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 『松山騒動八百八狸物語』

松山百点  発行 松山百点会
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 『松山騒動八百八狸物語』は、『証城寺の狸ばやし』、『文福茶釜』と並ぶ日本三大狸噺の一つ。もとを辿れば、文化2年(1805)に、享保の飢饉に際して起こったお家騒動の顛末を『伊予名草』と題して書き下ろした物語に、江戸の末、講談師田辺南龍が狸や妖怪の要素をつけ加え、怪談話にしたてて語ったことにより、一気に広まった講談である。話し手によって、切り口は様々だが、ここでは百点風八百八狸の大あらましをご紹介しよう。

 時は享保17年(1732)、かつてない大飢饉に襲われ(注1)窮した松山藩は、幕府から多額の救済金を借り受けた。この金に目がくらんだ家老・奥田久兵衛。ついには、松山藩横領の大望をも企て、ここに松山藩お家験動が勃発した。
 松山には、天智天皇の時代(662〜671)以来、この地に住み着き、八百八家の眷属を従える古狸がいた。この狸こそが、松山城主から刑部の位を授かり家中から深く信仰された隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)狸だ。
 謀反を企てる久兵衛にとって、刑部狸は最大の邪魔もの。そこで、久兵衛は部下の後藤小源太(注2)に、狸を引き込むよう命じた。緊迫した話し合いの末、小源太は狸に危害を加えない代わり、もそも小源太が窮地に陥った際には、狸が霊力をもって守護するという条約を結びつけた。
  こうなれば刑部狸は味方も同然。すっかり気を大きくした久兵衛は、小源太を七百国の中老に出世させた上、城主の愛妾お紺を仲間に取り込み大胆な策に打って出た。何とお紺に命じて城主に毒薬を盛り、中風にしてしまったのだ。
 久兵衛の本心に気づいた刑部狸は、今まで守護してきた松山藩の行く末を憂い、何とか久兵衛の悪巧みを阻止しようと、松平家の百回忌法要が行われる山越の長久寺で一計を案じる。家中の者が顔を揃えるこの日、久兵衛が大失態を演じればその場で手打ちとなるはずと考え刑部狸は、法要の席で久兵衛にだけ摩訶不思議な幻影をみせた。これに驚いた久兵衛は、松平家の祖先の位牌に切りつける騒ぎを起こすが、すでに家中で絶大な力を誇っていた久兵衛はこれで手打ちになるような小物ではなく、刑部狸のもくろみはもろくも崩れさった。
 久兵衛の悪巧みに気付いたのは刑部狸だけではなかった。江戸の屋敷に集った忠臣組は、国元に残る山内与平衛(注3)が手討ちにきれるに至っていよいよ危機感を募らせ、稲生武太夫(注4)という豪傑を味方に引きいれる。稲生武太夫は、名刀『菊一文字』(注5)を手に、悪玉奥平一派を次々と成敗し、さらに宇佐八幡神社から授かった神杖で刑部狸の神通力を封じ込め、一気にお家騒動を終息きせた。神通力を失った八百八匹の狸は、とうとう久万山の狭い洞窟に封じ込められてしまった。
 お家騒動に巻き込まれ、知らぬ間に悪の仲間に加担してしまった隠神刑部狸だが、長く松平家の祖先に仕えた功徳に免じて「供物を供え、毎年の祭りを欠かさない」という特に寛大な措置にあずかった。それ以後、八百八狸の力は衰えたが、のちに罪が許されて、地域の人たちと仲良く暮らしたといわれている。

 (注1)この大飢饉は、長雨とウンカが大発生したことが原因
 (注2)幼くして母を亡くした後藤小源太は、野白という雌犬の乳で育てられたため、夜間でも犬のように目が利き、夜目を活かした剣術、神免鳥羽玉をあみ出した怪人物。犬の血を引くため、犬を苦手とする狸にとって逆らいにくい交渉役だった
 く注3)近習頭・山内与兵衛は久兵衛の悪巧みを城主に直訴したが、逆に愛妾の偽り事を信じる城主の怒りを買い、手討ちになってしまった
 (注4)剣豪・小野次郎右衛門の高弟で、剣の達人。しかも、宇佐八幡大菩薩より授かった神杖を携えていたので、それを恐れた狸が先に手を回し、美女をあてがって腰抜けにしておいた。そのため当初は忠臣組の協力を断つていたが、ある日女が雌狸であることに気付いた武太夫は激怒し、すぐさま正義の味方に加わった
 (注5〉松平家に代々伝わる名刀で、忠臣・山内与兵衛の霊がのりうつつたといわれる

 八百八狸 補稿