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伊予の狸談義  @ 漱石、子規、虚子、市長の巻  いよ狸サロン 山 岡 尭  (茶房・香保里店主)
さてさて、当地四国は佐渡と並んで、国内随一の狸伝説が残るお国柄。伊予の国にも、八百八狸をはじめ、たぬきにまつわる話はつきない。
このたび、茶房・ミニギャラリー香保里、いよ狸サロン主宰、山岡尭さんに道後平野に伝わる有名狸について投稿して頂きました。

漱 石 と 狸
 いまからおよそ100年前、正確には105年前(明治29年)東京根岸に住んでいる正岡子規のところに、松山の夏目漱石からはがきが届いた。それには「昨夕こんな句が出来ました」と「 枯野原 汽車に化けたる 狸あり 」の句がしたためてあり、「なんだか松山とはぉかしな国ですね 日々そんな気がしてなりません。」と書き添えてあった。
 漱石はその前年明治28年の4月に松山中学へ英語教師として赴任し、秋には病を得て帰省した親友子規を、愚陀仏庵と名付けた二番町の下宿に迎え入れた。52日間の同居生活を通じてお互い啓発しあい、子規の指導を受けた漱石は、愚陀仏庵で開く松風会にも加わり、俳句に熱中した。その漱石が、帰京療養中の子規へ宛てたものである。
 住んで1年余、漱石にとって松山はいかにも泥臭く、馴染めなかったと思われるが、見るもの間くもののなかには興味をひくものもぁったに違いない。その一つが狸にまつわる昔話やうわさ話であった。昔から四国松山には、狸の伝説が多いところである。漱石が来松した年の8月に、一番町一道後一古町に新しく道後鉄道が開通し、話題を集め噂を生んだ。“夜更けに狸が汽車に化けて、一番町から道後まで行ったり来たりしている。”とか“深夜に線路を歩いていたら、急に煌々と前照灯をつけて岡蒸気が驀進してきたので、びっくりして飛んで避けたら溝に落ちて気を失った。”とか、面白おかしく語られたものが、ユーモア精神豊かな漱石の心をくすぐり、前記の旬を生んだのであろう。

子 規 と 狸
 子規没後100年にあたる平成13年、松山市では子規記念博物館を中心に、「子規100年祭」が多彩に展開された。子規に関する学術的な研究展示や観光行事は、専門の方々にお任せするとして、趣味の集いである「いよ狸サロン」流に、子規の一面を紹介してみよう。
 このサロンは、狸の話に興味を持つ者が集まり、私が営んでいる茶房で毎月例会を開いているもので、発会以来2年半、30回を越えている。メンバーが持ち寄る書籍、写真、パンフ、ビデオなどの資料も増え、狸グッズも200点以上を展示し、来店者に親しまれている。
 この資料中、郷土の愛狸家、狸研究家として有名な故富田狸通氏の名著「たぬきざんまい」から、狸を詠んだ子規の句歌を給い出してみることにしよう。
最後に掲げた歌は、東京根岸に病む子規が郷里松山の八股榎お袖大明神を詠んだ望郷の歌とされており、彼の心奥に松山と狸の深い結び付きを抱いていたことが伺える。

宵月や蝙蝠つかむ豆狸 狸死に狐留守なり秋の風 小のぼりや狸を祀る枯榎
秋の暮狸をつれて帰へりけり 猿松の狸を繋ぐ芭蕉かな 獺(かわうそ)を狸の送る夜寒かな
古家や狸石打つ落葉かな 戸を叩く音は狸か薬喰
餅あげて狸を祀る枯榎
           紙の幟に春雨ぞ降る
百歳の狸すむてう八股の
           ちまたの榎いまあるやなしや


をかぶって大きなふぐりをぶら下げ
お馴染みの通帳徳利を持ち
堂々とした太鼓腹
(ふさふさした尻尾は見えない)
景徳禅寺のお狸さん

虚 子 と 狸

松山に生まれ、子規のもとで俳人として立ち、「ホトトギス」を拠点に俳壇大御所となった高浜虚子が、酒買小僧〈徳利を持った狸の像)の由来について述べたとして、東京の狸愛好家宮沢光顕は著書「狸の話」に次のように書いている。

「狸が晴雨にかかわらず、いつもをかぶっているのは用心深さを表す。ふぐりのでかいのは大金持ちで、みみっちく隠そうともしない。みそか払いの通帳は信用を証明し、徳利は世の中が徳だけでなく、利も大切であることを教え、太鼓腹は腹に−物もなく善良そのもの。尻尾がふさふさ広がっているのは将来の大成を約束する。よって、天下の商人たらんものは、これを飾って範とすべきであろう」

このほか狸礼賛は数多い

 また、富田狸通、前田伍健、柳原極堂、村上斎月など郷土の文人や風流人が詠んだ、狸の句歌も数多い。

市 長 と 狸
 戦後の昭和22年、公選初の松山市長(第14代)となった安井雅一にも、狸にまつわる逸話が残っている。
 産婦人科を開業していた大正7年秋の頃、ある晩病院の門を叩いて往診の依頼があり、迎えの車で着いた家は、今まで見覚えもない大きな門構えの旧家であった。案内されるまま数枚のふすまを開けて一番奥の部屋に通された。そこで難産を処理して帰ったが、翌朝になって謝礼金の中に木の葉が混じっていたので、「さては、お袖狸であったか。」と気が付いた。道理で昨夜のお産は5人も6人も取り上げたことに思い当たった。
 当時は、狸の助産など名誉でもなく宣伝にもならぬと、車夫や看護婦から出た風評を言われるがままにしていた。戦後市長になってから出席した“狸まつり”の談話で、この顛末を披露し放送された。俳人でもあり風流雅人の安井市長の話、はたして・・・・・・。

mari


今回の締めくくりは、中村時広現松山市長と狸の話題である。 中村市長が、平成12年2月に松山の観光物産展で札幌を訪れた際、札幌随一の商店街である狸小路商店街の中心部にある狸大明神社に祀っている木彫りの狸が、松山の伝統工芸師(一刀彫) 初代西川南雲の作で、昭和48年に富田狸通の計らいによるものだと知った。伝鋭の多い松山でも狸を活用して観光や商店街振興に役立てようと考え、関係者に働きかけた。その手始めとして、昨年夏“たんたん電車”が運行され、次いで本年6月には“狸の石像”が設置された。狸の石像は、大街道と千舟町の交差点、交番の前に置かれて愛嬌をふりまいており、写真のとおり握手をした人に尻尾が生えたように見えるユニークな作品である。狸のご縁で札幌・松山両市の商店街姉妹提携も結ばれ、除幕式では、札幌狸小路商店街から木彫り狸の“真狸ちゃん”が贈られた。

 思えば狸も近代的に変身を遂げたものである。

松山銀天街・大街道商店街振興組合連合会(日野二郎会長)と札幌市の札幌狸小路が「姉妹商店街」の提案をした記念で、像を造った市は「町を活性化させ、”大化けするきっかけになってほしい」としている。 費用は100万円。重さ4トンの御影石製で、高さ1.65メートル、横幅1.5メートル。市内のデザイン会社が設計し、今治市の彫刻家池田英貴さん(38)が約1カ月かけて彫った。 8日にあった除幕式には札幌の竹内理事長も参加、狸小路商店街にまっられている木彫りの夫婦ダヌキの「娘」の像を、松山側の日野会長にプレゼントした。松山銀天街・大街道商店街振興組合連合会は近く、商店街の一角にほこらを作り、この娘像をまつることにしている。
松山市商店街のシンボル



狸と握手する尻尾の生えた筆者

松山市大街道と千船町交差点 KOBAN前
札幌狸小路商店街から贈られた
木彫り狸の“真狸ちゃん”
松山の伝統工芸師(一刀彫)
二代目西川南雲の作
狸平(りへい)君と真狸(まり)ちゃん