今から56,7年前、小学校に上がる前までの3年足らず、新居浜に住んでいたことがある。
先日、知人の紹介で、若い女の子が新居浜から訪ねて来た。
暫く話しをするうちに、保育園に一緒に通っていた○○君のお嬢さんということがわかった。
姓が珍しく、近くにその姓が1軒しかなかったことや、
その当時お風呂屋さんだったことなどで、そのことがわかった。
早速、懐かしさのあまり彼に電話をしてみた。
遠い昔のことなので、お互い記憶の曖昧なところはあったが、話に花が咲いた。
そして、いつの日かの再会を約束した。
当時の新居浜は住友景気で、幼心にもまちに活気があったように思う。
あお鼻を垂らしたちびっこが、三輪車を自由自在に操り、
別子大丸からメインストリートの昭和通りを、風を切って我が庭のように走り回っていた。
買ってもらったばかりの三輪車を、勢い余って海に落とし、
引き上げてもらった時には既に錆びついていて、大声を出して泣いたことがあった。
幼いながらもその時の喪失感たるや、今でも鮮やかに思い出すことができる。
近所のおばさん達からは、「高(たか)歩き(あるき)の信ちゃん」と呼ばれていて、
どこへ行くかわからない私を探して歩くのが、母親の日課だったようである。
保育園では、絶対に昼寝をしない先生泣かせの子供であったが、
優しかった先生の事や、よく遊んだ友達の事は今でも懐かしい。
新居浜の太鼓祭りは豪華絢爛、勇壮な祭りとして全国的にも名が通っているが、
幼かった私には太鼓台は余りにも迫力があった。
太鼓台に追いかけられる夢を見て、何回もうなされたことがあった。
路地に逃げれば、なんてことはないのだが、夢の中では、太鼓台の前をただひたすら真っすぐ逃げる私を、
ものすごいスピードで追いかけてくるのである。
その迫力といい怖さといい、秋山真之ではないが“ちんこちぢまる”ものがあった。
私の60年余りの平凡な人生の中でも、幼い頃の新居浜の3年間は、最も輝いていた時かもしれない。