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madori
一草庵の扁額 藤岡 照房 鉢の子 H18・09・20 21号
 静謐な御幸寺山の麓に身を潜めるように建つ「一草庵」は、流浪の俳人山頭火の終の住処である。
 この庵は、もともと映画監督伊藤大輔が妹美佐尾のために建てたもので、山頭火入居前にはお寺の納屋として使われていた、と市村通泰さんが調べている。
 山頭火の死後老朽化が進んでいた昭和27年、時の国家地方警察愛媛県本部の夏目義明本部長がこの庵の保存改築を発案。久松定武知事を会長に戴き顕彰会をこしらえ、秘書企画課の吉岡依雄課長(清風・吟道清風流宗家)が県下の有力者を回りたちまち三十五万円の浄財を集め、現在の一草庵を建てたのである。
 また、この年が山頭火の十三回忌に当たることから、この新しい「一草庵」へ師の荻原井泉水と長男の健を招き、十三回忌法要と三越において最初の山頭火の「書」の展示会を開いたのである。この展示会によりその「書」の評価が高まり、全国の所有者から実に多くの書が大山澄大の許に送られてきた。
 山頭火が住まっていた時は「一草庵」を示す扁額等はなく、玄関の左柱に郵便受けの紙函が掛けられていた。曰く「不在中・郵便受・一草庵・種田山頭火」。
 小郡時代「其中庵」には四畳半の奥の間の鴨居に、荻原井泉水書の「其中一人」の額が掲げられていた。それに倣ったのか新一草庵に井泉水の扁額を請うたのであった。井泉水から送られてきた「一草庵」の文字は彫師に渡されて今はないが、「拙筆一草庵の印影章」と「一草庵扁額用」とした関防(書画の右肩に押す印=広辞苑)と落款ニケを捺した手紙が遺されている。
 この扁額はいま一草庵の屋内へ取り込まれ南縁の上にあるが、肝心の玄関には何の標識もないのを残念に思っていた。
 数年前、忠実に復元したレプリカを玄関に掲示することになった。原扁額には船板が使われていたので、まず用材探しから始まったのだが、北条や三津・港山付近から遠く長浜方面まで足を延ばしたのに適材はみつからなかった。
 ちょうどこの頃三津の祖父宅を解体することになった。そふは明治時代から材木商を営む傍ら造船にも係わっていたので、このいえの各所に船材が使われていたことを私は幼少の頃から知っていた。しかし調べてみると船材は厚手のものでとても扁額に利用できるようなものではなかった。それでも一枚だけ錆釘がところどころ顔を出した薄手のものを見つけたが、これを工作することは非常に難しかろうと思われた。だが工作を引き受けた高村昌雄さんは旧扁額から綿密に採寸し、関防・落款も見事に復元し本物と見紛うような扁額に仕上げてくれた。
 いま、一草庵の玄関に掲ったこの新しい扁額の知性の青は、旧住人の精神性の高さを示しているようで、終の住処にふさわしい雰囲気を漂わせている。
荻原井泉水 本名 幾太郎のち藤吉
一草庵 名前の由来
はじめ山頭火は、これを湯田温泉(山口県山口市)の居と同じく「風来居(ふうらいきょ)」と名付けたが、しっくり行かず、大山澄太(明治32[1899]年10月21日生 宗教家・俳人)に相談、それを受けた澄太は「一草庵(いっそうあん)」の名を提案した。
【扁額】
へん‐がく 門戸・室内などにかける細長い額
現在の間取り スケッチ 現状とは多少差異あり 昭和27年再建以前の一草庵の間取り
出典 松山の山頭火
一草庵
扁額のレプリカが掛かる玄関 右側に句碑2と3
Taneda Santoka(1882-1940),who was famous as a wandering free-style Haikuist, passed away at this hermitage in 1940.
Though Santoka had been leading a vagabond life for years, he settled at this spot, and enjoyed the rest of his life by composing haiku.
日当たりの良い6畳間 縁側鴨居に扁額「一草庵」
居間の南側 縁側鴨居に掛かる原扁額 (荻原井泉水 書)