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筆者略歴 |
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五十崎 朗(いかざき ろう)
昭和四年六月四日 松山市生まれ。
同二十八年「鶴」入会。
石田波郷に師事する。
同三十年「鶴」同人、現在に至る。
俳人協会会員。 |
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編著書 |
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「五十崎朗句集」
「句集 南山房」
「五十崎古郷句文集- 芙蓉の朝」 |
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石田波郷の郷村時代の師・五十崎古郷は、筆者の実父で、
自宅「南山房」には古郷、波郷師弟の句を一基にした句碑がある。 |
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『ー-そさういふ半日に私は四五十句を得た。古郷はそれらの句を丁寧に評した。十六も年の異ふ後輩を甘やかしもしないが、見下しもしなかった。ーー』
これは、波郷随筆「古郷忌」より抜いた波郷郷村時代俳句修業の一節である。ところで、波郷は大正二年生れ、その末弟子のかくいう私は昭和四年生れなので、これ亦十六歳違いだ。ここで波郷の嫡子修大(のぶお)と私が十六歳違いということになれば、俳句と病と父子、弟子の三題噺とでもいうことになるのだが、修大氏は昭和十八年生れなので十四歳違い。そこまで話はうまくできてない。
しかしそんなことは、私と彼にとって、全く関係ないのである。
その修大氏に、不思議のようだが、つい先年、修大氏が大病後、日経新聞社を辞めるまで、一度も会っていなかった。何回かの波郷居訪問で、あき子夫人、長女温子さんにはその都度会っているのにだ。修大氏だけがいつも留守だった。だから平成十二年の正月、修大の拙宅南山房訪問が、古郷、波郷の遺児二人の初対面だったのである。時に修大氏五十六歳、朗七十歳、遺児というにしては余りにも遅い初対面だったが、互いに深い感懐を抱いたと思う。
その修大氏に、私はこれまでずっとある親しみともつかぬ思いを抱き続けてきた。これから、そのことに触れてみたい。 |
12年は波郷の年 |
平成12年5月末、修大氏から『わが父波郷』と題する新刊書が送られてきた。表紙をあげると、扉に次のような文面の便箋が挟んであった。
「ごぶさたしております。その節は大変ありがとうございました。『わが父波郷』ようやくできあがりましたのでお送りさせていただきます。出来はごらんの通り書きなぐりの素人作品ですが、お暇な折にでもお目通しいただければ幸いです。5月初めには辻井喬氏の『命あまさず--小説石田波郷』が出、10月には講談社文芸文庫で江東歳時記を主体とした随筆集が出るそうです。11月には砂町文化センターに波郷記念館がオープンの予定で、にわかに今年は波郷の年になりそうです。」
東京の友人から『わが父波郷』は目下重版中で、もしかすると今年のベストセラーになるかもとの便りを貰った。著作にいささか関わった私にとって、喜ばしい限りである。
『わが父波郷』は、波郷の長男である著者の目で捉えた父波郷が、親しみと畏敬の念をもって、時には冷徹に、時には愛憐に満ちた文体で細やかに描かれており、その作者の意図にさすが元ジャーナリストと感じ入った。 |
強い師弟の絆 |
中でも「修大」の命名由来はこれまで波郷随筆には勿論どこにも誰からも明らかにされていなかっただけに、この書でそのことが明白になったことは、古郷の嗣子として誠に感銘深いものがあった。(長女温子(はるこ)さん命名は、水温む頃生まれたからの随想がある。)
即ち「修大」の「修」は、五十崎古郷の本名「修」から、「大」は波郷の本名「哲大」の「大」からとったのである。無論波郷夫妻の考えに拠るものである。父の名から 一字とっての子の命名はよくある話だが、先師古郷の名からとった真相は、何びとも知る由もない。修大氏ですら、古郷の本名が「修」であること、今まで知らなかったというのだからー-。尤も私には、そうではないかとの予感があった。だからこそ、まだ見ぬ修大氏にずっとあたたかい眼差をもち続けていたのである。黙契という言葉があるが、古郷、波郷は黙契以上の強い絆で結ばれていたといえる。古郷の元で句修業に励んだたった二年足らずの間に、俳句の師弟というだけでない、人間としての心の通じ合いができていたのである。それは古郷の倫理感に支えられた人間観、人生観とでもしかいいようのない何かを介してのことだったのである。
黙契は命なりけり秋の風 朗
一時期古郷は、中村草田男をライバルとして句作を続けていたが、己が病篤きを悟り、身代わりライバルとして波郷を上京せしめたとの噂(このことは昭和四十五年「俳句」一月号で草田男自身が述べている)があるが、その真偽は兎も角、そんなことが命名由来では絶対ないことを断言しておく。
修大氏とは初対面以来、松山で一度、東京で三度盃を交わした。さすが波郷の長子だけあって酒豪である。もともともの静かであるが、飲み方も温厚で、乱れない。父似の細い瞳が眼鏡の奥で笑みを湛え、時には沈潜した深みを見せる。手術で片方の腎臓を失ったので俳号を「孤腎(こじん)」とし、時折句会もやるそうである。残念ながら作品を聞くことはできないでいるが、来松の折、又私が上京の際は、必ず会って、酌み交わすことにしている。
波郷資料を公開
東京江東区砂町の江東区砂町文化センター内に「石田波郷記念館」が開館し、波郷の遺墨や遺品その他資料が豊富に並べられており、毎年波郷記念俳句大会や講演会も催されている。
一方、波郷のふるさと松山へも、波郷ゆかりの地を訪ねてくる県内外の俳人や一般人は少なくない。そういった方々のお役に立てばと、波郷ゆかり地めぐりの地図や解説
書を作り、又、東京には及ばぬが、拙宅南山房に、波郷資料室を設けた。松山の唯一の波郷門で古郷の嗣子として当然の務めと思ったからである。
今あるのは、その昔古郷と切磋した頃の句帳や波郷句稿、波郷染筆の掛け軸、色紙、短冊、句入りの扇子、屏風、同じく る‐つけつxx染めののれん、胸の中のピンポン玉こと合成樹脂球、それに波郷の戯れ句
「秋風や肩にローライ手にライカ」 波郷
の波郷愛用のライカ、そして古郷、波郷の二句一基の所謂師弟句碑などなど この中には、修大氏の御好意によるものも少なくない。
いつでも、どなたでもお越し下さるようお待ちしている日々である。
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初硯石田修大と記されぬ |
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朗 |
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冬の雨やばらかき掌も父似なる |
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同 |
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寒見舞波郷のライカ届きけり |
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同 |
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熱燗や石田修大も日本酒党 |
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同 |
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