H24.10

 先日、少年ソフトボールの大会でくりくり坊主の男の子を見かけた。
 小学校の頃の自分と、なぜかダブってしまった。
 私の頭は絶壁で、あまり恰好はよくないが、裸電球のような頭の形の少年は、一休さんみたいで実に可愛かった。
 私が入学した石井小学校は、人口7000人足らずの、のどかな田園地帯にあり、当時は、まだ松山市ではなく温泉郡石井村であった。
 国道33号線沿いに森松行きの伊予鉄の郊外電車が走っていた。
 国道といっても、まだ舗装ではなく、たまに通る馬車の糞が、道路に散乱していた。 学校の前には村役場があり、小・中学校の校舎は同じ敷地の中にあり、授業を知らせる合図は、ズボンに手拭いを下げた校務員のおじさんが鳴らす鐘の音だった。
 ちょうど今頃だろうか。
稲刈りの終わった田んぼの藁ぐろで遊んでいて、農家の人に見つかり叱られたこともあった。 当時は痩せてガリガリだったが、相撲が好きで、休みの時間には、友達とよく相撲をとった。
 相撲フアンの方は覚えている方もいると思うが、明武谷という「土俵際のうっちゃり」を得意とする力士に憧れていた。
 小野川に入って泥鰌(どじょう)や蜆(しじみ)もよく取った。
 人攫(ひとさら)いが出るといわれた吉木橋近くの河原で、時間が経つのを忘れ遊びほうけて、母親にこっぴどく叱られたこともあった。
 そんな楽しい思い出が一杯の石井小学校だったが、小学校5年生の時、素鵞小学校に転校した。
 クラスで唯一人の坊主頭で、からかわれたこともあったが、すぐに打ち解けた。 石井村と松山市の素鵞校区は隣接地ではあったが、郡と市の違いか、見るもの全てが都会的に感じられた。
 石井村は、昭和38年に松山市と合併し、現在では58,000人の人口を擁する松山市最大のまちである。
 石井小学校の同級生とたまに出会うことがあるが、本当に懐かしい。服をドロドロにしながら一緒に遊んだ友達と、昔話に花を咲かせ、酒でも酌み交わしたい。
 先行き不透明な世の中で、ソフトボールで出会った子供たちはもちろんのこと、すべての子供たちが、これからの人生を逞しく幸せに送ってほしいと願っている。


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