第2話

ホンダS600(スポーツカー)で
第1回全日本レーシングドライバー選手権(四輪)に
初めて参戦した時のことである。
第1戦は千葉県の船橋サーキットだった。
今はもう無くなっているが、サーキットは現在の
船橋ヘルスセンターの所にあり、
コースは1.5kmくらいの小さなものだった。
となりにライトプレーンの滑走路等があったところで、
四国松山からは、とにかく遠かった。

高松から宇野(岡山県)にフェリーで渡り、
神戸〜京都〜名古屋と国道1号線をひた走り、
静岡・三島から箱根峠を通り江ノ島から東京へ。
それから京葉道路を通りやっと船橋へ到着。

スポーツカーにタイヤ4本を積み込み1人で22〜23時間くらいかかったかな?
初めてのサーキットである。
田舎者の私にとって色々とコンプレックスを感じ、
ドキドキしながらとりあえずレストランで食事をする。
そこで1人のドライバーに声をかけられた。
「どこから来たのかい」
「四国の松山からです」
「海の上をどうやって車を運んだのかい?」
「フェリーで」
東京の人は地方の事は関心もないし何も知らないから、
車を積む様な大きな船は四国に通っているのか等
こちらがあぜんとする様な質問ばかり。
無理もない。東京以外はみんな田舎だと思いこんでいるのだから。
レストランでそんな話をしている間も、
サーキットではすでにワークスのテスト走行が繰り返されていた。
その様子が、レストランの窓から見える。



その時、プリンス自動車(現在はニッサンと合併)のワークスドライバーが
最終コーナーでスピンし、
メインスタンドのコンクリートフェンスに激突、ひっくり返った。
すぐ救急車が出る。ドライバーは無事だった。
いきなりのアクシデントにびっくりしたが、
彼言わく
「やつらは、車がひっくり返っても
ドライバーにケガさえなければ翌日は又、新車だからさ」
色々と話をしてくれた彼は、
全日本レースの登竜門であるフレッシュマンレースにエントリーしていたのだった。
「フレッシュマンレースに出場する俺達だって半年も前から練習に来てるんだ。
四輪レースは、プライベートもプロも一緒に走るのだから、
いきなり全日本はムチャだぜ!!」
しかもワークスドライバー(一般的にプロレーサーと呼ぶ)は毎日走っている。
それは仕事だから。
「それをいきなり奴らと一緒に走るのだから死んじゃうよ」
と言われ早々とド肝をぬかれた。
それもそのはず、私には、メカニックなどいるはずもない。
ピット要員として私の友人と大学生だった弟
(武智俊憲:後にマツダのワークスドライバーとなる)と2人だけだった。
車にしても四国から走ってきたし、
もちろんナンバーもついてラジオのアンテナもあげたまま。
それにひきかえ、他の連中はサーキットを走るから、チューニングをして
みんなトラックに積んでやって来ている。
こんな光景を見て、ほんとうにカルチャーショックを受けたのを覚えている。


 しかしそれもつかの間、
さっそく練習を開始、
4〜5周も走っただろうか、
みんななんだかペースが遅い。
ナラシでもしているのかと思いながら、
その日はマイペースで練習。

翌日は朝から予選。
さすがに昨日とは雰囲気がちがう。
私も精一杯タイムアタック。
しかし、タイヤの予備がないから
そこそこでやめる。夕方予選時間も終わり、タイムが貼り出された。
せめて予選だけは通りたい!

ドキドキしながら一番下から見ていくが、自分の名前がない。
おそるおそる上の方へ目を移していくと何と予選3番である。信じられない。
ほんとうに信じられない。
私のような田舎者も、東京の人も同じ人間だったのかと思うと少し気が楽になり、
今までのプレッシャーが反対にこれならいけるという自信につながった事を思い出す。



そして翌日は決勝である。朝からお客さんも多い。
独特の雰囲気で緊張の中レースが始まる。
青いシグナルと共に、いいスタートを切り1台抜いて2番に上がり、
残り周回数も少なくなった頃

『目の前の1台を抜けば優勝かな』

と、そんな思いが頭をかすめた。
その時、マシントラブル。
リアのドライブシャフトが折れてリタイヤ。
何もかもそんなにうまくいくわけもない。
しかし、初めての全日本レースに出て行っての手ごたえは十分にあったと思った。
田舎者の私が東京の人たちと互角に戦えた事がうれしかった。
その時の事が、その後の人生においても色々と役に立っている。

「同じ人間だから、人がやっている事は努力すれば
自分にもできるんだ」と。

そして何ごともチャレンジすることの大切さを学んだように思う。

   

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