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中豫地方のお国言葉 方言
このページにある伊予弁は、現代に生まれ現代に生きる私が、子供の頃を思い出しながら蘊蓄を傾けたものです。
ほじゃけん「あれ違わい」言う人が居るかも分からんけんど、堪えてや。
元々、伊予の国は河野家が千年を超える永がきに亘って、諸国の武将との戦の中で、治めてきました。
時は足利幕府の時代、安堵状を得るため、要請に応じて日本国中の戦場に馳せ参じました。
河野家存続のために兄弟が敵味方合い分かれて戦う事もあったと言う。(応仁の乱<文明の乱>
四国内では南の土佐・長曽我部、東の讃岐・細川阿波・三好
西は海の向こうの鎮西諸国、北は播磨/丹波/備前/備中/美作・・・と、
他国との戦の中で、異なる言葉の交流は当然な事と想像出来ます。
予断ですが、徳川時代に諸国の大名が江戸城で将軍にマミエルとき、通詞が居たそうです。
文禄4年(1595)九州・小田原征伐の功で加藤嘉明は伊予・松前を与えられ6万石を領し、
朝鮮攻めでも功を上げ10万石となる。
慶長5年(1600)関が原の戦いで功を立て10万石を加増され伊予半国20万石を領する。
慶長8年(1603)松山城を築き松前より移り松山藩ができる。
寛永4年(1627)嘉明が陸奥・会津に転封となり、会津より蒲生忠知が20万石で入封。
寛永11年(1634)、蒲生忠知は没。後継者がなかったために除封される。
翌寛永12年(1635)、伊勢・桑名より徳川家康の甥・松平定行が15万石で入封。以後明治に至る。
その都度、お供をして来た家来の言葉は、それぞれ違っていた筈です。国変えの後も残る人達もいた筈です。
蒲生家と近江の商人達(三津の岡田家)、松平家と庄屋達(立花の松沢家)などです。つまり、
伊予国・三河国・出羽国・伊勢国の方言が交じり合って出来たのが、所謂「伊予弁」ではないかと思います。
松山でも城下、つまり、関所で囲まれた旧市内では、所謂「伊予弁」はあまり使われなかったのではないかと思います。
伊予弁は本来、「在」の言葉なのです。
因みに松山の城下とは、東に(上)一万(伊台→風早→高縄へ)、北に三津口(三津街道へ)、
西に(北)藤原(松前→郡中→長浜へ)、南に橘(立花)(砥部→土佐街道へ)等のの関所で囲まれた内側を言います。
古町は商業地域、番町は武家屋敷、大街道は外川(とがわ)といって川の流れる田園地帯だったと思います。
松山名物の「緋の(日野)蕪(かぶら)」は寛永6年(1629)頃、近江(滋賀県日野村)から移植されたと言われています。
地域によって多少の違いあり。兎に角楽しんで下さい。都合で随時改定されます。悪しからず。
五〇音順に並べとるけん。(JISコード)
序でに方言関連ページを紹介しとこわい。
YAHOOの方言・・・ 伊予弁ネット ばあちゃんの新居浜弁 こたろう博物学研究所 お国言葉でメイルを
 つう‐じ【通事・通詞・通辞】  とは広辞苑によれば以下の如し。
 通訳。通弁。江戸時代、長崎に唐通事・和蘭オランダ通詞が置かれた。
 中間に立って取り次ぐこと。浄、傾城反魂香「女房傍から―して」
 〔法〕民事の訴訟手続で、陳述者が日本語が通じないか、また聾者ロウシヤ・唖者アシヤである場合、その通訳を命ぜられた者。
 シャモの一種。小形で、中国地方・九州に産。
 ざい【在】  とは広辞苑によれば以下の如し。
 一定の場所にあること。いること。「在宅・在京・在住・存在」 都会から離れた地方。いなか。
 「神戸の―にある実家」「在所・在郷ザイゴウ」
うん‐ちく【蘊蓄・薀蓄】  とは広辞苑によれば以下の如し。
[左伝昭公二十五年]より
さしでん【左氏伝】 「春秋左氏伝」の略称。「春秋」の注釈書で、春秋三伝の一。30巻。左丘明の作と伝える。
「左伝」とも略称。三伝のうち最も文にすぐれ、史実に詳しい。
しゅんじゅう 【春秋】 ジウ (年月・四季の順を追って記したからいう) 五経の一。
孔子が魯国の記録を筆削したという史書。
魯の隠公元年(前722)から哀公14年(前481)に至る12代・242年間の史実を編年体に記し、毀誉褒貶キヨホウヘンの意を含むという。
前480年頃成立。注釈に左氏・穀梁・公羊クヨウの三伝があり、左氏伝が最も有名。
物を十分にたくわえる。知識を深く積み貯えてあること。また、その知識。「―のあるところを披露する」
○蘊蓄を傾ける 自分の学識・技能の精一杯を発揮する。