ライオンと魔女 「ナルニア国物語」シリーズ
C・S・ルイス 瀬田貞二訳
これを子供の頃に読んでよかったなあ…。今読むと、ちょっとテンポが遅い。最近は特にテンポの速い作品が多いから、よけいそう思っちゃうのかな。
モチーフがキリスト教なので宗教色も感じるし。
でも、子供の頃は夢中になって読んだなあ。
第二次世界大戦中に田舎に疎開した4人の兄妹が、洋服ダンスの奥にあった別世界に迷い込む。そこは、アスランというライオンが支配する魔法の世界。
疎開先の洋服ダンスの奥を探ると、そこは別世界…。FTの王道を行く物語。
ハリウッドが映画化するそうな。ハリー・ポッター、指輪物語の次を狙ったか。勘弁して欲しいなあ…。
ルイスは、物語を書くということは、思い浮かんだ絵を文章でつなぎ合わせること、と、言っていた(と思う)けれど、古い街灯のある雪深い森をフォーンがこうもり傘をさして歩くシーンは、独特のユーモアにあふれていて、とても印象的。
そういう意味では、絵画的な作品かもしれない。
翻訳者の瀬田さんは、指輪物語も翻訳された方で、とにかくこの人の翻訳って、楽しい。キャラクターの名前にしても、巨人ごろごろ八郎太、とか、泥足にがえもん、とか、妙訳、というか、絶妙訳というか…。
そして、子供心に印象的だったのが、異国の食べ物。
白い魔女が、兄妹の一人を誘惑する時に、雪の中にしずくをたらして出した、プリン。しんまでふわふわしているというプリン。
当時、プリンといえば、ゼラチンで固めたもの。ふわふわ、ってーより、ぷるぷる。「ふわふわしたプリントはいかがなものか?」と不思議でならなかった。
これ、原作では、ターキッシュ・ディライトと言うトルコのお菓子。
翻訳者の方が、日本ではなじみがないので、あえてプリンにしたのだとか。
別名「ロクム」。ぎゅうひみたいな食感で、ピスタチオが入っている。食べるとなかなか癖になるおいしさ。量り売りもしているし、お土産用に箱に入ったものもある。
(ロクムはこちらのぺいじへ→)
油づけの小イワシとか、マーマレード菓子とか、現物が想像つかないだけに、やたらとおいしそうだった。
そうかと思えば、サンドイッチを「ポケットに入れて」旅をしたり、ビーバーさんちでご馳走になったお菓子が「すてきにねとねと」していたり、「イギリスの子供って、きったねぇ」と思っていた。
なんだか、食べ物で異国を感じてしまう食い意地のはった子供だったかもしれない…。
作者のC・S・ルイスをアンソニー・ホプキンスが演じた映画もアリ。あんまりヒットしなかったんじゃなかったかな?
スプーンおばさんのだんなさんの大好きな「コケモモのパイ」の「コケモモ」が、実は「クランベリー」のことであったのを知ったのはこの映画であった(また食い物…)。
映画では、愛に対して、人に対して臆病で、自分と対等な人と付き合えない(つまり、自分の欠点を認められないって事だが)ルイスが、愛した女性が死に直面した時に、初めて、愛とは何か、に気づいていくと言う映画。なるほど、ルイスとはこういう人だったかもしれない、と、なんとなく納得してしまった。
映画の原題は「shadow land」。邦題は「永遠の愛に生きて」。なんつう邦題だ…。
ゲド戦記シリーズ
ル=グゥイン 清水真砂子訳
名作。
これ以外に言葉なし。ワタシの愛してやまない本。
作者は、ポスト・フェミニズムの旗手として知られるアメリカの作家。
でも、作品自体は、フェミニズム問題を描く、というより、性、人種、思想、宗教のボーダーラインを、思慮深く丁寧に描いている。
この人の作品は、問題を単に突きつけているのではなく、一緒に立ち止まって考えることのできる懐の深さがある。
年代を超えてこの人の本が受け入れられているのは、作者が、小説を書くということは、人間を書くということ、というとても当たり前で難しいことに、真摯に取り組んでいる人だからなのではないかな。
第一巻「影との戦い」
魔法使いとして修行中のゲドが、自らの虚栄心と傲慢とで呼び出してしまった死の影。
影に追われ、追い詰められ、逃げ込んだ師の元で、逆に影を追うことを示唆される。
影を追い、そして、追い詰めたその影を自分に取り込むことで、全き人間になったゲド。
この作品の中における「影」とは何か。多分、それは読む人によって異なるんだろうな。
影とは、人の負の部分で、それを認めていくことで、人は、自分が自分であることを認められるんじゃないかな、とワタシは思ってます。
それほど分厚い本ではないのに、何度読んでも、読み終わると長い旅を終えた気分になって胸がふるえる。立ち止まった時に、何度も繰り返し読む本。
子供心に衝撃的だったのが、主人公ゲドが赤褐色の肌の有色人種であること。そんで、敵対国のカルガド帝国は白人の国。
なにさま単純な子供だったので、外国作品の主人公→→白人という実に安直な想像をしていたのだ。FTの中の美形と言えばたいてい金髪碧眼の妖精族だったりなんかする。(いや、世の中のFT全部を読んだわけじゃないからそうとも言い切れないが)なんでかねぇ?不思議よねぇ。
第2巻 「壊れた腕輪」
平和を象徴する失われた腕輪を求めて、カルガド帝国の闇の神殿に侵入したゲドは、神殿を守る大巫女テナーに会う。闇にとらわれた彼女を、ゲドは彼女のあるべき世界(あるいは新しい世界)に導いていく。
子供の時は一番苦手な巻だった。これといった冒険もしないし。それが、大人になって読み返すと、一番共感できる。自分が女だからかな。
テナーの迷い、悩みは、そのまま現代の女性に通じるものがある。
留まるか、進むか。導くものがあっても、結局は、人生って、自分で選び取っていくもんなんだよね。人生とは選択の連続なり。
ゲドがかっこいいのよ。ホレるよ。これで惚れなきゃ女じゃないね。自分と言う器を知っている男の鷹揚さ、余裕、色気にあふれてて。テナーがゲドに惹かれていくところも好きだなあ。
第3巻 「さいはての島へ」
いまや大賢人となったゲドの元へ、世界中から魔法が効かなくなったという報告がなされる。その原因を探るべく、エンラッドの王子アレンを伴って、最果ての島へ、そして黄泉の国まで旅にでる。
大賢人であり、よき導き手となったゲド。でも、やっぱり色っぽい〜。航海の途中、船のともに座って、ゴントの歌を低い声で歌う姿はとてもステキ。
おそらく、3巻のうちでは、一番内容の深い本。第2巻までは序章といってもいいくらいかも。
彼等が、閉じてしまった黄泉の入り口。ゲドが、その力のすべてをかけてまで閉じた冥界の入り口が、一体なんであったのか。それがわかるのは、ワタシ的には約23年の歳月を待たねばならなかったのであった。(第5巻が2003年に発売されたから…)多分、作者にもその年月が必要だったんじゃないかな。
第4巻「帰還」3巻で、ゲドはもっているすべての力を出し切り、力尽き、ただの初老の男となってふるさとに戻ってくる。そこには、連れ合いを亡くし、後家となり、残された農場を切り盛りしながら、全身にやけどを負ったみなしごの女の子を育てているテナーがいた。
4巻は、3巻が出版されてから20年も経ってから出版されたもの。
実は、発売当時は、「4巻って、わけわかんない」と思っていた。
ゲドが情けなく映った。すべての力を失ったゲドは、ちっとも魅力的じゃなかった。ヒーローじゃなくなってた。
ところが発売から10年過ぎて、年がいってから読み返したら、これが、アナタ、感動して感動して、涙が止まらなかった。
すべてを失ったゲドが、一人の人間の男性としてよみがえっていくさまや、テナーと結ばれるシーンなんて、もう、なみだぼろぼろ。鼻水だばだば。夜中に「よかったねぇ、よかったねぇ」と、一人がアホのようにつぶやきながら読んでた。
ラスト、ゲドが玄関にもたれて眠る姿は、少年のように、老人のように美しい。見れば見るほど心にしみる絵画のように美しい。彼はなんと幸せな人なんだろう。それを思うと涙が止まらない。
人間と言うのは、住むための小さな家と、自分の口をまかなうための小さな畑と清らかな水と空気。それさえあれば、すごく幸せなんじゃないか。それ以外に何が必要なんだろう。と、胸があたたかくなる。なんて思いつつ、欲張りもんのワタシは、あれも欲しいしこれも欲しいし、夏暑いのはイヤだし、冬寒いのはもっとイヤ。現実は、やっぱり欲望なんてもんがなくなったら、人間じゃねえや。とも思う今日この頃…。
それから、ジェンダーの問題。
これは4巻で一気に前面に出てくる。いくつか批評も読んだけれど、賛否両論あるみたい。確かに好き嫌いの分かれる本じゃないかな。
初めて読んだ時は、ものすごーくフェミニズム意識を感じて、なんかちょっと受け付けなかったんだけれど、年月が過ぎてから読むと、すとんと胸に落ちる。
別にがちがちのフェミニストではないけれど、ジェンダーの問題ってのは、社会生活をおくる上では、どうしても立ち上がってくる。
例えば、極端な例だけれど、若い女性が夜道を歩いていて、暴行されたとする。世間は、確かに、暴漢は悪いやつだが、若い女性が暗い夜道を一人で歩いていたのがいけない、と責める。ミニスカートをはいていたのがいけないと怒る。
そうかなあ?この場合、「夜道をミニスカートをはいて一人で歩いていると、誘っていると勘違いして襲ってくる野獣のような男がいる」と認識せずに歩いていた女性は、確かに無用心。でも、「夜道をミニスカートをはいて一人出歩いている女性がいる。襲ってくれといっているのだな」と思う男のほうが、悪くないのか?女は無用心だったかもしれんが、悪いのは女?
ちがうでしょ。悪いのは男でしょ。女はバカだったかもしれないが、悪くは無いじゃない?悪いのは、女を襲った男なんだから。そんな男、現代文明の中では、野獣扱いされたってしかたないんじゃない?
まあ、レイプ犯を、「元気があっていい」なんぞとぬかす議院先生がいらっしゃるようじゃあ、日本は、中世ヨーロッパより遅れてんのかもしれない。
夜道を女一人で歩いていたって安全なのが、真の、高度な文明、ってもんじゃないのかい?
まあ、そういう世界はまだまだ遠そうなので、女は頭からすっぽり布でもかぶって、家から一歩も出ないほうがいいのかもしれん。
女性と男性は、身体のつくりが違うんだし、そうなれば、性質だって役割だって違う。
違うから、お互いに尊敬しあい、尊重しあうものなんじゃないの?別に、男が上でも女が下でもないよ。逆も然り。
「帰還」は、そういうことを言っている、と思うんだけれど…。
アースシーの世界でも、男性のものであった「魔法=力」が、女性とともに分かち合うものへと変貌していっているんではないのかしら。それは、本来あるべき姿だと思うし。
「帰還」はある程度の年がいってないと、ちょっと理解しにくいかも。小学生高学年向きだけれど、小学生にはちときついかなぁ。
4巻のゲドは、本当にステキです。(…なんて思うのはワタシだけかしら…)女性の理想の男性像じゃないかな。
第5巻「アースシーの風」
ふるさとでテナーと養女テハヌーと共に隠居生活を送るゲドの元に、ハンノキという男が訪れてくる。彼は、亡くなった妻の夢を見るのだという。実は、その夢がゲドとアレンが閉じたはずの黄泉の塀を乗り越えてやってくる死者たちの夢でもあったのだ。そして、また、世界では竜が再び暴れ出そうとしていた。
この巻は、ワタシにとってはいまだに未消化。一度しか読んでないし。なんたって、作者が3巻までに描いていたものを、ひっくりかえしちゃったんだ。
ゲドが自らの力を賭して守ったものが実は…。
このシリーズ、今まで何度読み返したものか。そして、読むたびに解釈が異なり、読むたびに読後感が深くなる。翻訳も丁寧で美しい。
ゲドが名前を授かった川の水の冷たさを感じ、流された海の水の塩辛さ味わえ、闇の暗さを見て、吐いた息の白さが見える。
世にFTは花盛りなれど、これほど文章を五感で感じることの出来るFTはあんましない。
ワタシは、この本をどうやって言葉をつくして著したらよいのかわからない。
この本だけは、ぜっったいに映画化して欲しくないな。このシリーズは、文章で読んでこそ、より、リアルに感じられる世界だから。
ニルスのふしぎな旅
セルマ・ラーゲルレーブ
妖精にいたずらしようとして、小さくされてしまった少年ニルス。家のガチョウ、モルテンの背中に乗り、がガンの群れと共にラプランドを目指し、スウェーデンをめぐる旅にでる。
スウェーデンでは、国民的な児童文学らしい。
なんでも、スウェーデンの地理や歴史を、子供にわかりやすく説明した小説を、と依頼された作者が長い年月をかけて書き上げたものだとか。
作中には、スウェーデンの地理や伝説が随所にちりばめられている。
NHKでアニメ化されたものを毎週夢中で見ていた。(年がばれるな)今、再放送を見ると、最初の頃はずいぶん説教くさい。NHKだし。でも、キャラクターがどれも個性的で、後半になるにしたがって、テンポもよくなってくる。最終回は泣いたよ。きつねのレックスが好きだったなぁ。トムとジェリーのトムみたく、おまぬけなの。
原作は、翻訳もちょっと硬くて、正直、アニメの方が面白いと思う。先にアニメを見ちゃったからかなぁ。こういうのって、本を読む上ではちょっと損だね。
あしながおじさん
ジーン・ウエブスター
少年少女文庫、みたいな感じで名作シリーズに子供向けに要訳されたものが入っていたのを読んだのが最初。
でも、これって絶対子供向けじゃない。ミドル〜ハイティーンの女の子向けだよ。子供ん時は、全然面白くなかったもん。
大人になってから完訳を読んだら、すっごくおもしろかった。
チャーミングでユーモアに富んでて、ロマンティック。
自分を後援してくれていた、見たことのないおじ様が、実は、恋心を抱いていたお金持ちの青年で、自分にプロポーズしてきた、なあんて、ロマンティックの王道を行くラブロマンスじゃないの。ステレオタイプのラブロマンス、好きだねぇ。
ただ、私が持ってる「あしながおじさん」の完訳本にひとつ不満が…。
最後、一番重要な、ジャービス・ペンデルトンが実はあしながおじさんであったことを、ジュディに告白する時の台詞が、
「ジュディちゃん、ぼくがあしながおじさんだって分からなかったのかい?」…って。
別の訳本はここが「かわいいジュディ」になってる。こっちの方が絶対いいよ〜。
続・あしながおじさん
ジーン・ウエブスター
ほかにタイトルのつけようは無かったのか…。
原題は「Dear Enemie」直訳したら「親愛なる敵様」ってとこか?
あしながおじさんの主人公、ジルーシャの同級生、サリーが主人公。
ジルーシャの旦那様(あしながおじさんことジャービス・ペンデルトン氏)がオーナーとなったジルーシャの育った孤児院を、サリーが天性のリーダーシップとユーモアと楽天性で変えていく物語。孤児院の個性的な子供達の姿が、サリーがジルーシャに当てた書簡集として生き生きと描かれている。
孤児院の古い体制を変え、子供達が自活できる道を探り、けれど、子供達にとって一番いいのは、愛してくれる親を見つけること、という信念の元に、孤児院を切り回していく。
自分がお金持ちだからと妙にコンプレックスを感じることも無く、利用できるものはちゃっかり利用しちゃう。社交性に富んでいるから、お茶会にもどんどん参加して、お金持ちの夫人達から寄付を取付けたり。
サリーにとって、孤児院の担当医が気になる存在なんだけれど、なぜかことあるごとに反発しあう二人。サリーにはお金持ちの婚約者がいるし、先生には、精神を病んでなくなった妻と、妻の残した子供がいる。
でも、ぜーんぜんどろどろしてない。
お金持ちで物にも愛情にも不自由したことのない女性が、その両方を無くした子供達を愛していくさまは、同じ境遇の人間だけが愛し合えるのではない、ってことと、持っている者が行う善行(といってしまおう)が、すべて偽善ではないってこと。逆に、持っているからこそ、見返りなんぞ求めない愛情を十分に発揮することが出来るのかもしれない。
これって、こしかけのつもりで就職した、能力はあるけれど楽天的なお嬢さんが、しだいに仕事の面白さに目覚めていき、仕事を理解してくれない婚約者と別れて、ともに同じ仕事に生きがいを見出せる相手と人生を歩んでいこうと決心する話だともいえる。一種のサクセスストーリかなあ。
ワタシは、この二冊を読むと、とても明るい気分になる。楽しんで人生を送りたいなぁ、とも思う。幸福な本だもん。
あしながおじさんがティーン向けだとしたら、こっちは、20代の女性向かも。