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伊予の銘狸列伝  八股榎お袖狸の巻

 茂林寺の分福、佐渡の団三に淡路の芝右衛門は共に有名狸であるが、これらと肩を並べるものに四国でほ阿波の金長と讃岐の禿.それに伊予の喜左衛門と小女郎に、お袖と金平など多狸済々の有名狸がある。
 次にその各狸歴のあらましを調べてみるとおもしろい。
 先ず何と言っても松山市役所前の重要史跡の掘端に八股榎大明神の名で、老舗を誇るお袖狸である。ほっきりした先祖は不明であるが、古くは松山城の杜に棲んでいたらしい。堀端の大榎に移り棲んだのは弘化年間と言い伝えられているから、今から約百三十年はど前である。榎の繁りの多かった榎町通りは昔から人通りの多いところで、初めお袖は大榎の梢から通行人を眺めるのが楽しみであったが、先年物故された神霊学の研究者であった田内逸文さんの話では、松山市中で美男が一番多く通るのは榎町であると、お袖が言ったということである。
 田内さんはもろもろの霊を呼び出すことが出来た人で、普通の人には見えぬが興居島の頂上には白髪の女仙人がいて、田内さんの眼にほそれが見えるのだと言っていた。又、お袖狸の霊を呼び出した時にもお袖ほ両手を袖に入れてピョンと躍り出たという。酒ほ好きで冷やで五合のんだそうな。
 ところで、お袖はいつの間にか榎町で道祖神となりすまし行き交う人々から尊敬されるようになってからポッポッと神通力を発揮するようになり街の流行神として天保、・嘉永、安政、萬延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和にかけて商売繁昌、病気平癒、縁談、訴訟、願いごと一切を引きうけて賽客を集め狸祠として名物になった。
 大正七年の秋には産婦人科の医師で元松山市長の安井雅−氏(号を山果という)がお袖にむかえられて助産をしたという有名な話がある。それからのお袖は安産の守神として一段と御発興したものである。
 開運の縁起で当時の花柳界からは絶対の信仰が厚く「赤のぼりここの不思議を数え立て  伍健」と大榎のまわりには小のぼりや提灯が四六時中立ちこめる線香の煙にくすぶっていた。子規居士もこの珍風景を「小幟や狸を祀る枯れ榎」或いは又「餅あげて狸を祀る古榎、紙の幟に春雨ぞ降る」 「百歳の狸住むてふ八股のちまたの榎いまありやなしや」 と故郷の風物を偲んで詠じた歌がある。このほか八股のお袖は多くの俳人、歌人に詠まれている。
 こうして各界の礼讃と信仰を集めて幸せに暮らしていたお袖にも長年棲み古した大榎から追い払われる時が来た。
 それは昭和十一年の春、伊予鉄の城南電車が複線になる工事のために堀の一部が埋め立てられて、お袖の大榎が邪魔になることになった。そこで三抱えもある大木を掘り上げるわけにはいかず伐り倒しにかかつたところ、つぎからつぎに人夫が怪我をしたり、病気になったり不慮の事故が続発するので、これはきっとお袖狸の崇りにちがいないということで、伊予鉄の工事人夫は誰も仕事をせぬようになった。会社は仕方なく朝鮮人を雇い入れて仕事を進めようとしたが、お袖の怒りほ日本人も朝鮮人も区別なく遂に朝鮮人も手をあげてしまった。
 この始末を毎日堀之内の連隊営所から見ていた憲兵隊が、狸の崇りなどとは片腹いたい、日本軍人の名誉と沽券(こけん)にかけても伐り倒して見せんずと買うて出たが、これまた木から落ちたり片腹どころか両腹まで痛み出す兵隊が続出して手を引いてしまい打ちつづく不思議な出来事に交通文化の精鋭を誇る伊予鉄も一時は電車複線の計画を棚上げしようかとさえ危ぶまれる破目になりかけた。この時「八股榎大明神講」を主宰する市内唐人町の永野某という熱心なお袖信仰家が現われて神木を伐採することほオソレがあるからわれわれ講員に委せてくれと申出た。
 永野某ほ先ず大榎の前で御霊祭を修し、鋸や斧で伐りかけた枝には繃帯を巻いて傷口をいたわり伐採をやめて掘り上げることにした。掘り上げるといっても数百年の根を張った大木のこととて容易なことでほなかったが、とも角も掘り倒しに成功したので移植先を石井村の天山にある喜福寺へきめて運ぶとになった。
 何しろ由緒あるお袖狸の神木というので飾り付けを施した大八車を三台連ねて積みこみ、先頭には可愛い稚児行列を仕立て木遣り音頭は御詠歌で賑やかに運搬されて途中ほ何の不思議もなく天山に移植されたが、遂にこの神木ほ枯れてしまった。
 枯木はどこかの他抜き和尚の名案で小さい守り札に裁断され「棒大明神」の焼印を捺されてお守り札となって御狸益を振りまいたものである。
 このような大騒動のあげく移植された喜福寺の大榎も枯れてからまた棲み家を失ったお袖狸の行方はしばらく杳として不明のまま、その霊現談も忘れられようとした昭和二十年の春のことであった。予讃線の大井駅の近くの小西村(現在の大西町)山之内小山部落にお袖狸明堂菩薩となって現われたのである。
 明堂さんにお詣りすれば病気のものは必ずその疾患部に灸のあとを霊授してくれるというので、参詣人は日を追うて増加し、田舎の小駅であった大井駅は一躍予讃線の王座となって、高松、松山の大駅にせまる勢いで今まで一日の乗降客二百名に過ぎなかったものが平均五千名となり、収入三十円内外のものが最高八百三十円、平均三百円という繁昌ぶりで賽客は遠く九州や京阪神から集まり、大井の港には一夜にして立派な桟橋が出来るという狸景気を出現した。
 この御狸益をうけた村の青年は農耕をすてて、にわか商売人となり、線香や油揚、餅や煎餅の露店を張り、また機船(はた)を織っていた娘は姉さん冠りに赤前垂れで「お袖さんの延喜笹お買いんか」とあやしげな土産品を作って街頭進出をする始末で、「あーりがたや、ありがたや」と明堂景気ほどこまで昂進するやら魔呵不可思議な豪勢振りであった。
 この狸狂騒曲を見かねた地元出身の県会議員村瀬武男氏は「怪しからん、あんなグロ的存在を放任することほ県の恥辱であり、又、農業増産に及ぼす影響が大である、よろしくお袖狸を追放すべし」
 と県会座で大見栄を切って毒づいたはどであった。
 ところで本来の明堂菩薩の御本尊ほ、今を去る約三百七十年前の天正年間に豊太公の四国平定の戦いで亡んだ河野一族の岡部十郎という武士の妻で、これが大変な貞
女で、のちに明堂の菩薩戒を贈られてこの小山に重茂霊社という小嗣で妃られたが、皮肉なことにその墓標は頗るエロティックな五輪の塔である。
 いつの時代でもグロとエロほ表裏一体で、明堂さんがお袖か、お袖が明堂さんか、とにも角にもお袖がエロティックな相談を一手紅引受けて、花街の姐さんや女給達に絶対的な人気と信望を集めていたことは、松山市の榎町通りの八股榎で繁昌したのと同じわけであったが、さしものお袖明堂景気もー年あまりでバッタリと煙の如く消え去ったのも狸らしい狂騒曲であった。
 それからのちは石手川の堤防に或いは常楽寺の六角堂にと、お袖の棲み家は巷の噂になっていたが、戦争も終わった昭和二十二年頃から、また元の古巣である現在の松山城濠の三代目の大榎に帰り棲んだということになっているのである。

 八百八狸 補稿