2009年 6月 過去のジャーナル

 6月の目標・・・手紙を書く
1日





 TOEIC
 渡辺弥栄司会長が漢字検定の親子と同じようなことをしているとの報道を見て、悲しい気持ちになった。渡辺氏といえば、日中国交正常化に尽力し、65歳で司法試験に合格するなど、その生き様に憧憬の念を抱いている人も多いはず。彼も最初は北岡靖男氏と共に日本の英語教育の在り方を憂い、ビジネスの現場で必要な「世界基準のコミュニケーション英語能力を測定する」という高邁な使命感を抱いてTOEIC開発に協力したに違いない。彼を変えてしまったものは何なのだろうか。
2日

 1Q84
 未だ届かず。ブックレビューを読んでいると、少しモティベーションが下がってしまった。
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 ウィン・レッスン
 7日のレッスンから、翻訳を少し取り入れてみる。資格試験勉強のように、単に訳して意味を取るだけに留まらず、翻訳すことの難しさと楽しさを同時に味わってもらえればと思う。
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 翻訳
 You held my arm casually and easily so it looked like we were just young lovers, comfortable and excited and eager to be with each other constantly.
 今日扱ったパッセージでは、赤文字の部分の訳に工夫が必要だろう。柴田氏は、それぞれ「自然にさりげなく」と「リラックスして」と訳している。easily、casually、comfortableなどはどれも意味を知っている単語との認識があるが、改めて翻訳しようとすると辞書で意味を確認せざるを得なかった。どれもrelaxedに近いニュアンスを持っている。
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 翻訳
 What others would think was a nervous habit or a desire for physical contact was really the secret and necessary and only form of communication common to both of us.
 この文などは、翻訳という以前に文の構造が分かりづらい。二つ目のwasが述語動詞で、補語の部分が the [ secret and necessary ] and [ only ] + form of communication ( which is ) common to both of us.となっているのだろう。
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 翻訳
 We stayed home alone together for a long time until we thought we were normal enough to get by outside and normal enough so no one could tell.
 意味を取るのは難しくないが、「翻訳」レベルの訳ということになると手強い。
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 イタリア語
 毎朝NHKイタリア語講座を聴いてはいるが、6月号はまだ文法の基礎で、できるだけ単語を覚えるようにしている。
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 1Q84
 ふかえりという名前の少女が登場するが、フカエリでなく、ふかえりとひらがなで書かれているためか、どうもふりかえりと読んでしまう。深田絵里子という名前なのだから、深エリとしてもらうと間違えずに済む。
 これまで読んだ春樹の作品と比べて、読みやすいし、一気に読み上げてやろうという気持ちにさせてくれる。と言っても、端から彼のメッセージを読み取ろうなどとは考えていない。私の場合、村上作品はストーリーではなく表現を楽しむために読む。それから勝手を言わせてもらうと、リトルピープルや黄色と緑色の二つの月は登場してもらわない方がいいと思っている。
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 漢字テスト
 週に一度SHR時に漢字テストがある。高校の漢字くらい大丈夫だと思っていた。ところが、あにはからんや、読みはなんとかなるものの、書くのは手強かった。
 「イカク」「ボクシュ(これは意味さえも知らなかったが、中国の墨子に関する熟語のようだ)」「イフ」「アンカン」「タッカン」
 そこで、漢字で書けるかどうかを意識しながら、1Q84を読んでみた。
 「セッケンの香り」「ヒゲ」「ユウウツ」「レンガ」「ナジむ」「いろアセる」「ミソ汁」「ヒキダシ」「おシャレ」「ハオる」「偶然のカイコウ」「イタズラ」「ビンのフタ」
 う〜ん、書けない漢字は多かった。
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 ピアノ協奏曲第二番
 アルゼンチンのゲルナーという人の演奏で聴いた。「ピアノ独奏部を持つ協奏曲」と呼ばれているブラームスの曲だが、15年以上前になるだろうか、高村薫の「リビエラを撃て」を読んでから聴くようになった。それはちょうど、1Q84を読んでヤナーチェクのシンフォニエッタを聴くのに似ている。
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 1Q84
 ヤナーチェクのシンフォニエッタをyoutubeで試聴したが、ムソルグスキーの「展覧会の絵」を思い浮かべてしまった。
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 ディベート
 アメリカから来たディベーターによるディベートを見た。論題は、Resolved: The Japanese government should encourage companies to introduce equal pay for equal work.だった。ディベートを見たのは本当に久しぶりのことで、30年以上も前になる学生時代にタイムスリップしたみたいで愉快だった。高校でのディベート指導に向けて、モティベーションが上がった。
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 ディベート
 聴衆の一人として観戦していると、自分ならもっと思い通りの言い回しを駆使して、相手サイドを論破できるといった錯覚に陥る。が、実際は自分の英語力のなさに歯がゆい思いをするのが関の山。とまれ、本物のディベートを目の当たりにして、自分で実際にシミュレーションすると、脳の言語中枢(運動性言語中枢であるブローカ中枢や感覚性言語中枢であるウェルニッケ中枢など)を大いに刺激するというのはおそらく間違いないだろう。ディベートの場合、情報を処理してその内容に対応する指令を送るブローカ中枢の方がより重要な役割を果たすような気がする。
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 点滴穿石
 四字熟語の英訳に挑戦した。
 拙訳: Your daily effort, even a small one, will eventually achieve the goal.
 模範: to move toward one's goal one step at a time
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 “Get to the beach, get to the beach.”
 サーフィンを楽しんでいたときにサメに襲われ、片腕を失いながらも、再びサーフィンに挑戦した女性の話が教科書に載っていた。悪夢のような出来事の直後、片腕だけで泳いで浜辺に戻ろうとしている彼女の口から出た言葉がこれだった。モデル訳は、「浜辺まで着くんだ、浜辺まで。」
 そこで、生徒に「自分だったら、どんな言葉を発するかな?」と尋ねた。
 「諦めるものか、生きてやる。」
 「サメが来る、急ぐんだ。」
 「もう少しで、助かる。」
 「とにかく浜辺まで、力の限り漕ぐんだ。」
 悪くない訳だ。
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 漢字
 キュウキョ、レンビン、オンチョウ、シッソウ、カモク、ヤせた・・・。1Q84を読みながら、書けそうにない漢字を拾い集めていた。が、学校の廊下や階段に吐き捨てられ、へばりついて黒く変色したガムのカスのように、その数に際限がないことが途中で分かった。薄い鉄製のヘラで一つ一つ削り取っていたのでは、永遠にその増殖のペースを越えることはできないということに気づいたのだ。ということで、書けない漢字をこのジャーナルに載せることはもうやめにしたが、これからも根気強く「ひとつひとつ拾い集める」ことは、続けるしかない。
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 航空便
 ウィンの生徒さんの I さんから、航空便で欠席連絡があった。航空便といっても、海外からのエアーメールではない(I さんは東予に住んでいる)。紙飛行機の形をした郵便である。飛行機の胴体部分を、広げるとメッセージが書かれていて、思わず笑ってしまった。
 航空便に対して、どのようなメールで返すのが洒落ているのかと考え、やはりここはカタツムリの形をした葉書(snail mail)がいいだろうと、探したが見つからなかった。結局、普通の封筒を使った手紙になった。申し訳ない。
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 1Q84
 BOOK2を読み終えた。天吾が昏睡状態の父親に、自分の人生を回想して語りかける部分は飛ばし読みした。
 この本を読むと、200も実は黄色と緑の二つの月が浮かぶ200Qなのかもしれないと思えてしまう。たとえそうであるとしても、200Qから2009へ戻る出口は見つからないのだから、結局200Qの混沌とした世界に生きるという選択肢しか残されていない。混沌の中から秩序を見出そうとするなら、自ら命を絶った青豆を捜さなければならないのだろうか−彼女はもうこの世には存在しないと分かっていても。それとも、青豆を探すという行為は、個々人の心の中に存在し、温もりを与えてくれる遠い記憶を辿ることを意味するのか。
 200Qに生きるということ−それは二つのまったく異なる価値観の間を彷徨する旅かもしれない。「悪魔のような行為」が同時に「一点の曇りもない正義」にもなりうる世界。そんな世界に生きることは、狂気へと続く階段を着実に降りていく行為なのかもしれない。そして、我々はそんな世界に生きているということを強く自覚し、愛する人のためになら自らの命さえ投げ打つ自己犠牲の覚悟を持つべきだと、この本は訴えかけている(と、私は思う)。
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 red book
 なんだか、絶滅危惧種(Endangered Species)のデータを集めた本(red data book)と勘違いされるかもしれないが、昔読んだ春樹の本。20年以上前に読んだときには正直「よく分からなかった」という感じだったが、今こうして読み返してみると、療養所内で淡々と進む物語の面白味を少しは感じ取れるような気がしている。
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 ブラームス『ピアノ協奏曲第二番』
 「レイコさんは本を読みながらFM放送でブラームスの二番のピアノ協奏曲を聴いていた。」
 red bookの最後に書かれている一文。「アバ」や「クイーン」が流れると「今日は最悪の日」という春樹だが、この協奏曲がお気に入りという点では趣味が一致した。
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 pity-me-not
 forget-me-not(勿忘草)という植物がある。春樹のgreen-book(下)を読んでいて、「自分に同情するな。自分に同情するのは下劣な人間のやることだ。」という一節に共感を覚え、もし勿憐草(自分に同情するな)という植物があるとすればこんな感じかなと創造した単語がpity-me-not。
 なぜ共感を覚えたかというと、私は自分に同情することが少なくないからだ。春樹は強い人間だと思った。
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 体力
 一年ぶりにレクレーションでバレーボールをした。まったく練習もしないで試合に臨んだ。翌日少しばかり筋肉痛が出たものの、自分のイメージどおりに体が動いてくれたのはありがたかった。このところずっと忙しくて、フィットネスクラブに通うのもままならないが、ワークアウトと柔軟はできるだけ続けるべきだと思った。
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 「仮定法現在と仮定法過去の違いをきちんと説明できる?」
 green-book(下)で、緑という女の子が主人公のワタナベ君に質問するのだが、正直ドキッとした。私自身、「仮定法過去」と「仮定法過去完了」との違いなら大丈夫だが、「仮定法の現在と過去」を対比させて説明するなど念頭に置いたことがない。(仮定法現在は、極めて限定された文脈でのみ使われるから、おそらくほとんどの人はそれが「仮定法現在」だと自覚していないと思う。個人的には、『仮定法過去と仮定法過去完了の違い…』とすべきだったのだろうと思う。)
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 A good day after a long spell of sunny days
 「やっと、
いいお天気になりました。」
 「このところずっと
ひどい天候が続いていましたから。」
 「
この晴天があと一週間も続いていたらと思うと、ぞっとします。」
 「うれしいことに、大雨注意報は明日も出るそうです。」

 大雨がいいお天気(!?)になる、こんな会話も明日はあちこちで聞かれるかも。
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 「男は、やさしくなければ生きる価値がない」
 どうも春樹は、「男はやさしくて、どこまでも寛容でなければならない」という美学を持っている節がある。(チャンドラーの影響を受けているのかも。チャンドラーの小説の主人公フィリップ・マーロウの有名なセリフに次のようなのがある:『男はタフじゃなければ生きられない。優しくなければ生きる価値がない。』If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.)
 春樹の小説に登場する男も、女性に対してはかなり寛容で、女性のどんなわがままも受け止めようとする。そして、そのことによって自分が傷つこうとも、相手のことを優先させる。自分に非があると思えば、例えば手紙を書いて許しを請い、あるいは直接会って謝り続ける。私は、男の方がいつまでも幼くて、わがままな生き物だと考えていたから、春樹の小説に出てくる男の考え方や行動パターンはとても新鮮だ。

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