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解  説

『伊予名草』

 近世(江戸時代)なかば頃から、実際に世上に起こつた事件に取材した小説風の読み物が貸本屋を中心に広まった。これを「実録」と呼ぶ。実録といえば、事件をありのままに事実に基づいて書いたもののように思われるが、多くは口碑・舌耕(講釈など)に拠ったもので、読者の興味をひくため多くの虚説をまじえ、脚色を加えており、実録とは名ばかりで、実録体の小説とみてよいであろう。各藩のお家騒動、敵討武勇伝、裁判物などが主たる内容で、実名を使ってあるため出版されることはなく、写本として貸本屋を通して多く出廻った。
 『伊予名草』もこの実録物の一種とみてよいであろう。加藤嘉明の勝山築城から、蒲生氏を経て、松平定静までの事蹟を述べた「物語松山藩史」の体裁をとっているが、その中心は奥平久兵衛等のひき起した松山騒動で、これに大半の筆を尽している。
 松山騒動とは、享保一七年(1732)の大飢饉の翌年、六代藩主定英が没したのを機に家老奥平久兵衛の企てた謀反事件をいうが、実際は対立している家老奥平藤左衛門との主導権争いであったと思われる。初め、久兵衛が、飢饉の折に大坂にいた藤左衛門を、大事の時に大坂で遊興したという口実で退け、一味の山ノ内与右衛門ら五名を先君に驕りをすすめたといって罰して、定喬のもとに実権を握ったものの、次いで起った久万山騒動でその責任を問われ、失脚、藤左衛門らが帰り咲き、久兵衛は生名島へ流され、そこで殺されたという経過をたどるが、ここに久兵衝一味の謀反を仕組めば、松山藩お家騒動となる。勝てば官軍、藤左衛門らによって久兵衛は謀反の罪を着せられ、悪人として喧伝され、それが口碑化されていったのであろう。
 この事件を主題にして小説化したのが『伊予の湯下駄』と『松の山鏡』である。両書ともほぼ同じ内容であるが、『松の山鏡』は少し簡略化されているところもある。これらは典型的な実録物で、読み物として面白く脚色されている。『伊予の湯下駄』は『愛媛県史・資料編・文学』に全文収めてあるので参照されたい。
 『伊予名草』は『伊予の湯下駄』に比べると、松山騒動だけに焦点を置いていないので、散漫の感はあるが、まだ小説化が十分でない上に、松山藩史という形をとっているために、その内容がいかにも事実であったという感を読者に与える。『伊予の湯下駄』の仮構化が目立つだけに、『伊予名草』は少々うろんな点はあっても松山藩裏面史と錯覚させるだけのものを持つている。『松山叢談附録第三』では『伊予名草』『松の山鏡』の松山騒動について、いちいちその虚をあげつらい弁妄している。
 しかしそういう危険性を云々するならば、『松山叢談』の記す「歴史」にもそれはあるわけで、そこに歴史と文学を読み分ける目が要求されることにもなる。さらに文学の立場からいえば、本書をただ仮構の読み物として面白く読むだけでなく、またそれ故に歴史的には無価値なものとして退けるのではなくして、その虚の中にある実、描かれた人の心の真実をもまた読みとっていかねばならない。
 『伊予名草』は二十巻三冊。「序文」の「文化二丑稔梅月鶴羨斎伊東通忠(うしどしさ つきかくせんさい いとう みちたゞ)誌」は本書の成立年・作者を示すものではないであろう。恐らくは伊予松山に詳しい実録物作者の手になるものと思われる。伝本は現在伊予史談会文庫に蔵する一本のみである。本書の翻刻は、河合眞澄・自方勝・田村憲治・美山靖、愛媛国文資料研究会々員(池内裕子・石川周治・川本陽吾・楠雅子・佐川由紀子・寅岡真也・中村伸郎・野村富子・松岡武彦)が行い、田村が全体の校正に当った。


愛媛大学文学資料集2 1987年・青葉図書