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八百八狸/お袖狸 補訂
八百八狸/お袖狸 補訂
(注記)
 狸研究のオーソリティー富田狸通さんは著書「たぬきざんまい」(昭和3 9)のなかで、「八百八狸」の物語について江戸の講談師・田辺南龍が書き下ろしたものと紹介していますが、断定はできません。
 伝統的な話芸の講談は、古典落語と同様に、演者により、時と場所によって内容が変化し、さらに口伝として多数の講談師により、それぞれ得意とする語り口で、さまざまな展開のストーリーが語り継がれましたので、原作者の特定は困難です。
 明治期になって、講談速記本の出版が盛んになり、「八百八狸」も、揚名舎桃季(1896/東京)、神田伯龍(1897/大阪)、真龍亭貞水(1901/東京)、石川夢旭(1907/大阪)と、続編も含めあいついで評判を呼びました。大正期になると、「立川文庫(1911創刊)も加わってポケット講談本ブームとなりました。
 昭和期に入り、大日本雄弁講談社(現・講談社)が講談全集を発刊し、人気を集めベストセラーとなりました。昭和7年(1932)には田辺南龍口演の「隠神刑部 八百八狸」が加わりました。従来の「八百八狸」を超える波乱方丈の物語は、当時3 0歳の富田狸通さんの血をわかせ、胸おどらせたことは、想像に難くありません。同好の伊予史談会の友人たちと、この書を原典としてとらえ「愛申会(たぬき会)1939創立」へ発展させたのではないかと、推察します。
 ちなみに、本邦最初の揚名舎桃季版では、隠神刑部狸は松山藩を守護する善役として登場しています。                 
(文責・いよ狸サロン/山岡 尭)
八 百 八 狸 資料一覧
伊予たぬき学会(いよ狸サロン) 山岡 尭
(注記)
 また、狸通さんは同書の「八股榎お袖狸」の項で、お袖狸が住処としている大榎を切り倒す電車線路の工事の時期を、“昭和11年の春”としていますが、正しくは“昭和9年”の出来事です。
 お堀の埋め立てと線路工事のため、八股榎を石井村(現・東石井)の喜福寺へ移すこととなり、昭和9年5月 4日に遷座式が行われたことが、新聞にも残っています。昭和11年に開通した西堀端-国鉄松山駅間の工事と記憶違いしたのでしようか。
 また、お袖狸が大井駅近くの明堂さんに現れたのを、“その霊験談も忘れられようとした昭和2 0年の春のこと”と記載していますが、正しくは 《昭和1 0年》で、八股榎が移された翌年です。参詣人は一日平均2万人とも、当時の新聞に載っています。
 それぞれの年を誤って記載しているため、この書を資料としたり、孫引きした文章が目につきます。
(文責・いよ狸サロン/山岡 尭)