第三話

ポップ・ヨシムラとの出会い

ある日、いつものように鈴鹿サーキットで練習を終え、ピットで一休みしていると

ひとりのエンジニア風の人に声を掛けられた。

いいタイムで走っているが、どのくらいチューニングしているのですかと聞かれた。

エンジンはノーマルですと答え、色々と話をしていると、
もしよかったら、CRキャブを付けてみないかと勧められる。

当時、これはホンダのワークスカーにしか付けていなかったもので、我々アマチュアがすぐに手に入るような物ではなかった。

びっくりして話をきいていると、その気があるならと、、、

うちはワークスカーを二台(高武・永松)抱えているので、取付けやその後のセッティングなどをしてあげることは出来ない。

しかし 東京まで行って車を何日か預けてもいいのなら、私が信頼できる人を紹介しようとまで言ってくれた。

その人とは、ポップ・ヨシムラだった。

紹介して頂いた方はホンダの役員だった。本当に凄いことです。

 

当時は四国の松山から鈴鹿サーキットまで行くのに、14〜15時間かかっていた。

高速道路もなく フェリーにも乗らなければならなかったが、毎週のように鈴鹿通いをしていた田舎者の僕にチャンスを与えてくれた。

 


全日本ツーリングカーレース

はじめてのレースに出場するきっかけを作って頂いたのは、関西スポースカークラブ初代の中尾会長だった。

自分の力だけでは、どうしようも出来ないことは世の中に沢山ある。

いくらがんばっても、ひとりは一人、そんな小さな一人がいい人との出会いで10倍にも100倍にも広がって行くことを身を持って体験した。

どんなスポーツも同じだが、チャンスを与えて頂いた時に、それに応えられるような準備は普段からしておかなければ、

それを生かすことはできないと思う。


アメリカのことわざに「ノックは二度しない」 というのがある。

初めてCRキャブを付けたときには、鈴鹿サーキットまで、わざわざおやじさんがやって来てくれた。

いま、思えば信じがたいほど凄い話である。

 

第一戦は船橋サーキット(千葉県・今はない)から、鈴鹿サーキット、富士スピードウェイ、と2回づつ計6戦を年間の総合得点で争う。

年末に、表彰式が品川の高輪プリンスホテルであり、プロと一緒に戦ったアマチュア1年生の僕が、年間特別賞を頂いた。

そのあと色々とオファーがあり、ダイハツがプロトでレースをやるので乗らないかと、夢のような話が舞い込んだ。
 


そして、プロレーサーへ

1960年台といえば、日本のモータースポーツの創成期だったが、

各メーカーは、モータースポーツを通じてマシンの性能や、安全性を追求するために、、莫大な開発費を投じていた。それは今もかわらない。

プロトタイプのレーシングカーというのは、メーカーの技術、エンジニアの再集結された車で、各メーカーで4〜5台しか作らない。

莫大な予算がかかるのは、想像以上だし、プロレーサーといえども、このプロトに乗れるのはほんの一握りである。

 

日本グランプリレース

このレースに向かって各メーカー極秘の開発が進む。

テストは、富士や鈴鹿のサーキットを午前中とか、午後とかメーカーは借り切っての走行。。

我々のチームは4台だから、ほんとうに贅沢である。

テストだからピット作業も多く、実際に走っているのは1〜2台である。

グランプリが近づくと毎週のようにテスト、テストである自分自身もベストコンディションにしておかなければならない事は言うまでもないが、

好きなことだから楽しくて楽しくてたまらない時間であった。


64年のグランプリ当日は14万人とか15万人という観客が全国からやってきた。

どのスポーツを見ても、わが国でこれだけの人が集まるスポーツは他にない。

こんな舞台で走れることの幸せと嬉しさで、まったく緊張感はなく、

朝からリラックスしていた。