北満からパラオへの転進

 昭和18年(1943)9月末、大本営は太平洋戦線において絶対確保すべき要域を、 千島・小笠原・マリアナ・西部ニューギニアとする方針を決定した。この構想により、昭和19年1月末に、第十四師団を西部ニューギニアに派遣することを内示し、2月10日に大陸令(大本営陸軍部命令)が発令された。第十四師団は、当時北満の警備の任務についていたが、大陸令を受け、昭和19年3月初め、島嶼作戦に適用するべく改編し、極秘裡に駐屯地を出発し、まず旅順に集結した。
 これより先、2月下旬には、米機動部隊によるトラック・マリアナ諸島に対する空襲があったため、大本営は、同方面への米軍の早期進攻を憂慮し、第十四師団をマリアナ方面へ転用することを決定し、3月22日新たに創設した第三十一軍の戦闘序列に編入して、マリアナ方面への派遣を命令した。
 この命令を受けた第十四師団は、3月28日大連港を出発した。その直後、3月30、31日には、米機動部隊のパラオ大空襲があり、パラオにあった艦船、航空機は大損害を被り、古賀連合艦隊司令長官も飛行艇でのフィリピンへの転進中に行方不明になるなど重大な事態を迎えた。この結果、大本営は次の敵の攻略目標として、もっとも公算の大きいパラオ地区を最優先することに変更し、さきにマリアナ転用を発令したばかりの第十四師団を、方針一転してパラオ地区に派遣することに決定した。
 第十四師団は
鎮海、横浜、館山、小笠原を経て、4月24日に無事パラオ、コロール島に上陸した。第二聯隊は、あらかじめペリリュー島守備の任務を受けていたため、直ちにペリリュー島へ前進し、4月29日までに全員の上陸を完了した。
 

ペリリュー島守備隊

陸 軍 部 隊 海 軍 部 隊
水戸歩兵第二連隊 西カロリン方面航空部隊
高崎歩兵第十五連隊第2大隊、第3大隊及び同配属部隊 第45警備隊ペリリュー派遣隊
独立歩兵第346大隊 第3通信隊の一部
第十四師団戦車隊 第214設営隊
特設第33、第35、第38機関砲隊 第30建設隊の一部
海上機動第一旅団輸送隊の一部 第3南西方面航空廠の一部
第十四師団通信隊の一部、同経理勤務隊の一部、同野戦病院隊の一部 第30工作部の一部
第23野戦防疫給水部の一部 第3派遣隊
第3船舶輸送司令部パラオ支部の一部

      守備隊総数 10500名  ペリリュー地区隊防御配備要図

ペリリュー島の戦闘

 日本軍はペリリュー島に東洋最大の飛行場を建設し、フィリピンの防衛に充てようとしていた。米軍はマッカーサー陸軍大将のフィリピン攻略作戦の障害要因を除去するため、ペリリュー島占領を計画した。米太平洋艦隊を指揮するニミッツ海軍元帥は、第一海兵師団(師団長:リュパータス少将)、陸軍第81歩兵師団(師団長:ミューラー少将)にペリリュー・アンガウル攻略を命じ、4万8千名が動員された。日本軍は第十四師団の水戸歩兵第二連隊を主力にして中川州男大佐が率いる、ペリリュー島守備隊1万500名を編成した。同島守備隊は米軍と74日間の死闘を繰り広げた。
 昭和19(1944)年9月6日、パラオ本島、ペリリュー島への空襲が開始され、11日からは艦砲射撃も加わった。9月15日未明、ペリリュー島南西部の西浜(オレンジビーチ、ホワイトビーチ)に米軍第一海兵師団の2万8千名が水陸両用装甲車に分乗し上陸作戦が敢行された。迎撃する日本軍守備隊は、富田少佐率いる水戸歩兵第二連隊第2大隊(635名、ホワイトビーチのイシマツ、イワマツ、オレンジビーチのクロマツ陣地)、千明大尉率いる高崎歩兵第十五連隊第3大隊(750名、オレンジビーチのアヤメ、レンゲ陣地)であった。珊瑚礁と海岸線の間に敷設された機雷、日本軍の熾烈な抗戦により、多大な損害の受けた米軍は一旦上陸を停止した。強固なクロマツ、アヤメ陣地の正面上陸を避け、防御の手薄なビーチを突く、上陸迂回作戦に転じ、上陸に成功した。夕刻、日本軍は第十四師団戦車隊による反撃を試みたが、米軍の優勢な火力により戦車隊は壊滅した。
 9月16日、優勢に転じた米軍は、日本軍を圧迫、飛行場を占領した。日本軍は、ペリリュー島中央部の富山、天山、中山、大山、南征山、水府山、東山および、島北部の電探台、水戸山の洞窟に立てこもって反撃した。17日早朝には、米軍はペリリュー島の南8kmに位置するアンガウル島にも上陸した。

 ホワイトビーチに上陸する米海兵隊員
画像右の丘はイワマツ陣地
(USMC Photo September 1944)

ペリリュー島中央高地を空爆する米軍コルセア
戦闘機(USMC Photo 1944)

 ペリリュー島では、島内部に深い洞窟陣地を構築して、敵を迎え撃つ作戦が採用された。それまで太平洋のグアム、サイパン、テニアン島が攻撃を受けた際、水際撃退を至上の戦法としてきたため、持久期間が短く、次々と玉砕をしてきた戦訓を生かしたものであった。
 9月23日には、コロールより増援の高崎第十五連隊第2大隊第5中隊(中隊長:村堀中尉、150名))が逆上陸を果たし、翌24日には第2大隊の本隊(大隊長:飯田少佐、690名、村堀先遣隊を除く)も、米軍の反撃に遭遇し、百数十名戦死の損害を出しながらも逆上陸を果たした。
9月23日以降、米陸軍第81歩兵師団第321連隊がアンガウル島から増援されていたが、10月20日、米海兵第1師団(第1、5、7連隊)の損害は限界に達し、米陸軍第81歩兵師団と完全に交代した。同日、米軍はフィリピンのレイテ島へ上陸した。ついに戦線はペリリュー島を飛び越えてしまったが、戦いは継続された。
 11月に入っても、日本軍守備隊は持久戦を続け、天皇陛下の御嘉賞は11回に及んだ。11月8日守備隊は、パラオ司令部に総攻撃による玉砕の許可を求めるが、守備隊に玉砕は許されなかった。11月24日、食料、弾薬も尽きて、ついに守備隊は、戦闘継続不可能となり、事前に連絡していた軍旗を奉焼し、機密文書を処理する意味の「サクラサクラ」の電文をパラオ司令部に送り、最後の総攻撃により玉砕すること知らせた。ペリリュー地区守備隊長中川大佐、師団派遣参謀村井少将は自決、残りの根本大尉以下56名は、遊撃隊を組織し、24日夜から27日朝までに米軍と激しく交戦し玉砕した。
 天山死守を命ぜられた陸軍山口少尉以下の34名(陸軍22名、海軍8名、軍属4名)が米軍に帰順したのは、終戦から1年半以上たった昭和22年(1947)4月であった。

 
参考文献
水戸歩兵第二聯隊史(水戸歩兵第二聯隊史刊行会)
高崎歩兵第十五聯隊史(高崎歩兵第十五聯隊史刊行会)
戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦<2>ペリリュー アンガウル 硫黄島 防衛庁防衛研修所戦史室


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