囲との違和感を感じてしまった。特急列車の何処にも震災の余韻が残っていない。むしろ二人の見すぼらしい身なりの方が気になってきた。森南町の倒壊した自宅から飛び出しただけに、目の前に入る妻の姿も難民の姿に写る。
先ずは私の服装だが、肌着は昨夜福知山のスーパーで息子達が調達してくれた新品を着ているが、その上には、メリヤスのパジャマ、カーディガンを着ている。背広やワイシャツ、ネクタイは、いつものように一階に置いていたので取り出せなかった。外衣は鐘紡陸上競技部のジャンバーである。震災前夜、風呂上がりにこのジャンバーを羽織って二階の寝室に上がったので、持ち出すことが出来た。厳寒の駅伝には鐘紡陸上競技部の副部長として監督車に乗り、また郊外では何時間も応援した時に着用したジャンバーだけに、防寒にはうってつけである。社名も入っており何ら気にならなかったのだが、全体としては様にならず、「丹波笹山 山家の猿」以上の見すぼらしい恰好である。靴は息子が持参してくれたダボダボの靴で、三糎程隙間が空いている。靴下は夏用の二枚重ねといった具合である。
次に妻の方だが、記録に残すのも気が引けるのだが、二階の寝室から脱出したので、一階にある外衣もセーターも肌着も何一つ取り出せず、着のみ着のままの服装であった。靴も取り出せず、淳志が家から持ってきてくれた紳士用の大きい突っかけが靴代わりであった。改めて思い出そうとしても、二階にあった不用品や季節外れのものを防寒をかねて着込んでいたので、なかなか思い出せないし、思い出したくもないというのが率直な感想である。                                       
京都に近づくにつれて、更に気持ちは滅入ってくる。着飾った若い娘さんが次々と乗り込んでくる。出張のビジネスマンのきりっと決まったスーツ姿を見ると目を背けたくなる。京都駅には九時五分定刻に到着する。京都駅で大阪止まりの快速列車に乗り込むと、数日前の出勤時とあまり変わらない。地震は、阪神大震災は何処へ行ってしまったのか。 JRの三都物語(京都・大阪・神戸)のキャンペーンがなんと虚ろな言葉であったのかと反問する。近畿の三都(京都・大阪・神戸)は、首都圏の横浜・東京・千葉とは違い、「運命共同体(帯)」と思ったが、私にとっての幻想に過ぎなかったのか。「応仁の乱」のしっぺ返しとしては、大時代的だなとも思った。オイルショック前に一ヵ月社命で海外視察(欧米)した時以上のカルチャーショックをうけた。先週まで大阪、芦屋、神戸が生活圏であっただけに、ショック度は遙に強大であった。高槻から大阪に近づくにつれて、半倒壊した家屋が時々目につくようになった。九時半過ぎ大阪駅に着く。梅田は西から流れ込んだ群衆が多く、ジャンバー、リュックサックの買い出し客で混雑している。
殺気だった雰囲気に気後れしながら、食料品を買い込もうとしたが、ご飯類やパン類はまったくその姿が見えない。おはぎ、饅頭が申し訳無さそうにケースの中に残っている。販売員に聞くと、大阪市内のデパートやコンビニの食料品は阪神間に急遽運搬されていること、特にダイエーはその機敏な、徹底した神戸重点配置とかを説明してくれた。阪急・阪神百貨店と梅田地下街を歩き回ったが、結局弁当やお握りを手に入れることができなかった。妻の為にも、もっと精力的に店で粘らねばと思うのだが、妻からも「お父さんにはそんなことは到底無理だ。」と言われるし、自分でもそのように思うし、梅田での買い物は断念した。取りあえず、懐中電灯の電池を購入し、今晩に備えることにした。妻をホテルでゆっくりさせたかったが、森南町のことが気になり、このままだと却って気がもめて落ち着かないと言い張るので、地震も三日経てば落ち着くだろうと思い、妻を一人で現地に戻すことにした。 JR、阪神電鉄、阪急電車の改札口に貼ってある掲示板を読み、JRで甲子園迄出て、阪神バスで西宮まで乗り、その後は徒歩で一時間半歩けば、明るい内に神戸の森南町に着くだろ うと判断した。夜は岡本の次男の家で戸締りを完全にして休めばいいだろうと考えた。現地判断ではあったが、これがベストの選択であった。尼崎迄はJRで一緒に行き、駅前通りでにぎり飯を十個調達して山分けする。付近の買い物客に道を尋ねながら、目的地の阪神国道のバス乗り場にやっと辿り着き、バスの行き先を確かめて見送る。
昼前に、JR桜の宮駅近くの「帝国ホテル大阪」の隣にあるカネボウビルに到着する。 全く偶然に、朝芦屋から尼崎まで三時間近く歩いて震災後初出勤した盛実ストア部長にエレベーター前で出会う。震災直後に見舞いに来てくれたのだが、随分日数が経ったような気がする。六階の支店に顔を出すと、同じく芦屋在住の和田省三チェーン店部長も初出勤しており、業務の平井部長を加えて支店幹部全員の顔が揃った。平井部長から改めて従業員と神戸営業所ビルの被害状況と疎開状態の報告を受ける。盛実、和田両部長には取引先を含めて被害状況の取り纏めを指示する。神戸営業所の責任者である福岡雅造課長に激励の電話をし、三日間に電話、見舞い電報のあった取引先、会社関係者に取り敢えず「社員全員無事。復旧に全力を投入する。」旨お礼の電話をする。鐘紡の石原聡一社長から、震災当日私の消息について問い合わせがあったとの連絡があったので、本社の会議終了を待って、家族を含めて無事であることを伝える。夕礼後、支店関係者には緊急事態はホテルに時間に気兼ねなく電話かファックスしてもらうことにし、連日臨戦体制の部下に今日は早く帰宅するように要請 する。
市内のホテルは満員らしいが、手配が早かったので、支店から徒歩一〇分のリバーサイドホテルでチェックインし、尼崎で買い求めたおむすびを口にほおばりながら引き続き、会社、友人、親戚関係に元気な声を届ける。部屋のTVは付けっぱなしにして、震災の全貌の把握に努める。東の森南町、芦屋清水町界隈と西の長田周辺の被害がもっとも大きかったようだ。明日からの支店としての取り組みだが、無用の混乱を避けるために、本社に対しては支店長報告一本に絞り、部下からの連絡は平井業務部長が一括集約し支店長に報告することに決める。
支店長としての「場」だが、機敏に動き回るか、不動のスタンスかを選択する必要があるが、営業部長には現地で動いてもらい、支店長はデスクで作戦設定と瞬時判断、本社との調整を責任もって対応することとした。同時に「有事」に当たって、個人もグループも組織も、マスローの五段階の「場」を通過することになろうと考え、この「五段階説」で緊急事態に冷静に対処できる視座と基準とすることに決め、朝礼で全員に「五段階説」を説明し、付和雷同しないように要請することとした。一月一九日、震災第三日目は、まだまだ「生理的欲求」の「場」にある。「生理的欲求」から「社会的欲求」、さらに「成長欲求」への「場」に移行するには、どのくらいの月日がかかるのだろうか。
社員宅、取引先への、飲料水、インスタント食品、懐中電灯、包装資材等の配備と調達が緊急課題であろう。営業対応はその後にしよう。飢えと渇きが満たされて始めて、次の欲望に移行する筈だ。しかし被害の少なかった取引先からは無茶な要求が来るだろう。飛ぶように高価に売れる消毒剤や精神安定剤や疲労回復剤を何故配送しないのかと−−−−−−−。明日の戦場が目に見えるようだ。支店長として悩むところだが、神戸は「生命尊重第一主義」,大阪、京都は「神戸支援活動」の二本立てで行くしかなさそうだ。気持ちが高ぶっており、思いついたことは、ノートに乱雑に書き留めていった。相矛盾する発想が多いのだが、致し方あるまい。自分の内面は混乱しても、部下と本社に対しては毅然として対応していけばいいのだから−−−−−−−−−。最後に神戸の岡本の次男の家に一人泊まっている妻に電話する。余震が相変わらず続いているとか。元気な声なので安心する。明日の夕方には現地に入る旨伝える。
「神戸脱出作戦」は、会社人間としては大成功であった。同時に、神戸市民として、森南町共同体の一員としては「敵前逃亡」であった。妻が、私の役割を果たしてくれていることに心から感謝したい。ホテルの快適なベッドも、妻のことが気になり、ひとりではなかなか寝つかれないものだ。