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筆者プロフィール
1938年松山市生まれ、1956年松山商高卒。三趨入社、松山店〜銀座店 総務部長、松山店 店次長など歴任し定年退職。
1999年大街道三越前で茶房・ミニギャラリー「香保里」を開店、自営。
伊 予 の 狸 談 義   C 伊予八百八狸・隠神刑部の巻
いよ狸サロン  山 岡   尭

 化かしたり、化かされたりの滑稽頓知ばなしから、恩返しや霊験あらたかな物語等、狸にまつわる昔話や伝説は日本国中いたるところに見られるが、なかでも群を抜いて面白いのは「伊予八百八狸」である。それもその筈この話は歴史的な背景を踏まえて創作された大作ドラマであり、単純素朴な民話、伝説ではないことをまず認識しておかなくてはならない。
 およそ200年前、享保の大飢饉のとき実際に起こった松山藩のお家騒動に、無敵の剣士や霊カを持つ狸を配して、波瀾万丈、荒唐無稽な物語に仕立てたのは、江戸末期の講談師である。「講釈師見て来たようなウソを言い」と川柳に詠まれているように、聴衆を引き付ける巧みな話術で、実況中継さながらに、面白おかしく手に汗握るストーリーを読み上げて人気を博した。話芸の世界で、落語は噺す、浪花節は語る、講談は読む芸とされており、いずれも徒弟制で師匠からの口伝が伝統であり、同じ題材でも演者により、時により、展開の異なる物語となるのは致し方ない。
 そんなわけで「伊予八百八狸」も、さまざまな筋書きの講談本が出版されており、どれが正統と断定するのは難しいが、今回は当「いよ狸サロン」の蔵書中、いちばん古い大正7年大川屋書店版講談速記本「怪談古物語 八百八狸」を底本として、そのあらましを紹介すると・・・

 伊予国松山の城下から半里ばかり北に九谷熊山という高い山があって老杉が森々として生い茂り昼でさえ暗い位、この山中の半腹に菩提寺という荒れ寺がありますが、その寺は幾十年となく誰も住みてなく、七堂伽藍手入れもせず荒れるに任せてその凄いこと一通りではない。この荒れ寺にいつの頃から棲んだか不思議な狸がいて、永年の間に眷属を増し、その数いくつと言おうか分からない。里人はこれを熊山の八百八狸と呼んで、領主よりも恐ろしがっておりました。

 このような書き出しで始まる物語は、領主松平隠岐守の命を受けて狸退治にでかけた武士たちが次々に化かされて失敗する様子が描かれた後、武者修業中の後藤小源太が登場する。小源太は飛騨高山で生まれ、犬の乳で育ち暗闇でも目が利く強もの、荒れ寺で狸に幻惑されながらも数匹の狸を仕留め、松山藩へ
召し抱えられ屋敷住まいとなるが、夜毎に化け物が出て奉公人も居つかない。
 小源太は火の玉や三つ目小僧を取り押さえたり、ある時は訪ねて来た恩師の娘を狸と見破って切り捨てたりと狸退治を重ねるので、九谷熊山(久谷久万山)の狸は悔しくて仕方ない。
 領主ご先祖五十回忌の法事奉行を拝命した小源太が祭壇の前で礼拝していると、頭上を岩で押さえられたように重く、やっとの思いで目を上げると

 その身は曠々たる野原の真ん中、あたりは今にも降らんような真の闇。その黒雲の中に煌々光る物ありて両眼さながら日月の如く、身の丈六尺有余、全身金毛を被りし古狸、口中より火炎を吐き、今しも飛びかからん様子、「ハツ」と体をかわし「おのれ妖怪御参なれ」と言うより早く腰の一刀抜き放ち、狸めがけて切りつけた。

 ところが狸と思って切りつけたのは、法事で設けた塔婆であり、その不始末により小源太は謹慎閉門を申し付けられた。城中で相談の結果切腹と決まり、神妙に控えているところへ舅が訪れ「誠の武士ならば検視役人の来ぬうちに見事切腹しては如何か、拙者介錯つかまつる。」と言う。ならばと小刀腹へ突きたてんとした時、ふと振り返れば舅ではなく一匹の狸。すかさず一突きで仕留めた。
 そこで先日の塔婆切りつけも狸の仕業と、切腹を免れることとなったが、治まらないのは熊山狸、「こうなれば繰出で二十四の村を荒らせ」と言い付け、手当たり次第に近郷近在を荒らし回った。
 城内では「数多の狸領地内を荒らすとは不埒の至り。菩提寺を焼き払い、狸退治をしてしまおう。」と衆議一決。穴という穴に唐辛子を詰め込んで焼き立てることになり、家老の奥乎久兵衛は小源太に狸退治を命じ、功をもって罪を償わせることとした。
 いよいよ翌朝は総攻撃となった夜中、小源太の許へ八百八狸の総帥犬紳刑部狸からの使いが参り、請われるまま一人で菩提寺へ出向いた。門をくぐり中へ入ると本堂から縁側までズラリ狸。

 正面少し高い段の上、白衣を着けた一匹の大狸、身の丈六尺有余、これぞ天智天皇の頃よりこの地に住まいする犬紳刑部狸。「我こそは数百年来の古狸、犬紳刑部だ。控えろッ」と叫ぶ。小源大の身体は不動金縛りの如く、仁王立ちになったまま少しも動きが取れない。「どうだ小源太、わが通力を知りたるか。今まで汝くらい豪胆のものを見ず。吾今後汝が歌を唱えたる折には通力にて知れることを告げ知らす。今より吾を敬い神と祀りくれよ。吾また荒れることなく国家安泰を守護いたさん。」

 犬神刑部(隠神刑部)の申し出に小源太は狸を退治するより味方に引き込んだ方が得策と考えて条約を取り交わし、主君に願い出てこの場をおさめたのであった。
 ここまでが「伊予八百八狸」の前半で、この後、後藤小源太は悪人に転じ、家老奥平久兵衛とともにお家騒動を引き起こし、犬神刑部も前記の約束に縛られやむなく悪事に加担、やがて忠臣山口与左衛門や広島の剣士稲生武太夫によって滅ぼされることに相成るが、これまた長講となるので、今回はこれにて読みきりとする。


 慶長の昔、加藤嘉明が山を切り開き埋め立てて松山城を築いたとき、棲んでいた八百八狸の頭が現れ、「この山は古来からわれら眷属の棲み家である。城を築くのはかまわぬが狸に危害を加えないで下さい。われら狸もお城を末長く守ります。」と申し入れ、約定を結んだと伝えられているように、松山藩と狸の友好関係、見方をかえれば武士と農民の協l調が続いていた。
 この平和を破る引き金となったのが享保の大飢饉であり、その政策を巡っての藩内の対立、あえぐ農民の姿がこの物語の裏に見えかくれするのだが、それはさておき、江戸の人々の評判を博した「伊予八百八狸」は、明治大正と語り継がれて、大正3年には早くも映画化され、無声映画時代の昭和初期までに4回も製作されるはどの人気話であった。松山でも昭和9年の旧正月に上映の記録がある。
 昭和14年には徳島を舞台にした「阿波狸合戦」がヒット、ミュージカル映画「狸御殿」も生まれて戦後まで通すシリーズ化されるなど狸ブームを引き起こした。戦後の映画では、「エノケンの八百八狸大暴れ」(昭和25年)、宮崎駿の「平成狸合戦ぽんぽこ」(平成6年)で八百八狸・隠神刑部が活躍する。
 小説では、隠神刑部の子・犬神中将が徳島で活躍する井上ひさしの長編「腹鼓記」が、マンガでは、杉浦茂と水木しげるに八百八狸を題材とした作品がある。


 当地松山には、ゆかりの地・久谷町に昭和41年天皇皇后両陛下御臨事を記念して建立された「松山騒動伊予八百八狸の碑」があり、狸研究の大御所・富田狸通氏く故人)の選文が刻まれている。
 また、松山城築城400年祭のしめくくりとして、来年3月には八百八狸を題材とした歌舞伎が上演される運びとなり、話題を呼ぶものと期待している。
 最後に付録として、築城400年祭に因んでの上演を計画している最新の常磐津台本「伊予八百八狸由来囃子」をご紹介しよう。

作者の河野節子さんは、当地話芸の名手でラジオや舞台で活躍され、伝統芸能常磐津も手がける才女であるが、活弁士として名をはせた坂田楠香の息女と知る者は少ない。
無声映画の血を引く河野さんの手で、八百八狸の名狸たちが復活するわけで興味深いものがある。


常磐津       伊予八百八狸由来囃子(仮題)
作 松山錦会 常磐津小景 こと 河野 節子
 やれ来た それ来た ポンポコポ、ここは平成新し世、築城四百(しひゃく)が歳(とせ)の松山城、月も浮かれし二の丸に、やんもしろやの名代の狸、鼓打ち打ち集いけり。ひさかたに相まみえし歓びを、今宵は共に頒かち合い、共に唄いつ舞わんかな。狸囃子も賑やかに、五匹の狸のさんざめき。
金平狸 「さてお手前たち、二十一世紀の世となれば、わしら狸の由来さえ、知らぬヤングも多き由、なればこれより各々の、情報公開とやらをいたしては」
お紬狸 「ほんにそれがええぞなモシ」
金平狸 「そもそもわしらが伊予八百八狸の由来とは、去ること千三百年のその昔、草深き四国路に八十八の霊場をと、おいでなされしお大師様の このお言葉に始まりしとか。」
お大師様 「拙僧狐好まず、狸はその風貌・愛嬌ありてよしとすなり」
 四国の地より追い払われし狐に代わり、わしら狸一族が、お大師様のみ教えを、伝え広めるお手助け、アシスタントとして栄えたり。伊予八百八狸の名の如く、隠神刑部を頭として、一族郎党数あれど、中でも名代はこのわしら、器量優れしエリートの、故事来歴をばかいつまみ、いざやご披露申そうぞ。
お袖狸 「ほんなら始めはこのあたし、数多の同族従えて、マドンナ様とあがめられ、その霊カたるや超能力、八股榎のお袖大明神とはあたしのことじゃガネ」
 「現世(うつしよ)の美形に例えていうなれば、米倉涼子か藤原紀香、色香妖しき美女狸。市役所前の重要史跡、緑豊かな堀端の、赤き鳥居の奥深く、鎮座ましますいやし系。 商い繁昌・病を直し、縁談・訴訟・願いごと、さらには安産祈願まで、邪を捨て無心に念ずれば、願いの叶う超能力。『小幟(このぼり)や狸を祀る枯れ榎』俳聖子規も詠み給う、お紬狸の名や高し。
金平狸 「おっとわしも聞いてエな。われこそは荏原の里の生まれにて、大宮神社の大柏、根元にドッカと住まいせし、大関格の色男、その名も金平狸、いやさ金森大明神と呼んでツカ」
 お紬の亭主と呼ばわれて、嬉し恥ずかしシャイ狸、読み書きソロバン堂に入り、 伊予狸中のインテリと、誉れ高き金平は、迷子の世話から年よりのヘルパー介護の超ベテラン、福祉に厚き親切な、狸の鑑にござっ候。荏原の里に今もなお、語り継がれし学者狸。金平狸はこのわしや。
喜左衛門狸 「やっとこ回ったわしの番、しまなみ海道はど近き、大気味神社の楠の木がこの喜左衛門のマイホーム、名前はキザでも正味は硬派、筋金入りの狸ぞな」
 「われはまた日露の戦に出陣し、日本の軍を大勝利、萬々歳に導きし、大いな功(いさお)に輝けり。史実にわが名は残らねど、敵将クロバトキンの手記の中、『丸に喜の字の赤服に、玉打ち浴びせしも倒れず』と、不死身のわれを書き記せり。眉唾ものと笑わば笑え、即、我が狸罰当たろうぞ。われは無敵の喜左衛門じゃが。
小女郎狸 「はいはい次はあたしかえ、工業都市の新居浜の、一宮紳社がわが故郷。男ながらも見てのとおりの優男、狸族のピーターか、はたまた美川のケンチャンか、その名も粋(すい)な小女郎狸とお呼びいな」
 「八頭身の美女に化け、道頓堀の花街ぐらし。夜毎の客に寄り添うて 『どこからおいでたんぞなモシ』が決まり文句、『伊予から』と答える客のままあれば、 『故郷の一宮さんによろしゅう』と、金ことづける律義者、年期が明けて里帰り、厚き心に人は皆、『小女郎小女郎』といつくしみ、巨岩の碑石に名を刻む、小女郎狸の語り草。
毘沙門狸 「さてどんじりのこのわしは、東雲神社境内の毘沙門堂に住まいする。数多の狸のその中でも、ナンバーワンのいたずら好き、わるさの天才われこそは、その名も毘沙門狸なり」
 「得意の化けわざ申そうなら、今を去ること有余年、一番町から道後まで、シュッボと走る汽車に化け、人驚かせしことがあり、だまされしその人こそ柳原極堂と物の本にも残りける。お袖、金平と比ぶれば、毛並みの違いありこそすれ、霊験あらたかこの上なく、『大明神』と拝むれば、必ず願いは叶うべし、ドン ピシヤ門狸たァ わしじゃがネ。
金乎狸  「そりゃそうと六角堂、あの古狸はどしたんぞ。いまだに姿を見せんとは」
 そも六角堂の狸とは、勝山町の古寺の 六角堂に住まいいる、いたずら者の古狸、夜泣きうどんのじいさんを木の葉の金でたぶらかし、夜な夜な食いたるぬるいそば。正体ばれてなぐられて膏薬買いに薬屋へ、もとより金は木の葉にて勘定合わぬ不思議さは、人の口にものぼりたり。
お紬狸  「なんと傷に膏薬張り替える、その度ごとに毛が抜けて」
喜左衛門狸 「六角堂の庫裡の内、和尚に見つけられしその時は見るも不様な丸裸」
毘沙門狸 「ひょっとしたらまたあいつ、今宵も昔の二の舞かも」
小女郎狸 「ヤダネックラ、ヤダネー」
金平狸 「ほじゃが奴も、わしらの仲間、狸づきあいもあることじゃ。今宵のわしらの語らいもメールで届けてやろうでは」
お柚狸 「はんに便利なハイテク時代、おおそうじゃIT革命の今世紀、六角堂のみならず、グローバルに目を転じ、われらが誇る故事来歴、世界に向けて、それそれそれインターネットとやらで知らしめん」
喜左衛門狸 「やんややんや、伊予八百八狸のPR、観光誘致の一環にも」
全員 「ほうじゃほうじゃカムカムエブリバディみんな伊予路においでんか」
 いでやそれぞれ打ち揃い、お大師様の使いとして伊予八百八狸の由来をば、誇り高う面白う後の世までも語り継がんと一念発起、ひょうけた踊りに祈りを込め、いざ唄わんかな舞わんかな。伊予松山ときわの緑の目出度さを、東雲の空明け初めて曙色に染むるまで末広がりに踊り抜くげに面白き次第なり。
参考文献「たぬきざんまい」富田狸通 著
◎この作品は、2002年、松山城築城400年に当たり、常磐津公演の台本として創作したものです。
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