第二章 ホテル住まいの危機対応  いつもあなたのそばにある
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一月二十日(金)晴  只今情報大混乱
リバーサイドホテルから出社する。客室内のトイレタリー製品を総て持ち出したので、ベッドメイク担当者宛に一筆お礼とお詫びのメモを残す。食欲は殆どない。支店のベンダーで缶コーヒーを飲み、眠気を払うのが精一杯である。被害状況の聴取と取り纏めが当面の急務であり、昨日に引き続き、平井、和田、盛実部長からの報告を聞く。社員に関しては、私が最大の被害者のようだ。却って気が楽になる。ホテルで二泊しているので、悲壮感はないのだが、惨め感(被害者意識)は大いにある。支店出勤の営業マン(MR=メディカル レプリゼンタティブ)は、薬品の配送センターが麻痺してきており、大手ストア、薬局、薬店の注文の対応に追われている。欠品で断るケースが増えてきた。錯綜する電話のやりとりを聞いていると、震災の雰囲気はない。むしろ従前より活気があるかのように錯覚する。
神戸が遠すぎる。西神戸の地下鉄「総合公園前」近くに所在するカネボウ物流の関西配送センターに仮事務所を設置し、福岡雅造課長のリーダーシップで曲がりなりにも神戸は活動を開始している。一年前までは大阪支店の二人の部長の下にそれぞれ一名づつ課長はいたが、私の「場」を重視する地域戦略論と矛盾し、業績もいま一つであったので、神戸営業課長としてワンマン課長体制を確立し、他の課長は支店長の膝元に更迭して既に軌道に乗りかけていたので、ラインを通した情報は混乱なく流れていた。ペア体制であれば、互いに牽制しあい、支店長の命令を的確かつスピーディに実行に移すのに、調整というもう一つの段階が必要だったと思う。有事に際しては、「受信は多元でも、発信は一元」というのが私の管理職として体験した結論であり、工場長としての工場爆発事故、人身災害、外部圧力団体との葛藤に対処し円滑に解決してきた貴重なるノウハウでもあった。併せて、「巧遅より拙速」を旨として、可及的速やかに行動し、同時に的確な報告を関係先に求め、かつ流すといったところである。
常々、部下には徹底していたので、神戸の福岡課長部隊は迅速に動き回っており、朝、昼、夕の一日三回は電話連絡があり、一日一回は連絡要旨のファックスが流れるので、動きが手に取るように分かる。午前中の情報を集約し、本社(社長)宛に支店長としての第一信を流す。本社薬専事業部から安田征五部長が派遣されているが、特に社長や営業担当からの指示もないので位置づけが不明確であり、情報と指揮命令の混乱を避けるため、全く無視した形で緊急対策を実施することにした。有事に当たっての本社の対処としては、この措置は現地が混乱する下策であり、あくまで権限と責任は現地対策本部長(支店長)がもつこととし、支店長のスタッフとして位置づければ円滑な運用が可能だったろうと思う。安田部長には何らの問題はないのだが、本社で支援してもらうことにして、週末でもあり早々にお引き取り願った。
本社から救援物資が届いたので、現地の基地として西宮の和田部長宅に運搬し、神戸から受け取りに行かすことにした。 私も大型のリックサックに食料品や衛生材料を山ほど押し込んで、神戸に向かう。阪神電鉄が甲子園まで動いており、そこから西宮までバス、大混雑の国道二号線を神戸の森南町まで歩く。途中、取引先の薬局に顔を出しお見舞いを述べるが、今はそれどころではないといった感じの応対である。当然のことではあるが−−−−−−−−。
夕方近くに、倒壊したわが家に着いた。妻は朝から入口近くの家財の取り出しを精力的にやったらしい。かなりの(正直いって「がらくた物」も多いのだが)家財を外に取り出している。「ごくろうさん」と声を掛け、手伝おうかと思ったが、休日が二日あり、次男が明日には加勢してくれることになっていたので、岡本の次男の家に引き上げることにした。持参したリックサックに開けて、パンや飲料水、お握り、菓子と腹一杯食べる。昨夜は、妻ひとりで真っ暗な部屋で泊まったのだが、知る人もなく、余震が何度もあり本当に怖かったと話してくれる。本当にその通りとは思うが、一方、「母は強し、女は強し、かみさんは更に強し」とも思った次第。明日からの片付け作業を控えて、余震に怯えながらも、着替えなしで寝床にもぐる。暖房が効かないので(停電で当然のことではあるが)深夜の冷え込みは厳しい。
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一月二十一日(土)晴  一階隙間二十糎−−−もしも一階に寝ていたら
夜分、余震は数回発生したが、跳び起きるほどでもなくなった。余震に慣れたというか振動に対する抵抗力がついたというべきか。朝から、妻と次男の三人で、倒壊した二階の部屋から整理を開始する。床が抜けているので、足を踏み外すと一階の天井に足を付けることになる。気を付けているのだが、度々、足を踏み外す。二階は、天井までの高さは従来通りなので、作業そのものは心配ないのだが、二階は息子達の、しかも子供時代の玩具や絵本や「我楽多物」ものが多く、皮肉なものだ。二畳間の書斎は、書籍は散逸しているが、丁寧に整理すれば過半は取り出し可能と判断して一安心。崩れ落ちた一階の応接室に頭を屈めて潜り込む。ここで地震でも来れば、お釈迦様だなと思うと、落ち着いて取り出し作業はできない。全集や思想関係書籍を納めた本箱は見事に押し潰され、書籍は所々に飛び散っている。 書斎用机や応接セット、ステレオなど全滅だが、妻が作った鎌倉彫の文箱や書類を納めた箱は、机や椅子の隙間にあり、傷は付いているがうまく取り出すことができた。この中に株券や債券他の金融関係の通帳、印鑑が入っており、完全な儘で手にできた。幸運であった。
応接室に飾ってあった置物や、防府工場から転勤時に贈ってくれた鐘紡陸上競技部の貞永信義総監督、伊藤国光男子監督、鎌田俊明女子監督以下全員の寄せ書きの飾り皿も粉々になっている。止むなし。一階の居間、茶の間、台所、書庫や物置は、床と天井の間隔は二十センチ程しかなく、二階の解体撤去後でなければ、素人は触れられそうもない。盗難の危険は全く無い。当分は、掘り出しは諦めざるを得ないか。
妻は真剣に、手に触れるものは総て取り出しては、ため息ばかりついている。私には会社人生があったが、妻にとっては、倒壊した家屋が城であり、思い出を詰め込んだ品が埋まっているのだ。何とかひとつでも多く、妻の思い出を取り出す方法を考えないと、妻は地震後遺症に陥るかもしれない。明日は天気が崩れるとのことで、夕方遅くまでかかって、ビニール袋や古布団を活用して雨漏れ対策をする。鐘紡OBの杵淵邦夫さん、中山洋氏さんが立ち寄って呉れる。息抜きを兼ね、立ち話をする。堺五郎さんも尚子と一緒に立ち寄ってもらったが、息子の家の片付けに行く。夕六時、本山の次男宅に戻る。親子三人の電気、水なしの生活だが、大分順応できるようになった。
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一月二十二日(日)雨  泣きっ面に雨
朝五時半、ラジオのニュースを聴く。懸念していた雨だが、「大雨洪水注意報」が出ている。水害、ビル倒壊など第二次災害が心配である。ともあれ、六時半には起床。コーンフレイク、牛乳、お握りで簡単な朝食を済ませ、早支度をして、森南町の倒壊家屋を点検する。此処まで崩れているから、ペチャンコにはならないだろう。一階の様子がわからないが、雨水でびしょびしょに濡れてしまい、次回掘り出しても使い物にならないのではないかと危惧する。解体業者を頼むにせよ、もう少し日数がかかるのではあるまいか。妻と次男と三人で、一瞬にして荒廃し、廃墟と化した国道二号線沿いの倒壊した家屋や塀、また取り出して無造作に放置された家具や積み石を避けて、「ああー」とか「おう、おう」と言葉にならない声を出しながら、ただただ歩く。
昭和三十九年、次男が生まれた時から幼稚園に行くまで住んでいた芦屋市津知町の旧宅付近の被害は予想以上に激しく、狭い町内だけで死亡者が五十名に達しているとのこと。 永井コッコストアの永井さんと顔を合わせたとき、付近の状況を淡々と話してくれた。道中あまり激しい雨にならず、一時間半ほどで、阪神西宮駅に着く。洗面所の臭気激しく、小用を済ます気持ちにもならない。駅前のベンチに腰を下ろして昼食。ベンダーが動いており、コーヒーとコーンポタージュが温かくて、なによりの馳走である。阪神バスで甲子園駅に出て、梅田までは阪神電車で一直線。次男は、嫁の実家(堺家)に行くので、大阪駅で別れる。午後二時、梅田OSホテルに着く。やれやれ、今夜は熟睡できそうだと思うと、ひと安堵である。早速に入浴する。妻もほっとしたらしく、入浴後は夫婦の会話も進み、日常性を取り戻したようだ。ベッドで腹這いになり、溜まっていた数日分の日記を書き始める。
夕食は梅田新道「大同門」の焼肉で精力をつける。二人分は軽く食べれると思ったが、暴飲暴食は後日にして、ファミリーサイズで辛抱する。非常時の頼りは、自分であり、健康第一である。梅田の繁華街は、煌々と照明がついている。神戸は、停電中で真っ暗だというのに。  東京では、神戸の惨状を炬燵で「可哀相になあ」とか言いながら、蜜柑を頬張りながらTVを眺めているのだろうと思うと、無性に腹が立つ。 「なんで神戸が−−−。なんで森南町が−−−。なんで私が−−−。」と悔やみたくもなる。「乏しきを憂いず。等しからざるを憂う。」である。夫婦で食事をしていても、最初から最後まで大震災の話になってしまう。腹一杯食べて、適当に酔って、大いに喋って−−−−−−吐瀉療法でストレスを解消するのが一番か。他人の助けを待っていても、同情はしても、誰も助けてはくれない。いまこそ夫婦の絆の固さで、この困難を克服するしかあるまい。梅田新地界隈を歩いて、ホテルに戻る。
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一月二十三日(月)晴  もう君(本社)には頼らない
出社、朝礼でひとこと挨拶する。支店トップとして、心配をかけたが、全員で復旧に努力しようとアピールする。終日勤務したが、外部からの電話の応対に忙殺される。音信があまりなかった友人の声が、こんなにもうれしいものとは知らなかった。午後本社に対し、支店のアイデンティティを主張し、報告書を作成する.
@ 情報の一元化
A 非常事態下での組織運営
B 本社指示への対応
C 現状は、生命−−−安全−−−食事(水を含む)−−−生理的嫌悪(大小便)
の段階であり、次は「金」である。金融機関が全面ストップだけに、給料の現金手渡しを希望した。要は、非常時には、現地司令官に全権限を渡せ。本社は、情報を掴み、的確に現地に情報を流すよう要望した。特に、現地への指示・報告は、社長(事業部長)−−−−支店長に絞り、一本化を要望した。
具体的に言うと、現地応援の都合を支店の担当者に聞くな。助けたければ、車を運転して、一週間分の食料と寝袋をもって来てもらいたい。支店に気をつかわす応援は百害あって一利なしである。現地に来てもらえば、やって貰いたいことは山程ある。但し、支店長の指示で、肩書を外して取り組んでもらいたい。要は「出張」でなく「ボランティア」である。支店としては、販売計画の大幅削減と言う当然の要求をするが、本社として決定できるのか。販売計画の大幅削減が無いかぎり、神戸を捨てても、大阪・京都で稼ぐしかない。以上のような内容で、本社に訴えた。「もう君(本社)には頼らない。」という悲壮な決意をして、支店の命運を賭けて、神戸の救済と販売計画達成という相矛盾する目標に挑戦することを決意した。やがて、本社が真意を理解して、全面支援してもらえることを信じて−−−−−−−。
夕、今回の大震災で逝去された板橋義夫元役員、宮地輝子夫人の通夜式に出席する。喪服は勿論無くなったので、支店の和田営業部長の礼服を借りての出席である。鐘紡の先輩、同僚、後輩の列席も多く、取り敢えずの「生存報告」に代えることができた。夜、妻と馴染みの新地本通りの「レストラン司」に入る。「三好さん、どうでした。」 「家、無くなっちゃった。命が助かっただけでいいとするか。落ち着いたら、ここのビフテキが食べたくなった。無一文だけど、頼むよ。」というところから話が始まった。他のお客さんも私たち夫婦を注目し、ママとコックとの地震の話を興味深く聞き耳をたてていた。深夜十一時頃、横関工務店から電話。明日森南町に行ってもらえることになった。予想以上に早く、解体・片付けの開始となった。
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一月二十四日(火)晴  工務店の加勢で家財整理進む
朝六時半、OSホテル前に横関工務店の小型トラックが横付け、妻が同乗して森南町の解体。片付けに出掛ける。辺りはさすがに暗いが、妻の張り切っている様子なので、手を振って見送る。朝食はJR大阪駅構内のレストランの和定食をとり、八時に出社。朝礼後、業務連絡、指示を手短に済ませ、神戸に向かう。西宮迄は阪神電車。西宮からは徒歩の為、十一時ころ森南町に到着する。妻が、ここ数日一人で段取りをつけていたこともあって、二階の片付けは予想以上に進んでいた。結構な分量が、庭に積まれている。一部床を剥がして一階を調査したが、夕方近くなり片付けを断念する。妻はトラックに同乗したが、私は行きと同様に、徒歩で再び西宮に出て大阪に戻る。
妻の実家である本多の義兄と義姉に尽力してもらって、姪の恵子さんの嫁ぎ先の重松一也さんが大阪時代に使用していた空きマンション「ライオンズマンション上本町」に入居できることになった。震災後、僅か一週間で疎開先が決まるというのは、幸運以外のなにものでもない。上本町から鶴橋にかけての土地勘は殆どなく、疲労も甚だしく、しかも夜なので迷いもしたが、トラックよりは少し早くマンションに到着し、妻を待った。夜八時に、荷物が届く。一部を部屋に引き上げ、大半は横関工務店に預かってもらうことになった。横関さんは大変良心的かつ親切で、有難かった。マンションでは落ち着けないので、重い足を引きずって、新大阪トーコーホテルに九時過ぎに着く。東三国駅の二十四時間営業の食堂で丼物を注文したが、不味くてのどを通らない。疲れが頂点にきているのだろうか。ホテルは新しいこともあって、設備はビジネスホテルとしては上級である。入浴も程々に済ませ、ベッドに眠り込む。
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一月二十五日(水)晴  大阪ミナミに疎開先確保
森南町の取り出し家財の松山送りを、カネボウ物流竃廣治常務と打ち合わす。好意的に、最大限の配慮をしてもらえるとのこと。大助かりである。日本経営協会総合研究所の松本周二取締役、元の上司である牧野元昭、角能勝之、太田孝三さん、媒酌人をした窪田聖君ほか多数から電話を受ける。昼食は、ひさびさに、南森町の「ピストロ」で一口カツ。確かに旨い。主人は、元外国航路のコックだったとか。愛想がない分、味は美味といったところか。
重松一也さんからマンションのキーが届いたので、マンションに顔を出す。本多の義姉が震災見舞いを兼ねて来訪してくれる。3LDKサイズで、押入れは一ケ所だけだが、家財が殆どないから結構広く感じる。妻は、いずれ松山に戻るのだから、新しく家具を購入するのは止めましょうと提言してくれているので、今後は「清貧」を旨として生活していきたいものだ。近鉄本線がマンションの側を走っており、列車が気になると言えば気になる。勿論、二重窓になっているのだが。三時に帰社。夕刻になって、カネボウ物流鰍フ連絡あり。「二十六日積み込みの二十七日松山着」のスケジュールになる。身体の疲労具合からちょっと無理かなとも思ったが、最大限の配慮を無にする訳にもいかず了承する。早速にANAに航空券を手配する。
今夜の宿泊は支店近くのリバーサイドホテルだが、ホテルを転々とするのは予想以上に気疲れするし、ベッドが毎晩替わって熟睡できず、疲労困憊でダウン寸前である。ホテルの豪華なディナーものどを通りそうもなく、カレーライスを注文する。風呂にも入らず、ベッドにもぐり込む。疲労が極度に達しているのだろう。妻のほうがもっと大変だろうと思うと、疲れたとも言えず、大丈夫々々々とやせ我慢を通す。
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一月二十六日(木)晴  震災の汗を道後の温泉で洗へ
リバーサイドホテルでは、食欲はなく、妻共々朝食を抜く。こんなことは私にとっては数年に一度の珍しいことなのだが−−−−−−−−。チェックアウト時、三谷康人社長に出合い、妻を紹介する。妻は上本町のマンションに直行し、昨夜搬入した生活用品の整理、片付けに専念する。桜の宮駅前の薬局で「太田胃散」を求める。消化不良時のおまじないは、小さい時から「太田胃散」であり、精神的ストレスが強いだけに、当面は精神安定剤的な効用があるのかもしれない。薬品会社の役員で自社の「ワカ末」を服用しないのは、正直なところ気がひけるのであるが−−−−−−−−−−。
水野薬専事業部長、進藤営業部長が、朝礼前に来社、簡潔に現状報告する。今夕松山へ荷物引取のため帰省するので、事情説明の上、早退する。阪神電車が青木迄開通したので、神戸の次男宅に出掛け、リュックサックに背広、カバン、ジャンバーを詰め込み、道後の家の鍵を取り出す。部屋の雰囲気から、その後次男は帰宅していない様子である。青木駅に向かう途中で、偶然に、太田泰三OBに出会う。地震当夜、自宅の一階に寝ていたので自力脱出は出来ず、数時間後に救出されたとのこと。オールカネボウ野球部の選手で、頑健な身体の持主ではあるが、今度は大変だったらしい。
昼食も抜き、午後二時に上本町のマンションに帰宅する。妻は感冒と疲労で、カーペットの上で、ごろりと横になっている。昼頃、本多の義姉と義姉の姉が訪ねてくれた由。午後三時、妻と一緒にマンションを出て、阪急蛍池経由で伊丹空港に向かう。ANA四五五便で松山に飛ぶ。夕食は道後の実家で、義姉持参の巻き寿司で済ます。夜九時、妻は家に残して、義安寺に参詣し、亡き父母に家族の健在を伝え湯口に彫ってある正岡子規の「十年の汗を道後の温泉で洗へ」の句を目にして、生かされている自分を実感した。もしかしたら、道後の温泉には入浴できなかったのかもしれないなと思うと、じーんとこみ上げるものがあった。ゆっくりと入浴する。
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一月二十七日(金)晴  故郷の人情は有難きかな 
七時起床。朝食は、昨日の夕食と同じく巻き寿司で済ます。八時には、お手伝いの林さんが顔を出す。九時過ぎ、西部運輸の荷物が到着する。四トントラックでは、家の前の道には入れず、文化会館の通りで駐車して、手押し車で運び込むので予想以上に時間がかかり、十一時完了。夕方まで、家の中での片付け。座敷、次の間、奥の間、二階と分散させる。自分と息子の書籍類は長屋門の一部屋に集約する。夕、岩崎雄吉翁が訪ねてきてくれる。九十二歳とかだが、元気であり、月末から四国遍路に出掛けるという。本当に心配してくれているのがよくわかる。有難いことだ。柏井正子さんも顔を出してくれ、妻の咳を気にして、キンカンを煮込んでくれる。故里の人の有難味、暖かさをつくづく感じる。人住まぬ旧家の底冷えからか、夕方近くで風邪をひいた感じを持ち、「メディコ21」で感冒薬を求め、早めに飲用する。「椿湯」で汗と片付けの汚れを落とす。夕食は、「大黒屋」で釜飯、じゃこ天と清酒一合。夜は、震災見舞いの電話が数多く架かり、こちらからも電話する。
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一月二十八日(土)晴  片付け・片付け・片付け@
朝一番に、生前の父の行動と同じく、タカギベーカリーでハムサンドを求める。九時から、前日に引き続き、妻と別々に片付け開始。書斎の片付けは、午前中に目処がついたが、妻のほうは片付けが大変だ。座敷、次の間の仕分けが完了し、一応の整頓ができた。というより、何が何処にあるかがわかるようになったという状態だ。 昼前、山口晃子さんが、巻き寿司、伊予柑持参で見舞い挨拶に来てくれる。ありがたいことだ。昼食も、当然に巻き寿司となる。巻き寿司オンパレードの毎日である。午後三時頃、道後公園前のスーパー内のメディコ21で風邪引き用のマスク、トローチを買う。「としだ」で「持ちかえりうどん」を求める。帰途、道後駅前派出所で、先日所在がわからなくなった財布の紛失届を提出する。
夕方、昔から出入りしている平岡穆さんを呼び、松の剪定を依頼する。特には急がないということで、二月中旬になった。松の剪定は一本当たり一万六千円で、庭の松だけで九本はあり出費も馬鹿にならないが、精神安定剤の代用と割り切る。平岡穆さんに合鍵を手渡し、剪定作業の段取りを一任する。遅めの夕食を済ませ、妻と義安寺に墓参する。帰途、椿湯で身体を休める。夜は、親戚への電話連絡に追われる。身体は極端に疲れているが、精神的な落ち込みは自分では感じない。妻も元気なのでありがたい。
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一月二十九日(日)晴。寒し  片付け・片付け・片付けA
昨日の疲れはとれそうもない。むしろ、片付けそのものに飽きがきて、能率的な行動を伴わない。あまり無理をせず、片付けを継続する。六時半起床。朝食は、昨日の頂き物と「としだのちらし寿司」。昼食は、食料品の在庫整理と「としだのうどん」。今年の夏七月に道後小学校の同窓会を企画されており、従妹の柏井正子さんに出席希望を連絡する。伊予銀行の貸し金庫鍵がわからず、またまた紛失したかどうか心配したが、幸い裏庭の近くで発見できた。やれやれ。
震災後、日常生活での不注意が多くなったようだ。考えごとをしていることが多く、集中力が大幅に落ちているのだろう。亡父がしばしば神戸に送ってくれていた「里」から伊予柑を、世話になった横関工務店に送る。気持ちだけだが、誠意は汲み取ってもらえるだろう。夕、十七時発ANA四五二便で松山空港を発ち、大阪に向かう。夜は、本多の義姉が紹介してくれた上本町のマンション近くの「海南亭」での焼肉で精力をつける。メニューをみても、いかにもミナミらしい。休日ではあるが、入口に並んで待つ家族連れ多し。繁盛している店らしい。