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New第51回 愛媛マラソンの練習記録はFB上で公開(2012年8月~2013年2月)
 
   第3回徳島マラソン(2011年11月6日) までの練習記録 

     8月の記録 9月の記録 10月と11月5日までの記録
   
Personal Record
徳島マラソンの記録
 第3回(2011年) 3時間28分54秒 (196位/4291人中)55歳…13年振りのフル
マラソン

愛媛マラソンの記録
 第30回(1992年) 3時間21分35秒 (348位) 36歳
 第31回(1993年) 3時間15分39秒 (276位) 37歳
 第33回(1995年) 3時間30分04秒 (449位) 39歳
 第34回(1996) 3時間18分38秒 (337位) 40歳
 第35回(1997) 3時間10分19秒 (190位) 41歳愛媛マラソン自己ベスト
 第36回(1998) 3時間20分38秒 (319位) 42歳
 第51回(2013年) 3時間24分00秒 (609位) 57歳…愛媛マラソン15年振りの参加
       なんとか3時間30分を切り、向う3年間はアスリート枠で参加できる。

小豆島タートルマラソンの記録
 第12回(1991年) 3時間28分30秒 35歳 初マラソン
 第14回(1993年) 3時間08分56秒 37歳マラソン自己ベスト
トライアスロン 
 第7回トライアスロン中島大会  総合タイム 2時間50分21秒 第147位 (36歳)
     スイム 38:09  バイク 1:24:15  ラン 47:57

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Special Feature 2011
「走ることについて語るときに僕の語ること」で英語を学ぶ
            
   第51回愛媛マラソン H.25. 2.10
   第3回徳島マラソンを終えて H.23. 11.6
   第3回徳島マラソン(2011年11月6日) までの練習記録 毎日更新 H.23. 8. 28
   村上春樹で英語を学ぶ H.22.12.22
   Review for "What I talk about when I talk about running." H.22.10.30
   AXTOS ランニングクラブ  H.22.10.12
  マイランニングエッセー 2008年 H.20.10.1
  しまなみ海道100kmウルトラマラソン 2004年 H.16. 6. 11
  どうして?24時間テレビマラソン 2001年 H.13. 9. 1
  再びオリンピック −NHK有働アナー in English H.12. 10. 25
  オリンピック考  in English H.12. 9. 18
  小豆島タートルマラソン  H.12. 9. 17
  Heading for Marathon now  H.12. 8. 18
  Here again・・・ H.12. 6. 28
  2000冬 シーズン後半スタート H.12. 1. 23
  俳句  H.12. 1. 10
  1999冬 シーズン前半を振り返って  2000年 H.12. 1. 10
  Uwa High School 10k road race  ( in English ) H.11. 2. 5
  Running with you - part 2 - ( 日高さんからの手紙 ) H.11. 1.10
  Running with you - part 3 - ( 君と一緒なら ) H.10.12.23
  Melody Line Ekiden ( Relay Race ): Misaki Peninsula'98 (in English) H.10.11.29
  Running with you - part 1 - 青島太平洋マラソン ( in English ) H.10.11.23
  わたしの愛媛マラソン (年賀状編)   H. 9. 1.12 
  町駅伝 H. 9. 1.14
  楽しんで走ろうよラスト195mは 1997年 H. 9. 1.15
  41歳の誕生日 H .9. 1.28
  愛媛マラソン '97 H .9. 2. 8
  愛媛マラソンー坂本先生編−1997年 H. 9. 1.15
  O先生のやさしさ 1995年 H. 7. 1.28

  第51回愛媛マラソン (2013年2月10日)
大会の個人記録がネットで閲覧できた。5km毎のラップは、以下のとおり。
  5km 22'25"
 10km 23'04"
 15km 23'20"
 20km 23'35"
 25km 24'01"
 30km 24'31"
 35km 24'55"
 40km 26'12"
 Finish 11'44" (2.195km)
このラップ表で分かること。
35kmまでは5'00"/kmを上回るペースを維持し、3時間20分を切るための貯金もできていた。問題は「35kmからの残り7.195km」を5'00"/kmのペースでカバー出来なかったこと。ここで3分のタイムロスが生じている。「マラソンは35km地点が折り返し」というのが私の持論で、今回もその覚悟で臨んだのだが、心折れてしまったということ。

この3分間のロスを埋めるものは何だろうか?
実は、練習量ではないような気がしていて、今年の練習量で十分だと思っている。
練習量でなければ、何だろうか。敢えて言えば、生活の質を変えること、今よりストイックな生活を送ることだと思う。要するに、走ることそのもの以外の何かを変えることに、記録向上の鍵があるような気がしている。これから9月までのオフシーズンをいかに送るべきか、よく考えてみたい。

マラソンとは、ただひたすら走ること。
マラソンとは、哲学すること。

マラソンとは、誰の力も借りないこと。
マラソンとは、誰かの力を借りること。

マラソンとは、律すること。
マラソンとは、妥協すること。

マラソンとは、スタート直前の狂気。
マラソンとは、完走後の豚汁。

マラソンとは、ボランティアという名のスタッフ。
マラソンとは、選手という名の一般人。

マラソンとは、超久しぶりに再会する場。
マラソンとは、見知らぬ人と会話する場。

マラソンとは、横断歩道渡るのに15分待たされる日。
マラソンとは、赤信号と電車と自動車が僕(シモベ)となる日。

マラソンとは、ギネス級の数の人々が、沿道を埋め尽くす日。
マラソンとは、Qちゃんがギネス級の数の人々とハイタッチする日

マラソンとは、…


2013年3月3日
ランネットから、愛媛マラソンのゴール写真をダウンロードした。
この写真を見ると、何だか余裕のあるような、達成感溢れる表情をしているが、実際はそんな想いとは程遠く、最後の5kmが気の遠くなるほど長く感じられ、正直本当にフィニッシュテープを切れるのだろうかと不安を抱えながらのランだった。
ゴール後、思わず両手を突き出したのは「なんとかたどり着けたか…(-"-)」という気持ちの表れで、走り切ったという充実感はほとんどなかった。
私の左隣に写っているゼッケンナンバー1566のランナーの表情が、実は私の真実を映し出している気がする。

(ちなみに、ゼッケン1566番の選手は30歳代で、その記録を見てみると私より一秒遅れでフィニッシュしていて、順位も610位だった。しかし、スタート位置が私よりずいぶん後方だったようで、実際の記録であるネット記録は彼の方が30秒近く速かった。)


第3回徳島マラソンを終えて
 
スタート時は曇天で、走っている間少しばかり小雨が降ったものの、吉野川を渡る風もやさしく、ランナーにとっては好条件だったと言える。
 前半を、4分40秒から50秒でカバーし、10q48分9秒、ハーフ1時間41分、30q2時間26分。マラソンで辛くなると言われている後半の32q辺りから5分5秒/km〜5分10秒/qかかるようになった。残り5q地点で3時間2分だったので、5分/kmペースを維持すれば3時間30分は切れると思いながら走った。
ゴールタイムは3時間28分54秒(男子総合順位196位/4291人中)。この記録は、35歳の時に走った初マラソンの記録(3時間28分30秒)とほぼ同じ。記録には満足していないが、今はとにかく完走できてホッとしている。
 しかし、正直なところ調子が良ければ3時間20分は切れるかもしれないと思っていた。実際、当日のレースコンディションは良く、体調も問題なかったので、本来なら15分前後の記録は出せたはずだった。何が足りなかったかというと、それは「攻めの気持ち」だったように思う。年を重ねることによる記録の落ち込みは避けられないにしても、60歳までは練習次第で伸びると思っている。
  娘手作りマラソンお疲れケーキ
 
今回思うような記録で走れなかったのは、潰れてもいいから3時間15分を狙ってやろうという「攻めの気持ち」が欠けていたからだと思う。結果論と云ってしまえばそれまでだが、前半慎重になりすぎて5分/kmを少し切る程度の楽なペースで走り続けてしまったことと、余力を残しながらも「久しぶりのレースで3時間半を切れればいいか」と守りに入ってしまい、レース終盤に勝負をかけられなかったことが、平凡な記録で終わってしまった最大の要因だろう。
もちろん、前半の抑えたペースのおかげで後半大きな落ち込みもなく完走できたと言えるかもしれない。

村上春樹で英語を学ぶ

 英語の学習サイトをブラウズしていると、村上春樹の「ノルウェーの森」の英訳本(Jay RubinではなくAlfred Birnbaumの訳)を使って、英語を学ぶというサイトを見つけました。この本のファンならモティベーションを維持しながら勉強できるいい方法だと思った。そこで、「走ることについて語るときに僕の語ること」を座右の書としている私としては、2011年のSpecial Featureとして、"What I talk about when I talk about Running"で「走ることを哲学的にとらえながらも、ランナーの気持ちをかゆい所に手が届くような形で代弁してくれている春樹のランニング論を英語で楽しむ」ページを作ることにした。同時に、"Born to run −a hidden tribe, superathletes, and the greatest race the world has never seen−"という本からの英文も併せて紹介したいと考えている。

What I talk about when I talk about running.
(村上春樹の著書「走ることについて語るときに、 僕の語ること」の読後感を英語で書きました。) 

 I would go so far as to say that this is the runner's bible and so is it to me. I found I had so much in common with Haruki as a city runner, which makes me pleased. I think Haruki has something special in his philosophy of life, but has nothing special in his philosophy of running, for which I repect him all the better.
 He once was a serious runner, claiming to have run every day and 300km a month, which means he ran 10km a day on average. He reached his zenith at the age of 40 when he finished in 3 and a half hours in marathon races several times. I might as well say I have almost the same running history as his.
 What I like most about this book is that he gave the answer to the questions I'd often been asked ー "Why do you run?" "What are you thinking about while running? "
 In this book are the right answers to the questions non-runners are likely to ask, to which I am much obliged.

        AXTOS ランニングクラブ 2010年10月12日(H.22)

 皺やシミが目立ち始めたのを歳のせいではなく、紫外線のせいだと頑なに自分自身に思い込ませ、極力紫外線に当たらないよう心掛け、もっぱらトレッドミルでハツカネズミのように走ったり、屋内プールで泳いでばかりいた。

 きっと、そんなハツカネズミみたいな僕を哀れに思ったのだろう、ジムのスタッフが「一緒に走りましょう」と声を掛けてくれ、週に2度のペースで走るようになった。もちろん、お日様が沈んでからだ。

 というわけで、50代半ばで再び走り始めたのだが、50代後半で再び走り始めた春樹とは似ているようで、その質においてまったく異なる。彼の場合「止むを得ない場合を別にして、一日も休まずに走るという生活を再開してから、…」というレヴェルなのだ。彼に言わせると、「まじめに走る」とは月間走行距離250kmで、「真剣に走る」とは月間走行距離310kmなのだそうだ。つまり、村上春樹の定義では「まじめレヴェル」とは月曜日から土曜日まで毎日10km走って日曜日だけ休養。そして、「真剣レヴェル」とは、月曜日から日曜日まで毎日一日も欠かさずに10km走り続けることなのだ(もちろん、これは押し並べてということであり、実際には5km走った翌日に15km走るということもある)。

 そうなると、僕の走りはさしずめ「お遊びレヴェル」ということになろうか。まあ、それでもとにかく再び走り始めたことには変わりなく、ひょっとしたら、そのうちもしかして、「まじめレヴェル」の域に到達するかもしれないし、フルマラソンを走ることになるかもしれない。そのためには、AXTOSランニングクラブの皆様の後押しが必須条件となるので、そこのところヨロシクお願いします。

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           しまなみ海道100kmウルトラマラソン(2004年)
H.16

 2年がかりで、やっとウルトラマラソンを完走しました。昨年は、80km地点で無念のリタイア。今年こそはと、期するものがありました。が、現実はそれほど甘いものではなく、途中幾度あきらめてしまいそうになったことか。そして、このままのペースでは本当に制限時間内にゴールできなくなりそうな62.6kmの大三島ICエード地点で、カミサマたち(!?)との運命の出会いが私を待っていました。このカミサマたちとの出会いがなければ、私の完走は決してありませんでした。カミサマたちは、目の不自由な2人の選手を伴走されていた「日本100マイルクラブ」の方たちでした。

 エード地点を出発すると、私の前後を彼らが挟むように走り始めたので、彼らのペースで走り続けざるを得ませんでした。彼らは、私を絶えず励まし、勇気づけ続けました。メールにも書かれていますが、それは次のような言葉でした。
 『完走できるかなーでは、完走できません。完走するんだ、という強い想いがないと駄目です。そして、辞める理由をさがしているうちは完走できません。
 脚が痛いから
 もう動けないから
 しんどいから
 70キロ、80キロ走れば、多くの人は、身体のどこかが、痛くなってくるものです。みんな痛いのです。
 完走するための秘訣は辞める理由を一つずつ捨てていく。完走できる理由を一つずつ拾い集めていく。前へ、前へ。立ち止まったらゴールは有り得ないです。歩いてでも這ってでも前へ、前へ。』

 こうして皆さんから掛けていただいた言葉と、目の不自由な二人のランナーのがんばる姿によって、私は走り続ける勇気を得ることができました。大会終了後、カミサマの一人であるWandaさんと交わしたメールを紹介します。

私からクラブ宛
 はじめまして。
 しまなみ海道100kmウルトラマラソンで完走をあきらめかけていた私に、目の不自由なランナーを伴走されていた貴クラブの方々が、声をかけてくださり、叱咤激励をしていただきました。そのおかげで無事時間内に完走することができました。本当にありがとうございました。取り急ぎ、お礼とご報告まで。

Wandaさんから届いたメール
 野上せんせー。Wandaです。といっても、誰じゃ、Wandaって?でしょうね。怪しい者ではありません。しまなみで厳しい言葉を吐いていた生意気な奴です。宮本さん(男性)のメイン伴走をしていた者です。

 さてさて、先生がその後、どうなったのかめっちゃ気になってました。でも、絶対時間内にゴールできる、ゴールしてくれるって信じてました。信じてた通りだったのですね。時間内完走、おめでとうございます。私達と77キロでわかれた大西おじさんとカラヤンから、「野上先生には来島第二大橋で追いついた。」と聞いていたので、絶対大丈夫だと思ってました。

 約束してくれたから。そして、大丈夫って顔にでてたから。でも心配してました。時計もってないっていってたし、貸してあげたらよかったと。ゴール後に、スタッフの誰に渡してもらってもよかったので。Wandaは悪名高いのでスタッフの皆さんには面が割れているんですよ。でも、時計なんかなくても、ちゃんとがんばったんですね。去年の無念を晴らすことができてよかったですね。

 本当におめでとうございます。あのお会いしたときの様子からすると、本当にすばらしいです。おめでとうー。生意気なことをいうようですが、今回100キロを時間内で完走できたことは、マラソンだけでなくいろいろな意味で、大きな自信になると思います。それから、ちょっとだけだけど、伴走もして、それも素晴らしい経験になったと思います。

 今度はどこの大会を走られるかわかりませんが、また、長い距離を走られることがあれば是非、頑張ってください。完走できるかなー、では、完走できません。完走するんだ、という強い思いがないと駄目です。そして、辞める理由をさがしているうちは完走できません。脚が痛いから、もう動けないから、、、しんどいから、、、70キロ、80キロ走れば、多くの人は、身体のどこかが、痛くなってくるものです。みんな痛いのです。

 完走するための秘訣は辞める理由を一つずつ捨てていく。or完走できる理由を一つずつ拾い集めていく。前へ、前へ。立ち止まったらゴールは有り得ないです。歩いてでも這ってでも前へ、前へ。です。そして、今度、どこかの大会で弱っている人をみかけたら、声をかけて、がんばりましょう、といって、励ましてあげてくださいね。

 伴走者と視覚障害者をみかけたら、直接伴走はしなくても、声をかけてあげたりしてください。人の多い危険なところでは、前後を一緒に走って、人払いしてもらえるだけでもかなり助かるのです。
 −中略ー
 おめでとーとありがとーが言いたかったのですが、なんだか、くだらないことを沢山、かいてすみません。では、また、どこかの大会でお会いできるのを楽しみにしています。

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         マラソン、どうして?(2000年) H.12

 今年も恒例の24時間テレビがあった。最近では似たような番組が多くなってしまい、どれが元祖か分からない。まあ、分からなくてもいいのだが、番組の中で芸能人を100キロ近く(あるいはそれ以上)走らせる企画がある。今年は85キロということだったが、それでもフルマラソンの倍はある。それに耐えうるような練習もせず、ほとんど歩いている状態で、何十人ものサポーターを従え、50分置きにマッサージ、テーピング、水分や食糧の補給。さらに、痛み止めの投与。今回は初の女性ランナーということだったが、頭髪を白く染めていたせいもあり、まるで老人介護の実況中継を見ているようで痛々しかった。

 せめて100キロ完走するためのトレーニングを積んでおいて欲しいと思う。結果として、「当日の体調が思わしくなく、ほとんど歩いてしまった」というのは仕方ない。賞賛こそすれ、誰も責めはしない。しかし、ろくにトレーニングもしていない人間の苦しむ様子を映されても、その映像からは何も伝わってこないのではないか。今回の場合、『芸能人という忙しい仕事を抱えながらも、本人が努力して時間を見つけトレーニングに励んできたので、その練習姿も合わせて観てもらいたい』といったような企画にした方が、視聴者にはよっぽどアピールするし、多くの市民ランナーの共感も得られると思うのだが。皆さんは、あの映像から何かを感じ取ったのでしょうか。

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                  再びちょっとだけ、オリンピック(2000年)H.12          
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 シドニーオリンピックで柔道の篠原選手が銀メダルに終わった試合の後、NHKの有働アナが見せた表情と態度はもうこれ以上の対応の仕方は無いと思われるほど、立派で適切なものだったと痛く感心しました。

  目に浮かべた涙も、何かをじっと思いつめたような表情も、 あれ以上であっても、あれ以下であってもだめだったと思います。 アナウンサーらしく個人的なコメントは控えていましたが、彼女の表情がすべての日本人の気持ちを代弁していたように思います。シドニーからの映像が終わった後、画面は彼女の表情に切り替わりました。何かを思いつめたように、黙ってじっとモニターを見つめていました。少し間があってからニュースを読み始めました。

 努めて冷静を装っていたものの、その眼には涙が浮かんでいました。 その涙を見せまいと顔をややうつむきかげんにしていましたが、声はしっかりしていました。私は彼女の姿を見て、「篠原選手は報われた」などと勝手に思い込んでしまったほどでした。少なくとも、私には篠原選手がうらやましく思われました。その後テレビで、多くの人があの判定についていろいろとコメントしているのを耳にしましたが、なぜか彼女ほどの説得力は感じられませんでした。きっと、本当に訴えたい気持ちというのは、言葉など必要としないのだと思います。


 This is not about the Olympic Games itself but about an NHK anchor woman, Ms. Udo, who showed a somewhat painful expression after the controversial bout in Judo. I was extremely moved by her attitude as an anchor. Struggling to hold back the tears, the fixed expression in her eyes at the scene left nothing to be desired. Her attitude succinctly represented the feelings of many Japanese. She gazed at the monitor for a short while and then began reading the script. She tried to look as calm as ever but I saw a look of pain coming to her. She was reading with her head somewhat drooped in order to hold back her tears.
  Though Mr.Shinohara lost the bout, I was very envious of him as he had someone whom he could share his feelings with. I think true feelings can be conveyed without words.


追補(10月15日)
  先日の新聞に、声を詰まらせたことについて有働アナ自身のコメントが載っていたので紹介します。

「直前の合宿まで取材し、この大会にかける篠原選手の気持ちを知っていただけに、思わず感情が出てしまった。『 冷静に伝えよう』と決めていたのにキャスターとして失格です。」 

 本人が述べているように、確かに「キャスターとして」は失格だという人もいるかもしれませんが、 あの場面で淡々と報道するのがキャスターとして絶対的に要求される使命だとしたら、ニュースなど人間が伝える必要はないと思います。 こういう時代なのですから、コンピュータに原稿を読み取らせ、音声化したほうが間違いもなく感情の起伏もなく読めます。人が伝える必要性があるのなら、有働さん、やはりあの場面はあれで、◎だったのです。


                          オリンピック考 (2000年)          

 今はシドニーオリンピック中ですが、競技の多さについてよく考えます。もともとは、「より速く、より高く、より遠くへ」 を競い合うものだったと思うんです。それに、「より強く」が付け加えられ、さらにいつの間にか「より美しく」まで。最近では、何でもありの様相を呈しています。(冬季オリンピックも然り。) それともうひとつ思うんですが、例えば水泳など、泳ぎ方は何でもいいから、一番速い人を選んだのでいいのではないでしょうか。 あまりにも種目が多すぎはしませんか。100m、200m、400m,800m,1500mと異なる距離があるのはいいとしても、200mの金メダリストが何人いると思います?自由形、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ、個人メドレーの5人もいるのです。200mを世界で一番速く泳ぐ人は1人でいいと思います。バタフライなど普段プールでは泳ぎませんし、もし一般のプールで泳がれたら迷惑でしょうね。また、平泳ぎは水に対して抵抗を大きく作り前に進みにくい泳ぎ方なのに、なぜスピードを競うんでしょうか。あれは、長時間泳ぐのに適した泳ぎ方だと思うのですが。このような泳ぎ方は、陸上競技で例えるならば、後ろ向きに走ったり、両足をそろえてジャンプしながら走って速さを競っているようなもので、滑稽としか言いようがありません。こんなこと思うのは、私一人でしょうか。(陸上にも競歩とか障害走、ハードルというのがありますが・・・。)

 言葉足らずのところがあり誤解を招きそうですが、オリンピックも規模があまりに大きくなりすぎ、そのあり方を再考する時期に来ているのかなと思いましたので。

            The Olympiad −English Versionー
 The Olympic Games in Sydney is now taking place. Here let me consider some problems involved in the Olympics. Don't you ever think that there are too many events ? Originally people competed to become "fastest, highest, fartherest." In the meantime, "Strongest, most beautiful" was included and there are an exceedingly wide range of events in the summer Olympics as well as in the winter ones.

 Take swimming for instance. Do you know how many gold medalists there are in 200m race? Five: freestyle, breathstroke, backstroke, butterfly and individual medley. I can't see why we need five different events for just the 200m. On top of that, when do you swim in butterfly stroke?

 Why do you dare to compete in breath stroke for speed? Isn't it just for a long distance?
 The same can hold true of "Track and Field."

 I think we should remember the original purpose and significance of this world-wide festival here again as it has over-extended itself.

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               小豆島タートルマラソン              

 重信川を渡る風にも秋の気配を感じるようになり、ずいぶんと走りやすくなってきました。 8月の強烈な日差しの中で走っていると、さすがに「これは体によくないかも」と思うこともありましたが、 やっと爽やかな気持ちで走れる季節になりました。

 先日、通っているスポーツクラブで小豆島タートルマラソン参加者を募っていたので申し込もうかなと思っています。5年ぶりの参加になるでしょうか。これまで、夏場は体力の回復を目的に5kmを1km/分のペースでゆっくり走っていましたが、 これからはマラソンに向けて、距離をのばしていかねばなりません。今日は、 ゆっくり10kmほど走るつもりでいつもの重信川沿いのコースへでましたが、 やはり25分ほどで立ち止まってしまいました。距離にして5km少しのところ。 どうも5kmでひとつの壁ができてしまったようです。 21日には伊予市の大谷池から砥部の七折れ(約25km)を走ることになっています。 何人かと一緒に走るのでなんとか引っ張ってもらおうと思っています。走れないのが、 「体力的な問題なのか、気力の問題なのか」を知るには良い機会です。気力の問題であってほしいなあ。

追補 
  楽しみにしていた小豆島マラソン、残念ながら都合で参加できなくなりました。マラソン復帰は、来シーズンになりそうです。

Heading For Marathon

 6年前の水不足を彷彿させるようなこの猛暑の中、コンスタントに走り続けている。(と言っても5kmほどで、炎天下の中これ以上走ると健康に悪いような気がする。夏は夜走るのが良いが、適当なコースがなくて・・・)

 ここ2年ほど駅伝中心の練習をしていて、愛媛マラソンも2年間ほど休んでいる。マラソンそのものは、宮崎の青島太平洋マラソンや小豆島の方がはるかに楽しいが、地元で気軽に参加できるという理由で愛媛マラソンによく参加した。余裕があれば、また宮崎に行きたいとは思っているが。いずれにせよ、9月に入れば本格的な走り込みをして、フルを完走できるよう体を作っていきたい。

 ところで、私が良く練習に使っているコースに、重信川の河川敷のサイクリングコースがある。アスファルトのコースと草が短く刈り取られた土のコースとがあり、その時の気分で併用しながら走る。基本的には、脚にやさしい土の方を極力使っている。また、小サギや青サギをはじめとする水鳥もよく見かけ、普段はとても気持ちよく走れるのだが、先日橋脚付近でゴミがやたら散らかっていた。どうやら、花火や宴会をしてそのままにしてあるようだ。あまりにひどいので、後日片づけたが、特大のビニール袋3つ分のゴミが集まった。いつも走らせてもらっているので、少しはお返しができたかなという気持ちだった。が、次の日行ってみると、また花火や空き缶が。確かに、住宅街でやるよりは、近所迷惑にもならず、場所的にはOKなのだが・・・。
 どうか、明日はゴミがありませんように。


Here again ・・・

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 Encouraged by a lot of people, I've got started sending my messages to you again. I've come to understand the true meaning of the lesson, "What really matters is invisible." It was not until quite recently that I could understand it. It would be my motto for the rest of my life. I will try to see things invisible and turn my eyes to the things I've not tried seeing so far.
 Last but not least, I would like to express my hearty thanks to those who have supported me.


2000年冬 シーズン後半スタート

  「『Y2K』はいったい何だったんだ?」と愚痴の一つもこぼしたくなるくらい何事もなく迎えたMILLENNIUM。元々大した問題でなかったのに大騒ぎしただけなのか、それとも巨費を投じて対策を十分講じていたから平穏無事にミレニアムを迎えられたのか?どちらにしても、Y2Kのおかげでうまくお金をもうけてほくそ笑んでいる人がいるのは確かなようです。
 そんなミレニアム・イヤーの最初を飾る地元駅伝競争大会に、職員が2チーム出場しました。 この大会に職員が出場するのは、実に7年ぶりのことです。2チーム出場ということで、 直前まで選手集めに苦労しましたが、本校最高齢の K.I. さんや昨年末に小豆島でフルを走り、足の故障が十分に癒えていない Y.I. さんらが無理を押して出場してくださり、なんとか本番当日を迎えることができました。 >

   Aチーム 二部で優勝し、なんとも立派なトロフィーをいただきました。
   Bチーム 二部で繰り上げスタートすることなく、最後の走者まで無事タスキをつなぐことができました。

 選手の皆さんご苦労様でした。そして様々な形でサポートしてくださった皆さん、ありがとうございました。また、来年も、地元で沿道からの声援を受けながら走りましょう。また、高校生も是非小・中学生にならい、部活動チームを編成して出場し大会を盛り上げてもらいたいものです。高校は、地元で唯一の高校なのですから。
 余談ですが、実は長男の大樹(ダイキ)も中学校のサッカーチームで出場しており、同じ一区で4.46kmを走りました。スタート前はやはり心配で様子をうかがっていたりしていましたが、一旦走り出すともう自分のことで精一杯。我が子のことなど気にしておれませんでした。タスキを渡した後ようやく大樹のことを思い出し振り返ると、そこそこの走りでタスキをつないだので一安心。
 昨年は、長女の彩(サヤカ)が中学校のバレーボールチームで走りましたが、女子は別コースなので一緒のレースを走ったという感覚があまりありませんでした。今年の長男の場合は、まったく「同じ区間」を、それも号砲を合図に「同時スタート」だったので、「走った」という気持ちを共有することができたのか、帰宅後記録表を見ながら、レースの話をずっとしていました。
 
  寒日和 我が子と競う たすきリレー 
  
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1999冬 シーズン前半を振り返って

 布団の中でゆっくりできる正月休みも終わり、今日からはいつもと変わらぬ生活が始まった。 年末年始はゆっくりできたこともあり、そろそろ今日のような生活リズムを、自分の躰が求めていたような気がする。 ところで、私にとっての駅伝シーズンは、丁度半分終わった。後は、宇和町駅伝と3月の愛媛県クラブ駅伝の二つとなった。 そこで、今シーズンのこれまでの大会を振り返ってみたい。

 まず、11月3日の中山町のマロン駅伝で、第5区4.1kmを15' 40"で走った。次に、11月28日に開かれた佐田岬メロディーラ イン駅伝では、宇和体協のBチームで出場し、第5区を5.847kmを19' 42”で走り、区間11位。チームは、7位だった。

 そして、12月5日。昨年まで優勝候補と言われながら、私がチームの足をひっぱり惜しくも2年連続2位に甘んじていた 「宇和町文化の里駅伝競争大会」が、県下各地から40歳以上の健脚を集め、小雨模様の中開催された。2年前は、3kmを11' 45"、一昨年は、5kmを19' 30"もかかってしまい、ほとんど手中にしていた優勝旗を逃してしまった苦い思い出がある。 確か、私以外のメンバーは、ほとんどが区間賞を取っていたように思う。だから、 私は昨年(1999年)はメンバーに選ばれないと覚悟を決めていたのだが、宇和体協の細川監督をはじめ、体協の人たちが、 「野上に名誉挽回のチャンスをもう一度与えてやろう」ということでメンバーに選んでくださった。だから、 今度は絶対失敗は許されないというプレッシャーはあったものの、昨シーズン最後のレースとなった広見町での県クラブ駅伝で、 3kmを自己ベストの10' 30"で走ったときの感触を躰が覚えていたので、「変な走りさえしなければ、あとのメンバーがきっと優勝に導いてくれる」 と自分に言い聞かせていた。

 いざレースが始まると、予想通り1区の仲木さんからトップでタスキがつながれ、2区大塚さん、 3区二宮さんと一度も首位の座を明け渡すことなく、ついに私の出番となった。過去2年間の教訓から、 出だしの1kmは3' 40"で入り、折り返してから2位との差を確認しながら、スピードアップを図ることにした。 タスキを受け取ったときの2位との差は、約20秒。少し焦る気持ちもあったが、 前半は遅すぎると思われるくらい抑えて走ることができた。案の定後ろからは、追い上げてくるランナーの気配を感じたが、 「たとえ追いつかれても、これだけ余裕があれば後半引き離すことができる」と何度も言い聞かせて走った。 折り返し点手前約200mの緩やかな下り坂を利用して、一気にスピードを上げた。前半抑えていたおかげで足が軽く、 スピードに乗って軽快に走ることができた。折り返し地点で2位との差を確認すると、思ったほど差は詰まっておらず、 「これなら、後半のスパートでかなり引き離せる」と確信した。

 結果、3kmを10' 34"で走り、2位との差を詰められることなく最終区の安田さんにタスキを渡し、なんとか責任を果たした。 2年分の借りをやっと返せた思いだった。閉会式では、思いがけず区間賞を、そして閉会式後の豪華お楽しみ抽選会では、 地元の銘酒をいただいた。当日野本さん宅で開かれた優勝祝賀会で、町長をお迎えし、 全員で吟醸酒「開明」をおいしく飲んだのは言うまでもない。

 そして、昨年の最後を飾ったのは、郡駅伝競走大会だった。この大会では、地元体協A、Bが、それぞれ1部、2部で優勝した。 私は、2区の3kmを10' 39"で走った。

 今年、2000年の抱負としては、なんと言っても3月に中山町で予定されている県クラブ駅伝で、10' 00"を切る走りをすることだ。おそらく「3kmを10' 00"で」というのは、目標として存在するだけで、達成は無理だと思う。無理は承知でやってみようとする。これは、 中年男の最後のあがきなのです。

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High School 10k road race

 It was occasionally snowing and windy, but still it was fun to run with my students. I thought I could share the same feeling of satisfaction with them after running. On my right is Sato kun, a guest runner from Deaf School for today's race. He took some lessons at my school, such as Engish, mathmatics, art, science and P.E. We invited him to this race, wishing that he could enjoy the race.
  He reached the goal third and I came in eighth. He seemed to have a good time running and chatting with our students. This spring he will be a college student and I hope he will enjoy his college life.

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日高さんからの手紙 (1999年)

 青島太平洋マラソンで伴走させていただいた日高さんよりパソコンで書かれた手紙を受け取りました。 内容は、伴走へのお礼と私がお願いしていた質問に対する答えです。不躾な質問もあり、日高さんには失礼 だったかもしれませんが、快く返事をくださったことに対しこの場を借りてお礼申し上げます。

 私から日高さんへの手紙と日高さんからの手紙を紹介します。みなさんは、日高さんの手紙を読まれて どんなことを感じられたでしょうか。

 私から日高さんへの手紙

 拝啓、ご無沙汰しています。その後、お変わりありませんか。大会当日は、いかほどのお役にも立てませず、却って奥さんにいろいろと気を遣っていただいたり、大会後すぐにお礼の電話をいただき、恐縮いたしました。

 伴走は初めての経験でしたが、日高さんやベテランの伴走者である松元さんのおかげで無事走りきることができほっとしています。また、日高さんと、走る練習のことなどいろいろとお話しできたことが楽しい思い出となっています。来年は、この大会のフルに挑戦してみようかとも考えています。

 今日、大会事務局から完走証が送られてきました。優勝した日高さんの名前とともに私の名前も入っているので感無量です。それから、遅くなりましたが、当日の写真を送ります。日高さんはご覧になれないと思いますが、家族の方や将来お孫さんができた時に、「おじいちゃんが若いときにがんばった写真だ。」と見せてあげてください。

 それから、最後にお願いなんですが、今回の伴走の経験をこれで終わりにするのではなく、私が教えている生徒たちとも分かち合いたいと考えています。そこで、次のことについてお返事いただければ幸いです。

 1 視力が低下してだんだん見えなくなられたときに、どのようなことを考えられたか、また、「これだけはしっかり見ておきたい」と思ったものについて。(英語の教科書で、ヘレンケラーが書いた教材に、「3日間だけ、視力が回復するとしたら」という文章があります。日高さんなら、どのようなものを目に焼き付けておきたいかを教えていただけたらと思います。)

 2 ワープロやコンピュータは盲人の方にとって便利なものなのでしょうか。

 3 これまでに参加したレースや今大会について。(大会のあり方や伴走について)
 
 年末のお忙しいときにご迷惑でしょうが、よろしくお願いします。それでは、よいお年を。 
                                                                               敬具 

日高さんからのお返事
(日高さんからの手紙は、パソコンで打たれていました。)
 
 拝啓、厳寒の候、お変わりなくお過ごしのこととお喜び申し上げます。先だっての青島太平洋マラソンにおいては遠いところからお出掛けいただき誠にありがとうございました。また、大会においては、何かとお心配りいただき感謝しております。1q毎のラップタイムを知らせていただいたり、走路の確保をしていただいたりとありがとうございました。おかげさまで目標としたタイムで完走することができました。それから、写真ありがとうございました。
 さて、ご質問の件ですが、趣旨に十分応えることができるかどうかわかりませんが。

1 今、視力が戻れば・・・  中学2年生の頃から視力が落ち始め、その後盲学校に入学しました。盲学校に在学中の5年間は、柔道と足腰を鍛えるためによく走りました。その当時はまだ弱視といったところで一人で走っていました。完全に視力を失ったのは28歳過ぎでした。今、視力が戻るとしたら、子供の顔が見たい。(日高さんは現在49歳なのですが、二人のお子さんは息子さんが小学校の高学年、娘さんが中学生といったところなので、おそらくお子さんの顔は一度も見たことがないと思われます。)

2 パソコンは盲人にとって便利なものなのでしょうか。  少なくとも私にとって、パソコンが使えるようになったことが、なによりも文明の利器の恩恵を受けていることになります。10年ほど前からパソコンを始めてみましたら、実用的で重宝しています。しかし、パソコンもウインドウズが主流となってきて
音声が十分に対応していないので今ではノート代わり程度しか使っておりません。

3 これまで参加したレースや大会について。  全日本視覚障害者柔道選手権というのがありまして、毎年講道館で開催されます。私は、71s級で3回優勝しました。 国際試合にも、アメリカと北京に日本代表として出場しました。海外に出たのはその2回でしたが、 つくづく語学力の無いのに情けない思いをし、また、残念にも思いました。

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Running with you - part 2 -(1998年)

スタート前
  左から、もう一人の伴走者松元さん、私、日高さん
ラストスパート
         ゴール直前のラストスパート 
表彰式
日高さんは、自己記録更新で見事優勝!
出席できなかった日高さんの代わりに賞状を受け取る
松元さんと拍手を送る私
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 1998年
 初めて盲人マラソンに伴走者として参加した時の気持ちを忘れぬよう、その想いを一編の詩に託してみました。一見、盲人の立場に立って書いた詩のようですが、実は私自身の気持ちを読んだものです。
 今回、目の不自由な日高さんの伴走をして、「目が見えるから、見えないもの」もあり、「目が見えないから、見えるもの」もあるのだと感じました。伴走をとおして、私がこれまで見えなかったもの、見ようとしなかったものが少し見えてきたのは確かです。

第12回青島太平洋マラソン国際盲人マラソンの部に伴走者として参加して

昨日までの僕
自分一人で生きてきたつもりだった
誰も頼らない
誰も信じられない
人の心さえも見えなくなっていた

今日からの僕
君が教えてくれた
心構えずにあるがまま
自分らしく生きることの喜びを
人を頼り人を信じることでしか
見えない世界もあることを

君と一緒なら
なにも恐れない
君の声を信じられるから
闇の中でも走ってゆける

一本の細いロープを伝わる
君の手のぬくもり感じながら
潮風の中
僕は今風になる
I am running with you


Melody Line Ekiden ( Relay Race ): Misaki Peninsula '98

Results    Team A won 1st prize  Time: 2 hours 11min. 41sec.
      Team B won 6th prize  Time: 2 hours 30min. 36sec.

        ( I was a member of team B )

 It was clear and a lovely cool breeze was blowing, so the weather was almost perfect for a picnic, unfortunately however, it was a bit too hot for running. I was able to see the fantastic shapes of distant islands and the clear distant horizon. I enjoyed the beautiful scenery of both the Seto Inland Sea and the Uwa Sea. Their surfaces were as calm as that of a mirror. Owing to the soft sunshine in autumn, I felt comfortable while awaiting the time to run.


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Running with you(1998年)

 盲導犬  a blind runner with a seeing eye                     
  I am going to visit Miyazaki Prefecture next month to participate in a 10km race. This race will be a special one for me, partly because it is the first time to run in Miyazaki, but mainly because it is the race for the blind.
 Until I turned forty, I had been running just for myself. Then I thought of volunteering. I asked myself if there was anything I could do for others. One of my acquaintances told me about running with a blind person. Running is one of my hobbies and just by running I can support a person in need of help. I thought it was a really great idea, so about a year ago I made up my mind to take part in " the Aoshima Taiheiyo Marathon."
  In order to get information on this race, I sent email to the Municipal Office of Miyazaki city. Iwasa-san, one of the staff, was kind enough to let me know how to apply for the race and send me the forms to fill out. We have exchanged emails several times. Kai-san is another staff member who has also helped me a lot. I was glad to get to know them.
  Now I have some brochures on running with blind people and they have a lot of useful information. If you are interested in running with a blind person, you may be interested in these brochures.
I will write more after the race.

How to run
with the blind
Use a ring of rope 1 meter long. Hold the other end of it. When crowded, shorten the rope.
Position Running side by side or a little behind the blind person. Be careful not to run ahead of him/her.
Course Let a blind person know about 10 meters before ups and downs, curves and steps.
As for curves, let the blind person know by saying, "curve in the direction of 2 o'clock."
For safety sake When there is any danger or obstacle, pace down and shorten the rope.
Miscellaneous If possible, describe the scenery and cheering people along the course so that the blind person can enjoy running even more.
Reference "The Guidebook for Running with the blind"


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            私の愛媛マラソン (年賀状編) (1999年)
 
 
私がマラソンを続けるのにはいくつかの理由がありますが、その一つに年賀状代わりにというのがあります。 年賀状がマラソンとどういう関係があるのかといぶかしく思う向きもあると思いますが、次のような理由です。

 私は年賀状なるものを書くのがどうも苦手で(断っておきますが、文章や手紙などを書くのはそうでもない) がんばっても20枚位が限界で、「なぜこの年末の忙しい折にこんなものを書かねばならないのだろう。」などと考え始めたらもうおしまい。 一向に筆が進まなくなります。だからといって出さなければ礼を欠くことになる諸先輩方、先生方もおられるしで、 年末になると賀状を書かなくてもよい妙案は無いものかと思案していた。そして、 愛媛マラソンに出場し始めて多くの人から励ましの言葉をかけていただいたり、 新聞の完走者氏名をご覧になり電話をいただいたりするようになったことにヒントを得て、思いついたことがありました。

 それは、「毎年2月にある愛媛マラソンに出場し完走していれば、 年賀状を出さなくとも県内の知人には愛媛新聞を通じて今年も野上は健在だと知ってもらえる」ということでしだ。 自分の好きな「走る」ことで、新聞というマスメディアをとおして、「みなさん、今年も私は元気です。」 と伝えることができるのです。われながらグッド・アイデアだと思わず指パッチンをしてしまいました。 そして、ある年の賀状に新年の挨拶の後、「来年からは愛媛マラソンが私の年賀状です。」という一文を書き加えたのでした。

 こんな不純な動機(これがすべてではありません)を胸に秘め、今年も私は愛媛マラソンにエントリーしたのでした。


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町駅伝  (平成9年1月12日)

 これまでに紹介した文章を読んでもらって、おわかりのように、わたしは走るのが好きです。フルマラソン10回以上出場しているわたしですが、実は、駅伝には出場したことがなかったのです。もちろんこれまでに声を掛けていただいたことはあったのですが、体調やマラソンとの兼ね合いという理由で断ってきました。しかし、考えてみるにどうも無意識のうちに駅伝を敬遠していたような気がします。おそらく、駅伝で渡すあのタスキのせいだと思います。

 皆さんの記憶にもまだ新しいことと思いますが、平成8年の正月に行われた箱根駅伝で、二つの大学の選手が体調を崩し、もう走るどころか、これ以上はとても歩けもしない状態であるのに一歩一歩足を前に出し続けた場面がテレビに映し出されました。わたしもテレビの前で、「もう十分やったんだ。足を止め、その場に倒れてこんだとしてもだれも君のことを責めたりはしない。」もうろうとした意識の中で、彼らは右に左によろけながらも少しでも前へ進もうとする。

 彼らの気力を支えているもの、それがあのタスキなのです。走るメンバーだけでなく、選手に選ばれなかったチームメイトの思いがすべて詰まっているタスキ。そんな重苦しいものを抱え込んで走るのはごめんだ。そんな気持ちがわたしを駅伝から遠ざけていたのだと思います。

 先日、わたしの住んでいる地元のKさんから「職場で出ないのであれば、うちのチームから出てほしい。」と頼まれました。
 これまで同様、「皆さん速いんでしょう。ご迷惑をおかけしますから。」と丁重にお断りすると、
 「先生、そんなにがんばらんでええです。うちのチームは飛び抜けたのはいませんから、まあぼちぼち走ってくださいや。」と言われた。不思議なもので、この一言で気が楽になり、それなら一度走ってみようかという気になった。

 「一生懸命がんばれ」も人を鍛え、育てる言葉かもしれないが、「そんなにがんばらんでもええです。」という言葉もまた、人を動かす言葉なのかもしれないと考えさせられた。

追加:平成9年1月19日(日)
 初めての駅伝が終わった。走っている間、自分のペースが速いのか遅いのか分からなくなった。 中継地点からずっと前を走るランナーとの差は、いっこうに縮まらなくて、後ろから迫ってくるランナーの足音がひたひたと迫ってくるのが聞こえる。「前半は、とにかくオーバーペースにならないよう押さえて走る。」と何度も自分に言い聞かせる。ところが、あと1kmのところでスピードを上げようとしたが思うようにギアチェンジできない。こまった。前を走るランナーにはとても追いつけそうにないから、せめて今のペースを維持し、抜かれないようにしなければ。

 4区との中継地点である体育館前からちょうど宇和川を挟んで反対岸にある鉄橋の下をくぐり抜けると王子橋がある。鉄橋を抜けて、前方を見やると、先をゆくランナーが王子橋にさしかかったところだった。後ろ姿が心なしか、苦しそうで、ペースが落ちている。

 「いける。」と思ったそのとたん、現金なもので、トップギアに入った。他人が苦しんでいるのを見て、勇気が湧くのである。残り、200mほどはがむしゃらに走った。手と足をなりふりかまわず動かした。これ以上ない不格好なフォームで走ったに違いない。

 そのぶざまなあがきのおかげで、何とか前をゆくランナーに追いつくことができた。おまけに、区間賞をいただき、区間記録まで更新できた。

 第28回宇和町駅伝競走大会
 宇和陸愛クラブAの記録

 1区 4.46km 二宮 16'11" (4位)   2区 2.42km 網干 8'08"(1位)  
 3区 2.23km 野上 7'57"(1位)  4区 4.46km 笹井 15'38"(1位) 
 5区 2.42km 松浦 8'55"(2位)  6区 2.23km 片山 8'04"(1位)

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楽しんで走ろうよ、ラスト195mは(平成9年1月17日)
ーFor marathon runnersー

 マラソンはなぜ42.195kmか。もっともよく知られている説は、マラトン村からアテネまで走り通して戦勝を告げたギリシャ兵士の故事にちなんだもので、その兵士の走った距離が42.195kmだったというのだ。他にも歴史的な説や根拠もいくつかあろうとは思うが、なぜ42kmではなく42.195kmなのか。最後の195mはいったいなんのためにあるのか。なかなか納得のゆく答えが見つけられなかったが、シンガー・ソングライターでかつジョギング愛好家である高石ともや氏がその著書「気分はいつもトライアスロン」の中で、京都マラソン完走後に「その理由が分かった」と次のように述べている。

 「やっと分かった、マラソンがなぜ42.195kmなのかということが。この195m はゆっくりと味わうためにあったのだ。苦しさと闘いつづける道のりが42kmであって残りの195mは最後の感動を味わう花道なのだ。勝負師のゴールは一瞬でいいのだが、ぼくのような趣味のマラソンランナーにとっては余韻がなくてはならない。いや、余韻がすべてといってもいい。ゴールのテープの幅が195mなのだ。・・・」

 195mという中途半端な距離の存在を説明するのにこれほどしゃれた、それでいて説得力のある言葉を他に知らない。氏自身、数多くのフルマラソンやトライアスロンの大会に出場され、好成績を残されているだけにその言葉には重みを感じる。氏の言うとおり、 42kmまではわき目もふらずただひたすらゴールをめざして走り続ける。他のランナーとの、そして、自分自身との闘いに打ち勝つべくひたすら走り続ける。

 ゴールの見える残りの195mは、高石ともや氏が説くようにゴールのテープの幅だと考えて、大いに楽しみながら走ってみてはどうだろう。沿道から送られるあたたかい声援にこたえながら、ともに走り続けたランナーたちとお互いの健闘をたたえ合いながら走るのもいい。ゴールでのフィニッシュはどんなポーズで決めようかと考えながらというのも愉快だ。

 「最後は楽しみながら走ってみては」と皆さんに勧めてはいるものの、正直なところわたし自身とてもそんな境地に達することはできない。フルマラソンはこれまで10回近く走っているが、いまでもあのラスト195mはマラソンランナーを苦しめるためだけにあると思っている。というのも、走りながら周りを見る余裕などまったくと言っていい程なく、最後はいつもよれよれになって、ゴールしているからだ。特に、愛媛マラソンでは、ゴール前に情け容赦のない上り坂が続き、身も心もぼろぼろの状態でゴールに倒れ込んでいる。

 今年も、おそらく汗と埃にまみれ、口からはよだれを垂らしながら走っていることだろう。ただ、どんなに傲慢な気持ちでマラソンに臨もうとも走り終えた後はいつもふしぎと謙虚な気持ちになっている自分を見いだす。わたしにとって、 42.195kmというのは、そんな気持ちにさせてくれる距離なのだ。だから、ゴールインした時に、 走りとおした自分の体をねぎらってやることと、そんな体を与えてくれた親に感謝する気持ちだけは忘れない。

 Note
  According to Greek legend a soldier named Pheidippides started a marathon all in the year 490 B.C. Greece was at war with Persia. The Persian army had invaded Marathon. Pheidippides, an Olympic champion runner, was ordered to carry an important message to Athens. He ran all the way from Marathon to Athens. It was about twenty-five miles away. On his arrival he gasped, "Rejoice, we win!" before dropping down dead in the town center.

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O先生のやさしさ

 体育を教えているO先生は、わたしが以前勤めていたC高校でランニング仲間と呼べるただ一人の先輩教師である。一般に、体育教師は皆走るのが得意であると思われがちであるが、案外そうでもない。むしろ、単に走るだけの競技であるマラソンなどは敬遠されるのである。

 O先生は、聞くところによると高校時代には甲子園をめざした野球少年であり、教師になってからもスキーの国体選手であったりとスポーツ万能選手である。そのO先生が知人に勧められてはじめて挑戦したのが毎年11月の第4日曜日に開かれる小豆島のタートルマラソンであり、偶然にもわたしにとってもマラソン初挑戦の大会であった。このマラソンへの出場をきっかけとして、以来我々はマラソンの虜となり、ジョギング仲間となったのである。

 もともと、短距離を得意とするO先生は、やや前傾姿勢を保ち、後ろ足を蹴り上げ、体を小気味よく上下させながらもスピードを生かした走法で、どんどん記録を伸ばしており、市民ランナーの目標であるサブスリーとなる日もそう遠くないであろう。

 ある時、O先生と二人で先生宅をスタート・ゴールとする30kmほどのLSDの練習をしたことがあった。快調に走るO先生にくらべ、日頃の練習不足がたたり、わたしは20kmを過ぎた頃から、空腹で背中とおなかくっつきそうになり、情けないことにとうとう歩き出す始末。我ながら情けないやら、腹立たしいやらで涙が出そうになった。それでも、力をふりしぼって走り出したが、1km走ってはまた歩くといった状態の繰り返し。その間、O先生はスピードを落として一緒に走ったり、ふり返り励ましの声を掛けてくれたりしていたが、そのうち先に走っていき、その姿が見えなくなってしまった。

 あと5kmほどでO先生宅である。不謹慎にも心の中で、「ひょっとしたら、先にゴールして車で迎えに来てくれるのかも。」などと思った。そう思ったとたん全身の力が抜け、石手川沿いの土手に座り込んで、草むらの上に仰向けになって寝てしまった。

 「ああ、なんと心地のよいことか。」としばし夢見心地でいた。気がついて時計を見ると、30分ほど経っていた。「O先生は?」と、遠くの方を見やると、こちらに向かって土手を走ってくる人影がある。O先生である。聞いてみると、わたしがうたた寝している間もずっと行ったり来たりしていてくれたそうだ。そして、わたしが起きたのをみると、恨み言一つも言わず、「野上さん、さあ、行こうぜ。」である。

 わたしの抱いたはかない期待はみごとに裏切られたものの、ふたたび走りはじめ、なんとかO先生宅までたどり着くことができた。

 手をさしのべて助けるのもやさしさ。ただじっと見守るのもまたやさしさ。マラソンランナーには、後者のやさしさの方がありがたい。

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                 "HAIKU " poems     2000年7月1日

 今朝、玄関先の朝顔が鮮やかな濃紺の花を2つ咲かせていました。思わず、その色の深味に目を奪われていましたが、 よく見ると蔓の根本に枯れてしぼんでしまった花が一つ落ちていました。

 朝顔の 一花朽ちて 2輪咲く
 I found two the morning glory blossoms out letting one gone. 

2000年1月16日
 地元町で駅伝大会があり、中学生の長男と一緒に一区4.46kmを走りました。なんとか父親の面目は保てたようです。

 寒日和 我が子と競う タスキリレー

2000年1月10日 
 どうせ迷信だと思いつつも、大吉などを引き当ててしまうと、つい一人ほくそ笑んでしまうのは私一人でしょうか・・・。
 初詣 大吉引いて 去年忘れ
 初詣 我のことのみ参りしを 君が柏手 パンと響けり

 夕方には、成人式を終えた卒業生たちが遊びに来ましたが、皆艶やかな振り袖姿で華やいで見えました。ほんとに月日の経つのは早いものだと思った。       
 成人式 故郷彩る 錦帯

1999年12月26日
 先日かなりの雪が降りましたが、3日ほどで天候も回復し、白銀の別世界も雪解けと共に、見慣れた日常を取り戻しつつあった。そんなとき、国道56号線を大洲に向かって車を走らせていると、前をゆく車のタイヤがあげる飛沫の中に、なんともかわいい虹が生また。その虹は、峠にさしかかるまでずっと私の目を楽しませてくれた。雪解けあとの路上は、とても汚れていてあまり好きではないが、大きさにして30cmほどの小さな虹 ―それも私のためだけの虹 のおかげで、なんだか得した気分になった。そこで、一句。
雪解けの 路上を走る  レインボウ

追記:あとで歳時記を調べてみると、「雪解け」は春の季語なので、 本来は12月に詠んだこの句には使ってはいけないのでしょうね。どなたか、雪解けに代わる冬の季語をご存じではありませんか?

1997年11月4日
 
高校男子マラソンコースを試走しながら
   木立より 垣間見る空  なお高し
   路側帯  頼りに走る  秋の暮れ


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41歳の誕生日

 1月28日で41歳になった。人生の曲がり角を迎えたことになる。幼い頃の誕生日はお小遣いやプレゼントをもらえたので、とにかくうれしかったのを覚えている。

 また、年老いてからの誕生日は、「よくこの歳まで生きてこれたなあ」という感慨が生まれて、周囲からお祝いされれば、それはそれでおめでたいのかもしれない。

 それでは、中年の誕生日はどうであろうか。思うに、これほど中途半端なものはないような気がする。本人もこれくらいの年になると誕生日を迎えるのが一向におめでたくなく、むしろできれば年は取りたくない心境である。が、そうかと言ってまったく無視されるとおもしろくないところもあるだろう。したがって、周囲の者の気の遣いようは誠にもってたいへんなのである。

 そこで思うのであるが、中年(私は、自分が年を取ったことを素直に喜べないうちを中年と定義している。)の誕生日は「自分がこの世に生を授かったことを祝ってもらう日」であると考えずに(むろん幼い頃はそれでもいいのであるが)、「この世に自分を生んでくれた両親に感謝する日」と考えてはどうだろう。そして、感謝の気持ちを伝えてみては。

 今は離れて暮らしているので、わたしは誕生日に、母親に電話した。
 「今日、誕生日やったろ。僕の。・・・無事に41歳になったけん。・・・ありがとう。ん、いや、それだけ・・・。じゃあ。」
 これが、精一杯だった。

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愛媛マラソン ’97

 本当に、結果オーライのマラソンだった。もし完走できなくても仕方のない状態だったので、正直言って今回は愛媛マラソンでの自己記録を更新できたことよりも、最後まで走り通せたことの喜びの方が大きい。もう二度とこんな不安な精神状態でマラソンに臨むことはごめんである。

 今年は、毎年出場することにしている11月末の小豆島マラソンに出なかったため、体を作るのが大幅に遅れてしまった。また、気持ちの緩みもあったのか12 月になってもほとんど練習らしい練習をしなかった。本格的な練習を始めたのが、年の瀬も押し迫った12月29日。冬休み中にロング(30kmと25km)を2本こなした他は、松山市総合公園の山道を5往復したくらいであった。愛媛マラソンが近づくにつれて気は焦るのだがなぜか体が動かなかった。いや、実際は気持ちが逃げていたから、体が動かなかったと言うべきであろう。手元にあるマラソン日誌を読み返してみると、仕事を言い訳にした走行距離0の日が何日も続いている。練習が単発的で、継続的な走りができていない。一週間の走行距離が50kmにも満たない。(ちなみに、今年に入ってからの週間走行距離は、60km,26km,38km,45km,27km,27kmとなっている。)

 1月半ば頃だったと思うが、「記録は狙わず、完走をめざそう」と気持ちを切り替えた。この練習量ならば止むを得ない決断だった。ただ、今考えてみると、無理な走り込みをしていなかった分、例年になく足腰の故障もなく、体調は良かった。

 実際、走り始めるとスムーズに足が前に出て、ペースが上がる。「完走、完走」と自分に言い聞かせスピードを抑えながら走った。前半は、4'30”/kmのペースを守って走ったが、それでもややオーバーペース気味で、20kmを1゜27'で通過した。

 30kmまで慎重に足を運んだのだが、いつもの壁が来ない。ひょっとしたらこのまま走りきれるかもという思いと、後半は5'/kmのペースを維持しなければ必ずや35km前後で見舞われるしっぺ返しを受けるという不安との板挟みで迷いながらのランを続けていた。

 しかし、35kmを過ぎて、残り7kmを4'30/kmで刻めば3時間10分を切れると分かったときに、「途中でつぶれてもいいからギャンブルにでよう」と決心した。徐々にペースを上げ、足がつりそうになると少しペースダウンをして様子をみ、しばらくしてまた、ペースアップを図る。この繰り返しであったが、精神的に一度も切れることがなく、なんとか最後までもちこたえたのが大きかっった。やはり、前半は押さえ気味に走り、その時のコンディションを見て後半に勝負をかけるのが賢明な走り方なのだろう。記録を狙うとどうしても前半から勝負をかけねばならないので途中でつぶれるのは仕方のないことだとあきらめていたのだが、今回の走りと記録で少し走り方が分かった気がする。

 決して、マラソンを甘く見ているわけではない。これまでにも何度となくきつい洗礼を受けてきたからそのことは十分分かっているつもりだ。 今回は、これまで10回ほどのマラソンを苦しみながらもなんとか完走してきたご褒美として、 マラソンの神様が最後まで自分のイメージどおりの走りをさせてくれたと思っている。 次はこうはいかないのも承知しているつもりだ。ただ今は、走ることは忘れてテニスやスキーといった他のスポーツに汗を流したり、 何冊か買いおいてある辻邦生の本などをゆっくり読みたい。こんなことに喜びを感じるのもやはりマラソンのおかげかもしれない。

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私の愛媛マラソン

 愛媛マラソンを走る楽しみの一つに、沿道の思わぬ人から声を掛けていただくということがある。まったく見知らぬ人から激励の声を掛けていただくこともしばしばあるし、ある時は、職場の同僚やランニング仲間から、また、ある時には教え子から。そして、懐かしい人から。

 2年前からだと思うが、出合大橋の手前にある折り返し地点を過ぎてすぐ、「まさきちゃーん」とひときわ大きな声援を送ってくれる女性に気づいた。手を振って応えはしたものの、走りながらその女性の名前を思い出そうとしたのだがどうしても思い出せない。40になった中年男を「ちゃん」付けで呼ぶのである。幼友達か、身内の人間であろうが、どうも身内には心当たりがない。あれこれ思案していると、そばにいた母がふと、「サカモト先生じゃないの?」と叫んだ。 
 「サカモト先生?」とその名前を口に出してみて、ようやく思い出した。
 「あっ!保育園の、あのサカモト先生?」

 「そうそう、そうじゃわい。間違いない、あの辺に住んでるはず。」と私以上にうれしそうな母。私が保育園に通っていた頃の先生だから、かなりの御年配であるはずだがあまりに若々しかったので一瞬まさかとは思ったが、確かにあの声と顔は先生だ。もし、私に初恋と呼べるものがあるとしたなら、おそらく保育園時代の坂本先生への淡い憧れがそうだったに違いない。 

 その先生に2月の寒空の下、沿道から声援を送っていただける。これだけでも私には、愛媛マラソンを走り続ける意味がある。

 (実は、この文は、今年の1月12日の愛媛新聞「門」欄に掲載された。誰にも知らせてはいなかったのだが、母親から「坂本先生が新聞を見て、とても感激して電話で1時間以上も昔話に花を咲かせたんよ。」と電話があった。ふとした気まぐれで投稿した一文だったが、それでも「坂本先生が読んでくれていたらなあ」と思っていたから、喜ばれていたのを聞いて、少しは恩返しできたかなあとやはりうれしい。

 それにしても、当の坂本先生以上に母親がうれしそうだったので、親孝行になったかなとこれもまたうれしい。 一石二鳥ならぬ、一文二孝とでも言うのだろうか。)


Post Script:  As a matter of fact, this essay was taken up on Ehime newspaper, Janauary 12,1997. This is the original essay, so you will see a little differnce between the two.


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