第七章 森南町区画整理 誰がために町はある |
0701 |
(一)巧遅より拙速の日々を重ねて |
|
震災後二か月が経過すると、森南町の被害の片付けも、住民の気持ちも徐々に落ち着いてきた。行政の対応や、住民の復旧への見解の相違もあり、必ずしも一体化したわけではく、それぞれに微妙なズレが生じてきた。第一部「ドキュメント罹災一ヵ月」と第六章「早春賦」では日記体で記述したが、第七章に入るに当たって、震災二ヵ月の身の回りの経過をざーっと振り返っておきたい。 |
平成七年一月十七日午前五時四十六分に阪神大震災が発生した。震度7の分布は、西宮市の西部から神戸市須磨区の西端までと、淡路島の北淡町と一宮町と津名町の一部に及んだ。(気象庁の現地調査による) 神戸市の発表によれば、以下の通りであった。 |
|
死 者 |
|
5、378人 |
|
行方不明者 |
|
2人 |
|
負 傷 者 |
|
34、626人 |
|
家屋全半壊 |
|
159、544棟 |
|
火 災 数 |
|
531件 |
|
がれきの推量 |
|
1、100万トン |
|
(注)二月一六日現在 各府県警・消防庁など調べ |
|
地震発生からの数日、私ども夫婦は日常生活では考えられないような機敏な対応で危機を乗り切った。一月十七日、震災当日の昼間は、隣家の人達とともに「向こう三軒両隣」を互いに激励し、生存の喜びと明日への希望を語り合ったが、翌十八日の早曉には、次男夫婦と共に、六甲山トンネルを突破して、午後には福知山のホテルで落ちつく。ホテルで、関係先(会社、親戚、知人)への連絡と、震災の全容をTVとプレスで入手し、今後の対応(危機管理)を検討する。一月十九日、地震発生から三日目には大阪市内のホテルを「止まり木」にして、私は会社で、妻は神戸で、とにもかくにも行動を開始した。極度の疲労と睡眠不足が続いたが、暖冬であったことと異常な緊張状態がプラスに作用して、風邪で寝込むこともなく二ヵ月間は健康な身体を保つことができた。 |
一週間の「止まり木」生活も、親戚の好意で早々に大阪市内のマンションに入居でき、倒壊した家屋から取り出した家財は、松山の実家に纏めることができた。罹災者の多くは、学校等に緊急避難し、家財等は風雨に晒したままであり、やがて廃棄を覚悟することになるのだが、それに較べると幸運だったと思う。 |
女性に較べて男性は諦めも早いし、元来楽観的な性格でもあり表面的には平常心を保つことができたが、夫婦二人の会話では、互いに愚痴を言い合った。マスコミでは、震災後遺症としてのメンタルヘルスを採り上げることが多くなったが、私的な生活では単独の行動は避けて、夫婦の一心同体の行動をモットーにした。ああすれば良かったと思うことは数えきれない程あるが、緊急事態には「まず行動ありき」であろう。 |
会社でもそうだが、抜本対策を策定するにあたって「小田原評定」になったり、責任回避をとったり、最終的には「その場の雰囲気」で纏め上げることが多い。私ども夫婦の場合は、家のことは「婦唱夫随」と思っているのだが、妻から言わすと、私は「時代後れの暴君」で、自分が一緒についていくから納まっている典型的な「夫唱婦随」の家庭という。恐らくそうだろうと思うが、緊急事態には「思いつきで勝手に変更しない」ことが肝要であり、その意味では暴君的であっても、「巧遅より拙速」で行動したことが、早期の立ち上がりを可能にしたのではないだろうか。 |
「誰がために町はある」として、これから纏める第七章は、公式記録を残そうという意図はまったくなく、一罹災者が、というより大被災を受けた家庭が、大阪に疎開しながら、乏しい現地からの情報のなかでどの様に右往左往したが、故郷四国の言葉で表現すれば、いかに「てんやわんや」(獅子文六)したかの記録である。 |
尚、森南町の現地に残って力強く町の再建に乗り出した住民の記録としては、「まちづくり年表」 VOL.1.(1995.1.17〜1995.9.11)が、同時進行記録であり、正確さは別として真実であろう。私の日記記載の間違い部分は、この年表で修正した。 |
0702 |
(二)事実より真実の報道を求めて |
|
震災から一週間後に、大阪に疎開先を見つけたが、心は神戸市東灘区森南町にあった。 新聞記事は隈なく目を通すのであるが、大阪本社版は神戸版と違い、罹災者にとってはフィルターを通った記事にしか写らない。TVは、これでもかこれでもかと震災の報道と画像を流すが、日本の九割以上の地区の視聴者は騙せても、直接の罹災者は騙せない。 報道は事実であるが、真実ではないことをこれほど痛感したことはなかった。TV写りの良い菅原市場や、三宮・元町の官庁と商店街のビル倒壊、阪急六甲の界隈がこれでもかこれでもかと放映される。 |
デマというか風説というか、色々な情報が流れてくる。もっとも為にする情報は、火災保険欲しさに放火したとか、夜間は婦女暴行やら火事場泥棒の横行などである。まったく火の気がないということではないが、関東大震災後の朝鮮人暴行や左翼弾圧の暗いニュースを思い出す。倒壊した自宅はそのままだし、家財はその下に埋まっており、正直なところ、盗難は致し方ないが、火災は勘弁してほしいと願った。二月に入ると、「森南町が都市計画法による区画整理の対象になった。立ち退きさせられる。二十米幅の大型道路を東海道線に平行して新設する。」との情報が大阪に流れてくる。 |
昭和二十年七月の故郷松山は空襲により市街地の殆どを焼失し、戦後都市計画で大幅な道路の開設により復興の気運が蘇ったが、神戸市としても同じ発想で「この際」と強引にやるのか。しかし時代は違うし、住民の合意は取れないだろうし、賛成する市会議員は次回の選挙で全滅だろうから、十年戦争だなというのが率直な印象であった。 |
0703 |
(三)「まちづくり協議会」始動 |
|
二月に入ってから、住民運動が活発化して、二月二十四日に「森南町・本山本町まちづくり協議会」が結成され、曲がりなりにも公式の団体として活動が開始された。大阪の疎開先にも連絡の書状が届いた。当然のように、地元住民による反対運動が起こり、新聞・TVにニュースが流れはじめた。近くの加賀幸夫さんや市会議員の小島喬さんの顔をTVで見ることが多くなった。 特に加賀幸夫さんのインタビューは、本当に困ったという苦悩を全身で現し、一見弱々しそうな雰囲気が、見る人に「何とかしてあげなきゃあ」という気持ちを喚起させたように思える。 |
二月二十八日から都市計画案の縦覧がはじまった。時間のやり繰りがつかず、閲覧できなかったが、@十七米森本山線 A十三米本庄本山線 B甲南本山駅(JR新駅)駅前広場が骨格になるとのプレス発表で、大枠が頭に入った。総論賛成・各論反対もあるが、このような不測に事態には、「一歩後退・全面後退」の危険性があろうから、「総論反対」で進むことになろうと判断した。「絶対反対」の署名と、町内会の新編成とその加入に同意する。 |
「森南町・本山中町まちづくり協議会」には二回出席した。(五月二十八日、八月二十日)。この協議会は、森南町一〜三丁目、本山中町一丁目の範囲で「住民参加による、住民合意に基づく、住民のためのまちづくり」を推進し「やさしい気持ちになれる町」に再生することを目的にすると方針を明確にしている。森南町からは八人選出され、森南町1丁目の加賀幸夫さんが会長となった。出席した「まちづくり協議会」当日の印象を日記から抜粋する。 |
|
五月二十八日(日)晴 |
午後から、神戸森南町地区まちづくり協議会による報告会が、森公園内の「てんと 村」で開催され、妻とともに出席する。神戸には一ヵ月ぶりか。更地化が進み、一体半年前にはどんな建物があったか思い 出せない位だ。過去のすべてが失われた感じがしてならない。それにしても、人間の 記憶とは頼りないものだと実感する。 |
十七米道路、都市計画開発プランの裏話、住民による街づくりと、興味深い話を聞 く。ブロック塀から生け垣へとの提案は、人に優しい町づくりとして、市民として出 来る第一歩か。千三百世帯で現在は四百世帯とか−−−−本山第三小学校の生徒数は激減している のではないだろうか。帰途、サティに立ち寄るが、こちらも閑散としている。復興の単位は、五年〜一〇 年の単位になりそうだ。 |
|
八月十九日(土)晴 |
午後から、神戸森南町地区まちづくり協議会による報告会に出席する。今回は森公園近くの地域福祉センターである。伊達静男夫妻に会う。都島の社宅から神戸の深江に再度引っ越した由。 |
1)「森南地区復興まちづくり憲章」は次の原則で進めることになった。 |
|
@ |
|
震災前のまちの記憶を大切にするまちづくり |
|
A |
|
震災の体験を生かす防災のまちづくり |
|
B |
|
自然を生かす緑ゆたかなまちづくり |
|
C |
|
歩行者優先の安全なまちづくり |
|
D |
|
地域の歴史や文化を継承するまちづくり |
|
E |
|
すべての住民が参加し、みんなですすめるまちづくり |
|
2)今回明らかになったのは、十七米道路の実現の可能性は薄いということだ。 もっとも、個人に戻って森南町の跡地をどの様に活用するかを、ここ数年で結論をだすことが必要だ。子供の希望が強ければ、新築することになろうが−−−−−−−−−−−。 |
行政サイドと森南町・本山中町まちづくり協議会の役員と現地住民の葛藤はあっただろうが、平成七年 月 日の新聞報道で、住民の希望が大幅に通る画期的な変更がなされたことが新聞に報ぜられた。「三好さん、家建てませんか。もう大丈夫ですよ。」と質屋の上西さんからの連絡も届いた。 震災後一年、やっと将来に対する希望が見え始めた。芦屋駅から森南町への道路からも新築の家々や槌音が聞こえてくるようになった。 |
0704 |
整地から土地活用へ |
|
周辺部の整地も順調に進み、質屋の山西さんのお宅や、北隣の岡田さんのお宅が建ってくると、拙宅の土地も荒れたままというわけにもいかない。夏になれば、雑草がはびこり、隣近所の迷惑になることも十分考えにいれると、本格的に整地する必要が生じてきた。とは言え、神戸市の区画整理の結論は出ていないし、恒久的な家屋を建てるわけにもいかない。幸い、松山で父から相続した遊休土地の駐車場経営の経験があり、これを生かして当面は神戸でも駐車場として活用してみようと思い立った。 |
0705 |
武家の商法はローリスク・ローリターン |
|
松山の遊休土地(鴨川・北代)は、八木不動産に依頼して駐車場として活用しており、当初は無理せず、設備投資ゼロの、舗装もしない、大雨が降ると水浸しになる最低にインフラからスタ−トした。契約料が周辺に較べて若干安いこともあり、平成七年末には満杯になった。偶々この時期に、駐車場の活用についての引き合い(住宅展示場)もあり、カネボウ不動産鰍フ兼松部長とも相談して前向きに回答したが、タイミングが合わず契約までには至らなかった。中四国の横断道路の完成も近づき、当初の目論見通り、駐車場を前を通るバイパスの利便性が見直され始めた。 |
偶々、プロミス鰍フ無人基地「いらっしゃいマシン」の設置の話が持ち上がり、「事業場の定期借地権に基づく賃貸」の勉強も兼ね、駐車場の一角を貸すことにした。 駐車場にくらべると、はるかに採算がよく、保証金を軸に、駐車場の本格的な舗装と金網の柵を設置し、よそ様にくらべてもそれほど引けを取らない駐車場にした。 これを機会に、駐車料金も世間並みに引き上げたが、今までの関係もあり、全員が継続となり、資産管理、固定資産税対応、今後の生活設計上も、まずまずの経営となった。 経験から学んだことは、不動産の素人経営の成否は、しっかりした頼りになる不動産管理業者を見つけるかどうかであろう。松山では、願ってもない、信頼できる不動産屋と付き合うこととなったのは幸運であった。 |
神戸の方も、妻と相談することも必要ない程家族同士で知り合っている(深い付き合いではないが、人間的にも信頼できる、カネボウとも長いつきあいのある)藤井不動産に 依頼することにした。会長の藤井範男さんは、芦屋市の自民党の世話役でもあり、業界の役員でもあり、地元の世話役・まとめ役でもある私自身、芦屋に度々出掛けるわけにはいかないし、基本構想だけ話をして協力を願うことにした。快く引き受けていただき、年一〜二回お会いするだけである。平成七年八月十九日付で 藤井不動産(藤井範男さん)にご依頼状を差し上げた。 |
|
|
|
|
|
謹 啓 残暑お見舞い申し上げます。御清祥にてお過ごしのこととお慶び申し上げます。常日頃は何かと御交誼に預かり厚く御礼申し上げます。過日は森南町の拙宅跡地に 関しご相談申し上げましたところ早速に跡地をお見回り戴き恐縮致しております。
さて 本日「森南町・本山中町まちづくり協議会」(会長 加賀幸夫氏)の「復興まちづくり憲章(案)」の説明会があり,久しぶりに森公園側の地域福祉センタ−に出掛けました。十七米幹線道路には、住民としての感情的反発があるだけに、神戸市との交渉は難 航しそうです。説明会は三日連続で開催されましたが,最終日も大盛況でした。関心の高さを思い知らされました。帰途、旧宅跡に立ち寄りました。 ご指摘のように柵の必要性を感じました。但し山一質店(上西宏和 氏)が新築の予定なので、当分は資材置場に便宜を取り計らう予定です。北隣の泉氏の車は便宜を計りましたが納屋については最終的にはご自分の駐車場に移設されました。境界線については東隣の岡田邸とは土台のコンク リ−トと一部塀が残っており,北隣の泉邸とは東北 の角の土台はありました。西北の角(元の玄関入り口)は不明です。最終的には測量の必要がありそうです。
家屋の新築については,当分予定はありません。息子達の希望を聞きながら具体的に検討していこ うと思います。或いは周辺の開発に対応して共同住 宅その他考えて開発に対応してみるつもりです。その節には是非ともお知恵を拝借致したく早々と お願い申し上げておきます。従って,当分の間(数年?)駐車場として活用できれば大変に好都合ですので開設 の時期や管理につき格別のご高配をお願い申し上げる次第です。宜しくお願い致しま す。 又、家内からもお宜しく申しております。気候不順の折からご自愛専一の程祈念申し上げますと共にご家族皆々様のご健勝を お祈り申し上げます。先ずはお願いと近況ご報告迄。 敬 具 |
|
|
|
|
|
|
|
藤井不動産の提案もあり、南北に残った塀はそのまま利用することにし、南側は道路から入れるように溝に架けた鉄板をそのまま利用することにした。更地の上舗装をすると、神戸市の震災特例の固定資産税の減免がなくなるので、敷地は砂利をいれて固めるだけに止めた。何台契約出来るか心配であったが、一台、もう一台と月を追う毎の増えていき、数カ月で満杯となった。七十坪弱あるので六〜七台は置けるとは思ったが、無理をせず五台の運用とした。此処でも、市中の一割程度安めに駐車料金を設定したが、松山に比較すれば四倍の料金であり、心配していた停年後の固定資産税対策の見通しが立った。ある程度の資金的余裕ができたので、藤井不動産からの提案や忠告もあり、庭木の伐採や除草、整地を定期的にやることになった。 |
0706 |
最後の一線、なかなか決まらず |
|
一方、北隣りの泉浩一さんとの境界確定の作業が残った。境界線は、なあなあでは後日こじれて紛争の種になってもいけないので、専門家に委任することにして、費用は折半で負担することにした。平成七年十一月十七日付 泉さん宛書状から具体化が進んでいった。 |
|
|
|
|
|
謹 啓 深秋の侯皆々様には益々御清祥のこととお慶び申し上げます。 さて過般来のお打合せに従い、カネボウ不動産株式会社を通して依頼しておりました「敷地境界線確定の為の査定並びに付属する作業」につきまして「見積書」が提出されました。一見して高額なのに驚きましたが 神戸市の強震地区については市道の確定が前提にあり、「官民境界の明示申請」をしておかないと今後予想される区画整理で思わぬ混乱を招く危険があります。この為の費用が××万円となります。土地家屋測量士の和田朝博氏は、カネボウの森南地区土地売却時から関係があり、 現地事情にも精通しておられる由であります。 私方としては、神戸市の区画整理は当然実施されるものと考えておりますので、この際官民境界を明確にしておくほうが好ましいと判断しております。泉様宅の塀(柵)の建設もお急ぎと存じあげますので早急に御検討賜りたくお願いします。当方としては泉様の御連絡を待って先方への意思表示をさせ
ていただきます。尚 1)境界線確定の作業に約三週間必要であること 2)費用については折半にさせていただくことになります。見積書の写しを同封いたします。 日一日と寒さが厳しくなってまいります。呉々も御自愛のほど祈念申し上げます。奥様にもお宜しく。先ずは、用件と御挨拶迄。 敬 具 |
|
|
|
|
|
|
|
この手続きは気の遠くなるほど日数がかかり、一年経っても何ら捗らなかった。 区画整理の途上にあり、神戸市の登記受理が遅れているらしい。私自身も特に急ぐ気持ちにもならなかったが、お隣さんは高齢でもあり、気が急いているようであった。 平成八年末現在では、最終的に受理されていない。 |
0707 |
森南町の跡地の行く末は−−−−− |
|
父から譲り受けた時には、土地収入はゼロであったが、道後南町の親和観光開発鰍ヨの賃貸地を駐車場活用可能の土地と等価交換して、本格的に駐車場経営で現金収入を得るようにした。 父とは違い、会社生活の後半は経営職であったので、不動産経営も現状ではスムースに展開中である。「ハイリスク・ハイリターン」とは程遠い、「儲けなくとも損はしない」という「ローリスク・ローリターン」に徹しているが、現在の史上最低の低金利と右下がりの景気下ではこの方針が一番よいのではないかと思う。銀行マンである次男には、ファミリー企業の設立を研究するように依頼をしているが、税金対策と相続税対策の有効な手段を考えていかねばなるまい。 |
神戸市の区画整理の帰趨を待つ必要はあるが、神戸の土地は、松山で老後を過ごす私ども夫婦にとっては、そこでの生活の再開はあるまい。息子達が活用して欲しいのだが、息子たちの世代には、それなりの生活パターンもあろうから、無理強いもできない。なるようにしかならないということか。最後は土地を手放して老後の生活資金に回ることもあろう。色々な選択肢があるということは、人生の彩りにも役立つことだろうから、その時が来るまでは、駐車場経営を持続していくことにしよう。 |