目次紹介 |
|
「角川」から「波郷」の全句と一部随筆などを収録した「石田波郷読本」平成16年年9月27日没後35年記念出版 |
石田波郷読本 発売日:2004年 09月 27日 |
昭和俳句の革新に尽瘁した風雲児、人間探求派俳人波郷の全貌を1冊に凝縮。 [ 著編者 ] 著:石田波郷 [ 内容 ] 『鶴の眼』から『酒中花以後』までの八句集を完全収録する全句集。随筆43編、評論37編、自句自解、俳論俳話抄のほか、書き下ろしの「波郷の人と作品」、年譜、著者解題を収める廉価版石田波郷集成。没後35年記念出版 定価(税込):予)1500円 A5判 ISBN 4-04-651920-7-C0095 編:角川学芸出版 |
発行所 石田波郷顕彰会 松山市三番町4-6-1 ダイアパレス三番町1304 発行人 熊野 伸二 п@089-913‐0169 印刷所 西日本写真製版印刷 п@089-943-4299 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
石田波郷 本名哲夫 略歴紹介 |
温泉郡垣生村大字西垣生980番地に,父惣五郎,母ユウの次男として生まれる。 大正14年,松山中学校入学,4年生の時,同級生中富正三(俳優・大友柳太郎)のすすめで句作をはじめ,「二良」「山眠」と号した。ちなみに,大友は「如煙」「悠々」と号した。 昭和5年余土村の五十崎古郷(秋桜子門)を訪ねて入門,古井古郷より「波郷」の号を与えられる。 昭和9年俳誌「馬酔木(あしび)」編集に参加,この年入学した明治大学を中退して久保田万太郎を慕って句作に専念し,昭和12年9月,俳誌「鶴」を創刊して,主宰者となる。 昭和44年56歳で死去。 |
句碑案内 |
|
百日紅 ごくごく水を 飲むばかり | 賀茂CCに句碑建立。 |
俳優の「森繁久弥」氏が好きな句 | 森繁久弥の次男が経営しているというゴルフ場。 |
| |||||||||
石田波郷(本名・哲大)は、大正二(一九一三)年、愛媛県温泉郡垣生村(現・松山市西垣生町)に生れた。小学校四年生のころ、従兄弟らと、「五、七、五」と指折りながら俳句遊びをしていたという。松山中学校(現・松山東高等学校)時代に中富正三(後の俳優・大友柳太郎)に奨められて本格的に俳句を始めた。隣村・余土村(現・松山市余戸中)の五十崎古郷(本名・修)の指導を得たのち上京、水原秋桜子に師事。遂には「昭和俳壇の巨星」「現代俳句の旗手」となり、昭和四十四(一九六九)年、五十六歳で没した。 俳句の歴史をひもとけば、連歌ー発句ー俳譜ー近代俳句ー現代俳句ということだろうか。このうち近代俳句の確立者は、いうまでもなく松山出身の正岡子規で、その偉大な業績に異論をさしはさむ人はいまい。子規が新しい生命を吹き込んだ短詩型文学の俳句に蝟集した子規山脈の人々は、県人のみを数えても枚挙にいとまがない。今日、一千万人ともいわれる俳句人口の基底をなす人々で、その頂点たる子規が郷土の誇りとして顕彰され、折に触れていまも松山人の口の端に上るのも、むべなるかなである。 翻って、石田波郷に対する同郷人の関心は如何ーと考える。 波郷は最初ホトトギスに依ったが、花鳥風月の諷詠を敢然と踏み越え、生活と俳句を重ねた境涯俳句を追究することによって現代俳句性を獲得していった。行を同じくしたのは、中村草田男、篠原楚(ともに松山出身)や加藤楸邨で、山本健吉が「人間探究派」と呼んで、定着した。 波郷は「風切宣言」(昭和十八年)で「俳句表現の散文的傾向▽平板疎懶(そらん)甘美なる句境▽俳句の絶対的価値軽視」を矯正しなければならないと考えた。「俳句の韻文精神の徹底、豊饒なる自然と剛直なる生活表現」などを主張「俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々(しょう)又朗々たる打坐即刻のうた也」(昭和二十一年、俳誌「鶴」復刊一号)とのべた。 若くして胸を患い、肋骨七本を切除するなど病院へ入・退院を繰り返し、計七年間の入院生活を送った。文字通り生命を削りながら作句を放棄することはなかった。奇しくも、その姿は背髄カリエスに呻吟しながら俳句・歌の革新に生命を燃やした子規の姿とダブルのである。 そんな波郷は、十九歳で上京以後、故郷へ帰ることは極めて少なかった。しかし、心はいつも松山の父母を思い、山河を懐しがっていた。柿、橙、無花果、麦こがしなど松山の味も忘れなかった。「秋いくとせ 石鎚山を見ず 母を見ず」の句は、係累と故郷をこよなく愛した波郷を余さず伝えている。 結婚後、波郷が居を構えた東京都江東区の北砂町には、波郷が暮らし、作句したことを誇りとする土地の人々の願いによって、近年波郷記念館が設けられた。たまさかその地に住んだ異郷出身の俳人を敬う江戸っ子の心意気を目の前に、波郷出生地・松山の人間として、内心じくじたる思いを禁じ得ない。偉大な先駆者に対し、同郷人として余りに無関心に過ぎないかーと。 折しも今年は波郷生誕九十年で没後三十五年の節目の年。三十三回忌の一昨年、これまで沈黙を守っていた波郷の長男・修大氏が、波郷の新生面を明らかにする著書二冊を相次ぎ刊行した。その凄絶な生きざまに改めて感動し、大いに刺激された。俳句に関しては一読者に過ぎない門外漢ばかりだが、有志あい集い顕彰会を発足したゆえんである。当面、顕彰碑・句碑建立を意図しており、会誌創刊もその一環に位置する。出身地ならではの、波郷に関わる話題も、今のうちに収集しておきたい。研究・調査は息長く、愚直に取り組みその成果を公開していく。 素人集団の気宇壮大な企てに、大方のご指導・ご協力をお願いしたい。 |
葦雀 二人にされて いたりけり |
We are left |
just two of us only with |
the reed warblers |
百日紅 ごくごく水を 飲むばかり |
|
東京の 椎や欅や 夏果てぬ |
Tokyo Capital of Japan |
looking trees of Shii(chinquapin),Keyaki |
then summer has gone |
石田波郷(没後三十五年 生誕九十年)顕彰会趣意書 |
|
寒椿 つひに一日の ふところ手 |
Camellia looking |
all day long mid-winter |
hands in pockets |
伊予姫 |
我が家を「百椿亭」(ひゃくちんてい)と名付け、椿をこよなく愛した石田波郷 椿1 椿2 |
「椿」は松山市の「市花」です。市内の野山や神社の境内には、古くから「つばき」が多く植えられ、丈夫な常緑樹で力強く、希望と幸せをもたらす花です。園芸品種は、まず日本産ツバキと洋種ツバキに大別される。日本産には江戸時代からおこなわれている産地別の分類がある。関東ツバキ(江戸椿の系統。岩根絞、光源氏、羽衣、花富貴など)、関西ツバキ(京椿の系統。胡蝶侘助、隠れ磯、熊谷、加茂本阿弥など)、中部ツバキ(尾張椿の系統。細雪、玉霞、紅妙蓮寺など)、肥後ツバキ(王冠、日の丸など)を柱に、久留米、長崎、松江、金沢などの品種群がある。さらにユキツバキ(祐閑寺名月、雪小国、紅千鳥など)、ワビスケ(侘助)、ウラクツバキ(有楽椿)などの系統がくわえられる。しかし、ツバキを地方別にわけることが無意味なほど地域相互の交流が増加し、現在では、花色と花形による分け方が一般化している。洋種ツバキはジャポニカ系洋種、トウツバキ系交配種、トウツバキ系以外の交配種に大別される。 Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved. |
香水や すさまじき汽車 風の中 |
Perfume ! |
roaring sound train |
on the wind |
石田波郷 (没後三十五年 生誕九十年) 顕彰会のとりきめ |
|
|||||||||
Rollei(ローライ) | LEICA(ライカ) |
波郷は戦後間もなく東京療養所へ入院。 その頃から写真に興味を抱きはじめた。 |
石田波郷 (没後三十五年 生誕九十年) 顕彰会役員名簿 |
顧問 松岡 芳生 会長 熊野 伸二 副会長 (会計担当) 伊達 泰介 (総務担当) 大本 徳森 (事務局担当)黒田 義清 常任理事 木村 博 河野 啓一 理 事 市川 尭星 箱崎 敏信 柳原 祐二 藤本 早苗 宮本 孝子 森実 陸郎 監 事 周防 栄一 河野 千鶴子 |
(2002年11月21日現在) |
西日中 電車のどこか 掴みをり |
Light of afternoon sun |
grabing somewhere |
by streetcar |
|
盆の家 けぶりゐるなり 電車の前 |
Bon Festival fire |
smoldering |
in front of passing train |
|
| |||||||||||
「春は名のみの風の寒さや」という歌詞で始まる「早春賦」。まさにその通りで、梅の花が開き、ウグイスの声が里で聞かれる時期になっても、特に、早朝の寒さには思わず身を縮めてしまう。 そんなある朝、一人の若い女性がバス停でたたずんでいる。吐く息は白く、寒さを紛らわせようというのか、時折、小刻みに足踏みをしている。肩には大きなトートバック。筒状に丸められた用紙の先端がバッグからはみ出して見えている。 どこからかエンジン音が響いてきた。反射的に顔をそちらに向けた彼女は、やがて「なんだ、違ったか。」というような表情を浮かべ、それから、視線を上空へと移した。朝の光に照らされたその顔の、なんと生き生きしでいること。これからの人生への希望にあふれ、輝かしい未来を確信しているかのように晴れ晴れとした、しかも、自分の生き方を貫こうとする意志の強さをも表しているようなきっぱりとした表情。これこそが、まさに「若さ」なのかもしれない。 これは、ある俳句を目にした時に脳裏に浮かんだ情景である。もちろん、私の勝手な想像であり、作者の詠んだ情景とは異なっているかもしれないが、できあがった作品が読者の想像にゆだねられるという性質をもつ以上、それはご容赦願いたい。とにかく、その作者について確認をしないままで私が冒頭のような情景を想像した俳句とは、 「バスを待ち 大路の春を うたがはず」 であった。一九三三年、石田波郷二十才の時の作である。 前年二月、波郷は句作を唯一の目標として上京している。言うまでもなく、東京は日本最大の近代都市であるから、四国松山からやって来た波郷にとっては、見るもの聞くものすべてが刺激的で、若い感性を揺さぶるものであっただろう。まして、「馬酔木」の同人となり、前途洋々たる思いがみなぎっていたことは、想像に難くない。 ところで、掲出句は、中学校で用いられている国語の教科書に載っている。現在、俳句の学習は、中学校三年生で行っている。義務教育の最終学年として、学習面や運動面をはじめ今まで以上に充実してくる時期である。高校に進学する者、社会に飛び出す者、それぞれの進む道はいろいろではあるが、誰もが自分の将来に対して漠然とした不安を抱きつつも、同時に、未知なる世界へのあこがれや希望も持っている。 そういう時期の生徒たちにとって、掲出句は何となく共感を覚えるのであろうか、教科書所収の十数句の俳句の中から好きなものを選んで鑑賞文を書かせると、この句を選ぶ者もけっこういる。もちろん、国語の授業という決められた時間内で扱うのであるから、教師の側も、一つの句だけに時間を割くことはできないし、まして、その俳人の人生について深く検証することなどは、とうてい無理である。 つまり、あえて極論するならば多くの生徒とっては、作者が誰で、どういう人生を送ったのか云々は、さほどたいした興味の対象ではなく、冒頭の私のように自分の想像力を働かせ、彼らなりに経験してきたことの中で何かしら共感する部分が感じられるからこそ、好きな一句として選んでいるのである。ちなみに、松山市では本年度より中学校の国語の教科書が変わった。以前の出版社は「光村図書」で、今は「三省堂」である。しかし、出版社は違っても、波郷の句はどちらにも掲載されている。また、松山出身の俳人で双方の教科書に俳句そのものが取り上げられているのは、高浜虚子・中村草田男と石田波郷の三人だけである。 最後になったが、一月末にインターネットで検索してみたところ、「石田波郷」というキーワードでヒットした数が、約1130件あった。江東区の石田波郷記念館はじめ、個人や団体のさまざまなページがあるので、パソコンをお持ちの方は、一度アクセスしてみられてはいかが? | |||||||||||
○NHK五七五紀行 ○現代俳人の俳句(石田波郷) ○石田波郷記念館 ○石田波郷(風鶴院波郷居士)(ASAHIネット) ○・・・etc.etc.etc. | |||||||||||
| |||||||||||
【馬酔木】あしび 1903年(明治36)伊藤左千夫ら発刊の短歌雑誌。08年廃刊。 アララギ。 1928年「破魔弓」を改題した、水原秋桜子シユウオウシ主宰の俳句雑誌。 | |||||||||||
あららぎ【アララギ】 短歌雑誌。正岡子規没後、その門人らが根岸短歌会の機関誌として刊行した「馬酔木アシビ」「アカネ」の後をうけて、1908年(明治41)蕨真ケツシンの手により創刊。翌年から伊藤左千夫を中心に編集、斎藤茂吉・古泉千樫らが参加。14年から島木赤彦が中心となり、赤彦没後は茂吉・土屋文明らが編集。97年終刊。大正・昭和を通じて歌壇の主流をなす。 |
| ||||||||||||
戦後の俳句界の巨峰といわれている石田波郷が、松山出身であることは知っていましたが、なぜ巨峰といわれるのか何も知りませんでした。その私が、引き込まれるように波郷顕彰会に参加させていただいたのは、波郷はその生涯の大半が、病気との闘いの日々であったことを知ったからです。 私は、心臓に先天性疾患を持つ障害者で、今も常住坐臥不安につきまとわれています。病気と闘うということは、ことばで言えば簡単なことですが、なかなか絵にかいたようにはいかないものです。 波郷は、病気と闘うために身も心も俳句に打ち込み、晩年になるほど俳句の新天地を拓いていったと聞いて、私は目からうろこが落ちたように思いました。 私は、俳句が五・七・五の限られた字数で表現される短詩文学であることを常識的に知っている以外、俳句については何も知りません。でも、波郷が俳句への情熱で心を癒したことは、私にとって何よりも大きなはげましになりそうです。なるかならないかは、これから私がどれだけ波郷にのめりこむことができるかどうかにかかっています。 波郷の生きざまをより知りたいと思っています。それが、これからの私の闘病です。 何をどうすればいいのかも、よくわかりませんが、ご指導下さい。一歩や二歩、いやもっと後からでないと、ついて行けないかもわかりません。どうか皆さん、こんな私をひっぱって行って下さい。 私に闘病開眼の機を与えて下さった波郷顕彰会の皆様に、心からお礼を申し上げます。 |
| ||||||||
顕彰会発足日のメーンイベントともいうべき句碑めぐりは、正午丁度、松山市道後二丁目五ー一の山田屋まんじゅう店前へ、会員八人が参集して始めました。 県民文化会館東側を、南町の電車通りから北へ抜ける道路沿い約五百メートルに、県人(又は関係深い人)の句碑を配し、「俳句の道」としたうち、一同が集まった所に波郷の句碑があります。 | ||||||||
| ||||||||
の句です。 | ||||||||
| ||||||||
この碑前に、波郷の写真を立て、全員で句を唱和しました。伊予の青石といわれる緑泥片岩を輪切りにし、表に句だけを彫ってあるものの、建立年月日や建立者名、句が生れた背景など、何ひとつ記録のない碑でした。 続いて訪れたのは、西垣生町四一八の市立垣生中学校。句碑は体育館横にあり | ||||||||
| ||||||||
でず。波郷が少年時代に師事した五十崎古郷の長男で、自らは波郷に師事した俳人・五十崎朗氏(松山市余戸中二丁目)によれば、この句は波郷郷村時代に詠んだ句といいます。もと垣生小学校と同じ場所にあった中学校が現在地へ移転したのを記念し「一九八一(昭和五十六)年三月、垣生中学校建築委員会が建之」と裏面にありました。 ほど近い垣生小学校(西垣生町七三〇ー一 )の句碑は、校庭西北隅にあります。 | ||||||||
| ||||||||
の句です。同じく五十崎氏の解説では「昭和三十六年十月末、母危篤の報に接した波郷が、松山市への帰途、車中で詠んだ望郷母恋の作」とあります。波郷の句集「酒中花」では、中七の「石鎚」が「石鎚山」とあって「いしづち」とふり仮名がふってあります。 ちなみに句碑は、波郷没後二年五カ月後の「一九七二(昭和四十七)年四月、旧友知人有志一同」が建てたとあり「昭和俳壇に不滅の光を放った偉業を称え、後進の奮起精進の指針に・・・」と建立の趣旨が記してあります。 松山市内の波郷句碑としては、以上三基の外、波郷の長兄・和弘氏邸(西垣生町)に | ||||||||
| ||||||||
があります。また、前述の五十崎氏邸には、師・古郷と弟子・波郷の師弟句碑があります。 | ||||||||
| ||||||||
| ||||||||
でず。いずれも拝見したい思いでしたが、個人の住宅地内でもあり、にわかに訪問するのを憚って、同日は割愛しました。いずれご了解を得て、ぜひお訪ねしたいものです。 なお、松山市近郊では、北条市粟井坂近くの古戦場(市史蹟)山の神」に、村上霽月、柳原極堂、仙波花叟、石田波郷の四俳人の句を一基の四面に刻した句碑があり、過日鑑賞してきました。同地の所有者の故・林関四郎氏が、二十数年前、誰かの依頼を受けて建てたといわれていますが、碑面には句以外に一切記録がなく、詳細は不明です。 ともあれ、顕彰会発足を機にあわただしく近在の波郷句碑めぐりを終えました。一巡して感じるのは、子規句碑の多さ、場所の良さに比べて、波郷句碑は少なく、そのほとんどが表に出ていない感じでした。本人がそれを好まなかったことに由来するのかもしれないと思いながら「それにしても、もう少しは衆目にふれやすいところにも・・・」と考えたのは、ひとり私だけではありませんでした。 | ||||||||
(熊野伸二・記) | ||||||||
○垣生中学校(石田波郷) ○垣生小学校(俳句の里の小径) ○俳句の道 (石田 波郷) ○Haiku in English by Noriko Kageyama(Fujimoto) |
|
|
編集記 |
| ||
▼昨年、三十四回目の波郷忌に、なぜか俳句の素人だけが集まって、この会を立ち上げた。誰かが誰かを、手弁当で誘い合って役員に就任した。熊野伸二会長が起草した「趣意書」を異議なく採択。小さな一歩を踏み出した ▼そして波郷生誕九十年の日に、会誌「波郷研究」創刊号が刷り上がった。「立春の米こぼれをり葛西橋」波郷窮乏の日の情熱あふれる代表作が、役員一同の率直な今の気持である ▼ところで会誌の題字は、元国鉄機関車の運転士だった升崎さん(七十七歳)の書。印刷所は、愛媛新聞記者をレッドパージで追われた伊達さん(七十四歳)経営。人間を探究し続けている二人である ▼会誌は年四回発行。乞うご期待。 | ||
編集記 黒田 義清 | ||
005 |
|
|
|
|||||||||||||||
|
|
|
抜粋 松山に季刊「波郷研究」誕生 石田波郷関連ニュース 松山在住の有志が昨秋、石田波郷顕彰会を結成、波郷生誕90年の2003年3月、会誌「波郷研究」を創刊した。同誌によれば東京・砂町の「石田波郷記念館」設立や「わが父 波郷」「波郷の肖像」などの刊行を機に、波郷出身地の同郷人としてこれまで無関心に過ぎたとの反省から顕彰会を発足させたという。メンバーは「俳句に関しては一読者に過ぎない門外漢ばかり」というが、当面、顕彰碑・句碑建立を目指し、会誌を通じて波郷研究を進めるという。 季刊の「波郷研究」創刊号は熊野伸二会長の創刊の辞をはじめ、「波郷のとりこになった私」「若さの共通項」「私の闘病開眼」「松山市内の波郷句碑めぐり」など創設メンバーの寄稿で埋め尽くし、今後は出身地ならではの波郷に関する話題発掘などにも努める方針という。 事務局は、松山市三番町4‐6‐1ダイアパレス三番町・熊野伸二方(電話089‐913‐0169)。なお「波郷研究」の主な内容は同会のホームページ(http://home.e-catv.ne.jp/ja5dlg/hakyou/hakyou.htm) で公開されている。 |