三銃士
アレクサンドル・デュマ
小学校の学級文庫で読んだのが一番初め。
当時はあんまり面白いと思わなかったなあ。
テレビで、味方を犬、敵を猫で描いた「わんわん三銃士」っていうアニメをやっていて、それを見てた。
子供向けの本では、コンスタンチンが宿屋の「娘」っていう設定だったんだけれど、当時見た外国の映画では宿屋の「女房」になっていたのが不思議だった。宿屋の主人はけっこうなおっさんなのに、なんでコンスタンチンは20歳くらいの娘さんなのかわかんなかった。子供だねぇ。
はまったのは、大人になって、完訳本全11巻を読んでから。
なにしろ、言わずと知れた、デュマの大傑作、大活劇。三銃士の活躍にはらはらし、恋の行方にどぎまぎし、アトスの死に涙は滝のごとく、ダルタニヤンの最後にはただ涙。
「小説は、面白けりゃいいのだ」の王道を行く本ではないかいな?
映画も何本か見たけれど、イメージぴったり、ってのにはかつてお目にかかったことが無い。無いけれど、どれも面白かった。映像化するには、それだけ、いじりやすくイメージが膨らませやすいストーリイなんだろうな。
それにしてもダルタニヤン様は、なあんてかっこいいんでしょう。何度読んでもしびれる。結婚はしたくないけど。
ミレディも言うとるじゃないですか。「清教徒はひざまずいて女に愛を乞う。銃士は腕を組んで女と恋をする」。しびれるねえ!
女と生まれたからには、銃士と恋をせねば。
腕を組んだ銃士と恋に落ち、ひざまずいた清教徒に愛を乞われたい。
モンテ・クリスト伯
アレクサンドル・デュマ
おなじくデュマの名作。
友人や婚約者のいとこやさまざまな人の思惑で、罠にはめられ、流刑されてしまうダンテス。孤島の牢獄を抜け出し、莫大な財産を手に入れた彼は、自分を陥れた人々への復讐をはじめる。
これは、完訳本より、子供向けに要訳された本の方が好きなんだな。完訳本は、最後がちょっとタルい。
最後の最後で、復讐することに疑問を感じて苦悩しまくるダンテス。
「わるものはたいじされねば」と思っていたから、自分を陥れた相手に何を苦悩するんじゃい。とか思っていた。
いや、人間ならば、苦悩するのが自然な心理なんだけどさ、子供向けのはその辺を軽く流していたから、なんか「かっこいい」と思っていたふしがある。
とにかく挿絵のエドモン・ダンテスがかっこよくてねぇ。ダンディで。ワタシの髭好きは、ここからきてるんじゃないかと思うくらい。
身分を隠してパリに舞い戻り、オペラ座で、復讐相手にむかって「エドモン・ダンテスだ!」と言いながら上着を脱ぐシーンがあって、子供心にそのかっこよさと、復讐を遂げることの一種の痛快さにぞくぞくしたもんだ。
何回も何回も何回も読んだ。復習劇ってのは一種の快楽だね。
指輪物語
J.R.R.トールキン
イギリスの児童文学は、質のいいものが多い。そして、どんなにシリアスで暗い内容でも、底辺に、独特のユーモアが流れている。あるいは、独特の詩的なものっていうか…。
映画も面白かったけれど、まさしくFTの金字塔。
ホビット族のフロドは、かれの叔父から指輪を譲り受ける。実はその指輪こそ、世界を滅ぼす力のある指輪で、闇の王が、その指輪を取り戻そうと追っ手を仕掛けてくる。その指輪を滅ぼすため、フロドと、彼の従者、サム、ホビットの二人の友人たち、太古の王族の血を引くアラゴルン、妖精族のレゴラス、ドワーフのギムリ、人間のボロミア、魔法使いのガンダルフたちは旅にでる。
影の主役はサムかもしれない。
身体も心も健康で、知識とか教養とかいったものはないけれど、自分の器を知っている。自分の器を知る人間ってのは、かしこいく強い。その強さで、彼は主人であるフロドを救ったわけだ。
それにしても、ラストでしばらくひきずったよ、わたしゃ。三日くらい。フロドの人生が悲しすぎて。涙がだばだば止まらなかった。
望んだわけでもない指輪の大きすぎる力をたった一人で引き受け、重荷を背負い、使命を果たしたのに、その重すぎる功績は、彼を知る人にしか理解されず(ホビット庄では理解されず、ってことは、一般世間でも理解されなかったって事だろう)、指輪によって受けた彼の心の傷はもう一生癒されない。
そのために愛するふるさとを離れて、船に乗って西の国へ旅立たねばならなかった。
悲しすぎるやんか。
追補編を読んで、ようやくほっとした。彼の従者サムも、ホビット庄での役割を終えて西へ旅立ったのだ。これでフロドは一人じゃないんだわ、と思うと、心底ほっとして、救われた気がした。 追補編もぜひ文庫で出してほしい!
弟の戦争
ロバート・ウエストール
ちょうどアメリカがイラク攻撃を開始した頃に読んだ本。
動物や人に過剰に感情移入してしまい、まるでその人や動物になったようになってしまう弟・アンディ。「ぼく」は、そんな弟のことを、フィギスとよんでかわいがっていた。
湾岸戦争のはじまったある日、フィギスは、アラブのある少年に憑依してしまう。そこから家族の悲劇が始まった。
作者は、湾岸戦争に対しての怒りをこの作品に書き留めている。
作中に、アラブ系の精神科医が登場してくる。無理解な大人たちの中で、彼だけが、「ぼく」とフィギスのことをわかってくれて、なんとか治そうとしてくれるのだ。
そして、学位のある精神科医でありながら、それでも差別の中で生きなければならない彼の静かな怒り。弟「フィギス」が過剰に反応してしまい、受け止めてしまったもの。それはいったいなんだったのか。なぜ戦争がはじまったのか、答えのひとつがこの本の中にある気がする。
そして、イラク戦争。
どうして、あの戦争がはじまったのか。私たちにあの戦争を回避することは出来なかったのか。この世に自分に関係ないと言い切れることが、いったいいくつあるというのか。
今回のイラク戦争だって、必要悪だと言う人がいる。
なるほど、世の中には、必要な悪、というのもあろう。
けれど、「あなたの国の指導者は世界に悪影響を及ぼします。だから、あなたの住む町に爆弾を落とします。あなたは死にます。これは必要悪なのです」と言われて、「ハイソウデスカ」なんて、言える?
わたしゃ、言えないね。
小さい頃から、「自分の嫌なことは人にしてはいけません」としつけられてきたので、自分が嫌なことは、人にはしたくないもん。
私の友人は、「アメリカ人は、あのテロでたくさんの人が死んで、悲しんでいる家族がいるのに、どうして、戦争が出来るんだろう。戦争で、死ぬアメリカ人は少ないかもしれないけれど、死ぬイラク人は多い。死んだ人を悲しむ人がいる。自分もそんな目に会ったのに、どうして、人に同じことが出来るのか不思議だ」と言う。
そしてまた別の友人は、「あの戦争を60%以上の国民が指示したというアメリカ人が怖い」と言う。
平和ボケ、って、そんなに悪いことかねぇ?平和が長く続いたから、平和ボケ、なんでしょ?いいことじゃないの。世の中が平和、ってのがまともな状態じゃないの?全世界が平和ボケになったらいいじゃない。これも平和ボケゆえの発言かもしれんけど…。
逆に、自分の家族が、あのテロで死んでいたなら、アフガニスタンを攻撃し、イラク戦争にも参加したかもしれない。
憎しみというものは、悲しみに変化せずに、憎しみのままゆがんでしまうこともある。人間、そのほうが簡単だから。
でも、仕方ない、と思うより、どうしてなんだろう、と、考えることは、何もしないことと一緒のようで、実は違うと思う。一人一人の意識を変えていけば、気の遠くなるくらい遠い未来かもしれないけれど、世界は変わる。…と期待している。…今世紀中には無理そうだが。
戦争を無くすことこそ、真の高度な文明だと思う。そういう意味では、まだ世界は発展途上なんだね。
作者は湾岸戦争の数年後に亡くなったそうだ。彼が生きていたら、今回の戦争をどう思っただろう。どうやって作品にあらわして子供たちに伝えただろう。
本の中の「良心」、フィギスは消えてしまった。では、私たちの良心はまだ残っているのだろうか。
アメリカ映画「アラバマ物語」で、グレゴリー・ぺック演じる弁護士は、小さな娘に向かってこう言う。「人の立場にたって物事を考えるんだ。その人の靴をはいて歩いてみるんだよ」
でも、小さい足の人の靴は履いたら痛そうだし、大きい足の人の靴はぬげそうだ。足の臭い人の靴なんて履きたくないし、水虫の人の靴なんて履こうとも思わない。 人は、他人の靴なんて履きたくもないんだ、本当は。
正直に生きることは難しい。公正であることはもっと難しい。