ナスレッディン・ホジャ

 ナスレッディン・ホジャは、日本で言うところの、一休さんや吉四六さんのような「とんちの人」だったみたいです。
 イスラム教の教師だったことから、感覚的には一休さんに近いかな?
 以下の文は、トルコのドライブインで見つけたナスレッディン・ホジャの本から抜粋(一部文章を短くしてます)。
 なんと日本語の本がちゃんと売られてました。

 ナスレッディン・ホジャの生きた時代は不明。
 知識人でユーモアの天才で、トルコユーモアの代表者でもある。
 言い伝えによると、1208年、エスキシェヒルのスイヴリヒサル郡、現在のナスレッディン・ホジャ村で生まれたといわれている。父親は村のイマーム(イスラムの説教師)。
 スィヴリヒサルとコンヤの神学校で学び、当時の有名な知識人たちとも交流があったという。
 父親が亡くなったあと、アクシェヒルにいる恩師を追って、自身もアクシェヒルに移住、生涯をそこですごす。
 高等教育を受けたホジャは、アクシェヒルとコンヤで裁判官の補佐役を勤め、神学校で教鞭をとった。

 伝わっている話の中にはあきらかには、あきらかにホジャのものでないものがあることが、最近の研究者の調査によって明らかになった。たとえば、ティムールと会った話などは、年代的に見て不可能である。

 ナスレッディン・ホジャはアクシェヒルに住み、そこで亡くなった。
 彼の墓は、最初、セルチュク時代の人によって建てられた。いつ建てられたかは不明のこの墓は、オスマン時代に壊れ、1902年再建された。
 共和国時代になってアクシェヒル市はオリジナルに近い状態で霊廟を復元。
 まず、三方が開いている墓の正面の扉に、巨大な錠前がかかっている。第2に、ホジャがロバに反対に乗っている姿も彼のシンボルとなっている。そして、彼の亡くなった年が反対から刻まれていることも興味深い。墓には386年と刻まれているが、本当は638年(イスラム暦)である。(西暦では1284年)
 毎年7月5〜10日はアクシェヒルでナスレッディン・ホジャ祭が開かれる。この祭りで、ホジャの楽しい人柄や、美しい心が語られる。
           メフメット・アリ・ビラント著
           安達智栄子訳「ナスレッディン・ホジャ」より

ホジャの短いお話を何本か抜粋
「わしにはできない」
 ホジャはある日、市場の帰りにロバに乗った。布袋を自分の背中にしょった。それを見た人々は口々に行った。
「どうして袋を自分でしょったんだい?ロバに運ばせればいいだろう?」
 ホジャはこういった。
「こいつはこんなに重たいわしを運んでいるのだよ。わしも乗っかって、そのうえ荷物も載せたらかわいそうだ。わしにはそんなこと出来ないよ」

「頭痛の治し方」
 ある人がホジャに、「頭が痛い。どうしたら治るだろう」と聞いた。
 その人がまじめに聞いていると思わなかったホジャはこう言った。
「ああそうだ、わしも歯が痛かったとき、抜けといわれて抜いたら治ったよ。あんたも抜いてしまえ」

「男の言葉」
 ある近所の人が、ホジャの年を聞いた。「40才だよ」とホジャは答えた。
 何年もたって、同じ人がまたホジャに年を聞いた。ホジャはまた、「40才だよ」と答えたものだから、その人は「どうしてだい?何年か前にも聞いたけど、あの時も40才だった。今も40才とはどういうことかね?」と問い詰めた。するとホジャは大変まじめな顔をしてこう言った。
「わしは男だからね。男はいったん言ったことを、つらぬきとおすべきじゃないか」

「結婚とは」
 ある日村人がホジャにたずねた。
「結婚とは何ですか?」
ホジャは答えた。
「昼間は二人で怒鳴り合い、夜は二人でいびきをかき合うことだ」

           メフメット・アリ・ビラント著
           安達智栄子訳「ナスレッディン・ホジャ」より