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   富田 狸通
順雅園の怪 順雅園の怪  順雅園の怪後日物語

 昭和二十六年の春、私は道後駅から一丁ほど西の方へ行ったところに、たったニタ部屋しかない小庵をしつらえて順雅園と名付けて本宅に用のない限り二番目の娘を連れてその小庵で寝起きしていた。(これから書こうとする怪異があってからは娘等は怖がってめったに寝に来なくなったので時々老妻を引っ張って行くことにしている)今は周囲に立派な住宅が建ち並んだが、その当時の順雅園は田圃の中の一軒家で家族のものも淋しがって、あんまり寄り付かず往々留守にすることがあって不用心なので私は心の頼みに屋敷内の鬼門の隅に小さい祠を杷りその中に本宅の金鼓堂(狸器蒐集の部屋の名)眷族の狸像一体を納めこんで「留守番狸」として火の用心を兼ねて留守番をさせることにした。

1町 (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109メートル強。メートル条約加入後、1891年(明治24)1.2キロメートルを一一町と定め、一町は約109.09メートルとなった。

けん‐ぞく【眷属・眷族】 一族。親族。身うち。うから。やから。 従者。家子イエノコ。腹心のもの。 仏・菩薩につき従うもの。薬師如来の十二神将、千手観音の二十八部衆など。

 家族達にとってはホンの気休めではあるが、私としては他愛ない色々の狸話伝説と雄もいずれも稚気と親愛人情味を感じ、しかもその中に世の哲理とつながる禅味をさえ感得できるので恰も童児が夢の中で童話や漫画の世界に憧れて遊ぶように私はこの「留守番狸」の祠に対していささか理外の理に通ずる奇坂とまではいかなくても、また期待までは持てないにしても、ヒョッとするとヒョッとあるかも知れない。あっても不思議ではないとかすかにも奇蹟の起こることを夢想していた。

 ところが、その翌年(昭和二十七年)の六月十一日のこと、その日は家族の者はみんな用件の都合で朝の九時頃から夕方まで順雅園は不在であった。夕方の六時項、二番目の娘が順雅園へ行って見ると裏口の勝手の錠前がこわされて空巣狙いに見舞われていることを発見した。畳の上は泥足の跡が残って押入れの襖はみな開けたままであった。すぐ交番へ連絡して実地の検分をうけたがその頃はこのケースの盗難事故が多く、また捜査陣も手薄すで、盗難品は検挙の見込みなく、盗られた方の不注意で泣き寝入りの手より仕方ないということで、あんまり取り合っても貰えず、また盗られた品物が左程高価なものでもなかったので単に届け出をしたまでのものと諦めていた。従って指紋の検出なども勿論しなかったが空巣にやられたということは決してあと味のいいものではないので、私は「留守番狸」の祠の前へ行って「頼み甲斐のない奴だ、このザマは何んだ、この野良狸奴」と声を出して憂さ晴らしに叱りつけてやった。


 「留守番狸」の祠の前で愚痴をこぼしたところで別に出来たこともないが、私はこうするより他にうっぷんのはけ口がなかったのである。それから諦らめかけていた時、事故があってから丁度一ヶ月目の七月十一日、松山東警察署から電話があって順雅園の盗難品らしいものが挙っているから見に来いと知らせて来たので行って見ると、被害品の一つである娘の毛糸編器が一台出ていた。直ぐに渡してはくれなかったが「一品でも挙って来てよかった。ヒヨッとするとこれが足がかりになって犯人も検挙されるかも知れんぞこと私は一沫の期待を追うようになった。

 それから二週間ほど経った七月二十九日に又、東署から通知があって犯人が挙った。今治署で逮捕したという知らせと共に被害品らしいものが届いているから、見に来いというので今度は娘を連れて出かけて見ると又、二品挙っていた。その時、犯人を検挙したK刑事は「富田さん、犯人の自白によると、あの家(順雅園)へ忍びこんで逃げ出す時にずいぶん追っかけられて自転車で南町の電車通りへ出るまで怖わかったといっていましたぜ、そんなことがあったのかな」というのである。

 順雅園は当日、朝からタ方まで留守で空けていて誰もいなかったし、また隣近所といっても遠い田の中の一軒家だのにそんな筈はない、何処かと間違っているのだろうと別に気にも止めず、そのまま礼を言って帰ったのである。続いて間もなく被害品は風呂敷に至るまで八点とも全部検挙されて返って来た。殊にそのうちの或る品は佐田岬の端から、また県外では岡山県の辺鄙から挙ったものもあったということで、警察でも近頃珍しいことだと喜んでくれたほどであった。

それから八月の初め今治署から犯人を護送車に乗せて順雅国を実地検証に連れて来た時「ここです、この家です、逃げ出すとき追っかけられてしまいには自転車で追跡されて弱ったのは・・・.」と犯人は当時を思い出して憑かれたように物諮ったということである。

 話というのはこれだけだが、この事実で「グキッ」としたのは私ら夫婦である。というのは事故のあってから一週間目位の時、その晩は雨が降っていた。私は女房と二人で順雅園へ出かけたのである。ところが、裏口の開き戸をあげて庭つゞきの表玄関の方へ歩きかけると黒いかたまりが門を越えて飛び出したである。またヤラレタと思った私は思わず「コラッ」と叫んで門のところへ走って行き懐中電灯の明かりで門の横木を克明に調べたが雨上がりというのに少しも泥らしいものも付いていない。犬にしてもおかしい。一b半もある門を足がかりもなく一気に飛び越すとは思えない。「不思議だなァ」と、独り言を言うと、傘をさしかけていた女房が「父ちゃん、いまのは留守番の八狸ぞな、父ちゃんに叱られたので留守番の責任を負うて、これから泥棒をつかまえて来ますと言うて門からとび出して行ったのかも知れん」と、八狸の肩を持って言う。
 「まさか」とは思ったが、飛び越えた門に泥が付いてないこと、人間であれば夏のことだから白いものを着ているはず、それに黒いものが飛び出したのはおかしい。いずれにしても不思議なことであると二人で話し合った。

 あの時の黒いかけが八狸の霊であったのかと思うと、泥棒がつかまって被害品が全部戻って来たことは不思議でもないと説明出来るわけである。不思議というも奇蹟というも、このことは私と女房と二人だけが知る順雅園の留守番狸の怪異である。

 この留守番梨の正体というのは、私が三年半可愛がって飼育して、昭和二十三年の十月十五日に死亡した「ハチ」と呼ぶ雌狸である。

 ハチは砥部町の奥で捕われた野生ではあったが大変利巧でおとなしい狸で、家族の一員として愛嬌ものでありその死んだ時には子供等は泣いて泣いて惜しんだ。私は「芒野の土に還れよ八甲女」と悼句を詠んでやり、お寺さんを招いて人間並みの野辺送りを営み、七日々々の忌を祀り、その四十九日の忌日にはハチを知り、ハチを可愛がってくれた俳人、雅人を三十八人招待して盛大な法要を催してやったので、その時には松山のNHKも実況を録音して放送してくれたほどであった。

 そのハチ狸の法名は通称を「八豊明神」と言い「八豊雲佗申女(ハッポウウンダシンニョ)」即ち「ハチと呼んた田抜き女」というのが改名である。私は「八豊明神」の祠の前に小さな鳥居一基と提灯台を拵えて今後奇蹟が生まれるたびごとに鳥居の数をふやしてやると約束して今回の奇徳を賞し、祠の前で花火を打ちあげてハチの霊を慰めてやったのである。

 さて、このことは先年物故された久留島武彦先生の童話の中にある「浪人者と狸」という話の筋とよく似ているので、私がかすかにも夢見ていた幻想がこうして生々しい昭和の事実として「留守番狸」の奇蹟を信ぜぬわけにはいかなくなったので、それからというものは毎日「八豊明神」の前を通る時には無意識にもちょっと目礼をするようになり、そしてその日一日の安心立命が感じられ「俺のあとにはハチ狸が付いている」といつも自信らしいものを得られるようになった。しかし決して信仰ではなく狸はあくまでも私の眷族であるということは確然としているのである。
「非凡非聖即太貫」 狸碑 昭和四十四年八月八日
狸と見まがう狸碑 平成18年6月18日撮影
松山市道後湯之町順雅園 愛申会
順雅園 跡 玄関右手 奥に祠ありき
南無八豊雲佗申女 八豊明神霊位頓生菩提
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順雅園の怪後日物語 順雅園の怪  順雅園の怪後日物語

 「順雅園の怪」で紹介した留守番狸の祀神である「八豊雲陀申女」の霊のこもる狸像は、私の蒐集している二千余体の狸像眷族中、或る意味での代表になるものである。というのは私が昭和十四年十月、全国に魁けて松山で第一回目の「愛申会狸まつり」を修行した時、伊予の豪族河野家や藩主久松家にゆかりのある道後公園前の東照院市隠軒(茶くれん寺)の先住故関家吹笛和尚が眼玉がとび出るほどの大喝引導を与えて以来、毎回の「狸まつり」の本尊となる陶物の「和尚狸像」である。そのとき吹笛和尚が与えた喝の内容は次の通り。


 そして人間共が集まってまつりの記念写真を撮るとき魂の入ったこの「和尚狸像」をまん中にしてカメラの前に並ぶのであるが、未だかつて写真に写ったためしがないという不思議な狸像だったのである。

 またこの「和尚狸像」を持ち出して記念撮影をする時必ず決まって何か異変が起こる。例えばフラッシュで手に焼け傷をしたり、ずらりと並んだ後列の者が踏み台にしている椅子から転び落ちたり、原板を入れることを忘れてシャッターを切ったり、また今度こそ完全に撮れたと思ったのが現像の途中で原板を取り落して割ってしまったり、撮影師がカメラをかついだまま階段から転落したり、或いはまた、折角写った写真の影像が半切れになって写ったりして写真屋さんや新聞社の写真班を困らせたものである。

 いつもこんな不思議な事故がつづくので、その後何回目かの狸まつりからは記念写真を撮る時には必ずこの 「和尚狸像」を敬遠して決してカメラの前に出さないことにしていた。思うに八豊明神の祀神は女狸であり、非常に内気ものの引込み勝ちの性分だったので、極度に写真を嫌ったものであろう。

 元来狸はカチカチ山の騒動以来「世の中は、と角狸の泥の舟、漕ぎ出さぬがカチカチの山」の教歌ー狂歌の通りいつも表面に現われず、常に遠慮しいしい世の中のために黙々として狸宗本来のを宗旨を守っているものと思う。

 この八豊明神の謙虚な気持ちがひしひしと身にこたえて狸の他抜きらしい可憐なヨサをはぜずにはいられない。このことが我楽他宗狸趣味の根源でもある。これほど写真に写ることを嫌いぬいた八豊明神の「和尚狸像」が、とうとうその映像を現わしたというのがこれからの話である。

 そんな非科学的な馬鹿らしいことがあるものかと言い言い数回失敗の手を焼いた経験を持っているA新聞社のK写真記者が、昭和二十六年六月の「順雅園の怪」が新聞紙上で昭和の奇跡として発表された翌日のことであった。「富田さん、昭和の留守番狸として順雅園の怪奇と不思議な霊験を現わした「八豊明神の和尚狸」は今度こそ写真に写ってくれると思うから、もう一度私にカメラを向けさせてくれませんか、今度こそ失敗せずにやってみる霊感による自信があるんです」と狸のような眼をして口をとんがらせて真剣な相談をもちかけてきた。

 そこで私も、成程それも一応の狸窟はある。よろしいと引きうけてから心の中でつぶやいて祈った。「八よ、お前はほんとに感心な狸である。順雅園の空き巣を見事に検挙してくれた奇跡は、すでに報道機関で世間一般が認めてくれた昭和聖代の狸ぱなしである、今は何も遠慮することはあるまい。今度こそお前の姿を写真に現わして世間様へ応える機会でもある。折角K君の願いを容れて写ってくれ、そうすれば俺もうれしい、K君の面目も立ち成績にもなるわけだから」と。

 それから祭壇の塵を払ってうやうやしく「和尚狸」の像をとり出した。K記者は真面目くさって真摯な態度でこの「和尚狸」を三拝し、今度こそ必ず写して見せるぞと顔面神経をこわばらせて座った。やがておもむろに三脚を伸ばしメートル尺をとり出してピントを合わせ、露出計を脱み合ってもう一度原板の有無を確めた時には、彼の手は緊張して気の毒なほど震えていた。そして今度は私の方へ向き直って「たのみます」とペコンと頭を下げた時には流石に私も身体中の血が一トところに集ったような気がして、K君の真剣さに思わず「八公よ写ってくれよ頼む」と念じた。

 目には見えぬ霊の働きとでも言うか、奇跡は霊の一致する時に起こるものというが人生に付いて廻わるものは汚れのないこの誠の心である。

 部屋の中は一瞬シーンとした。その次にはジーと快い音がしてシャッターが切られた。二度撮り直した K 君は、緊張が解けた安堵と気抜けでその場にグニャグニャと膝を折って、もう一度ペコンと「和尚狸」に敬意を表した。

 こうして神経を使った細かい計画の撮影は終わったものの果たして感光しているかどうかを疑った。用心深かいといえぱ聞きなりもよろしいが、この疑いという心が多くの場合、人間の欠点となるものである。一ッたんこうと信じたからには決して疑念を持つべきものではない、が過去の失敗の経験によって自信が持てぬK君は「狸通先生(今度は私を先生呼ばわりする。大体センセイという言葉は近頃往々にしてウンザリする場合が多く、学識、経験、人格完備で自他共に認める大先生は、ともかくもインスタント先生はありがたくない)お陰で無難でシャッターは切れたが、僕が新聞社へ帰るまでにまた電車や自動車に故障が起きたり、折角の原板を損じたり、カメラを盗られたりするかも知れん不安があるから、ご苦労じゃが会社まで和尚狸の護衛で同道してくれませんか、恩に着ますよ」 という。

 「よろしい、和尚狸が感光しているカメラに異状がないよう社まで送ってあげよう」 ということで、二人は私の家を出かけた。

 折りから観光客の多い温泉通りを抜けて角を曲り、道後温泉駅の近くまで行った時、横合いからうすぎたない茶色の大きな犬が現われてK君のカメラバッグに「ウワン」と一声吠えついた。驚いたK君は、よろめいて側溝に片足踏みこんだ、がカメラは片手で差し上げて異状はなかった。

 「K君よかったのう、今度こそ八豊明神の和尚狸は君のカメラに写っているぜ」

 というと、彼は

 「どうしてそれがわかりますか」

 と真顔で質問する。

 「K君、いま君のカメラバッグに犬が吠えついただろう、君のカメラが狸くさい証拠だよ」

 と言ってやると、彼は「ウーム」と一言うなって顔色を変えた。

 それから三十分はと経ったころ、K君から 「出た、出た、狸通さん、八豊狸サマが写っとりましたよ」

 と、うわずった声で電話をかけて来た。斯くして疑心暗鬼のうちに「和尚狸像」の撮影は成功したのである。この不思議は他人には、わかって貰らえない私とA新聞社のK記者の二人だけが知る神秘な経験談である。
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