労研饅頭に就て

倉敷労働科学研究所長
医学博士 暉峻 義等

1.労研饅頭の由来

 倉敷労働科学研究所で造り出した饅頭は、もともと満州人が主食としている饅頭(まんとう)からヒントを得たものである。私の二回に渉る満州への旅で、いろいろとその製法に就て学び、これを研究所で造って見たが、どうしても出来がよくない。それで意を決して大連から饅頭製造に慣れた林樹宝君を研究所に呼びよせて、本格的な製造研究に進んだのであった。

 満州人の常食としているもとのままの製法や形では日本人の嗜好や趣味に適しない、林君が着任してから、いろいろと製法や技術上に苦心した結果、その味や形に於て吾々日本人に親しみのあるものとなるまでには相当の時日を要したのであるが、遂に「これならば」、と思われる吾々の饅頭が出来上るに至った。




2.労研饅頭の主食代用品としての栄養
  価値

 主食代用品としての「労研饅頭」と、各種主食並に主食代用品との間の各食素含有量の比較は左表の如くである、「パン」とほとんど相似ているのは、その材料を一つにするためであること勿論である。またこの分析表に於て「パン」及び「労研饅頭」が主食品並に主食代用品に比して優秀なる結果を示すのは、勿論、食物そのものの組成にもよるが、一つには食物中の水分含有量の差異に基くものである。


昭和6年10月 私立松山夜学校
労研饅頭 製造工場と夜学生
創業当時の製造風景

労研饅頭(ろうけんまんとう)

―愛媛県百科大辞典より―

 「夜学生に学資を…」と、松山でつくりはじめた饅頭。本県では昭和六年十月に、松山夜学校奨学会ではじめて製造販売した。
 同奨学会では、向学心に燃える夜学生に学資を与える事業を模索中、たまたま伝道のため松山に来た倉敷教会牧師田崎健作から示唆を受け、これをとり入れることにした。
 当時の倉敷労働科学研究所長 暉峻義等(てるおかぎとう)が、日本の食糧問題解決のため、中国下層労働者の主食である饅頭(まんとう)を、日本人向きに改良、「労研饅頭」と命名し、既に京阪神において売り出されていたものである。
 同奨学会では、退役軍人で熱心なクリスチャンである数学教師 竹内成一を責任者に選び、村瀬宝一(のちの六時屋タルト社長)を倉敷に派遣して製法を学ばせ、その酵母菌を譲り受けて持ち帰り、さらに中国人の林樹宝を招いて製造技術を学んだ。
 当初、一食分四個五銭。安価で栄養価が高く好評を博し、松山市内諸中等学校の売店、歩兵第二二連隊の酒保にも販路が開かれるようになった。のち、この事業は竹内の個人経営に移るが、今も素朴な伝統の味を伝えている。

関岡 武太郎 執筆
 

昭和12年頃 労研饅頭 配達風景
現在の勝山町本店場所
昭和12年元旦
竹内の家族と従業員




手作りで素朴なふるさとの味 松山に労研饅頭あり

―松山の老舗(松山百店会発行)より―

 「伊予の国にはいろいろ菓子があるが、僕の好物はこの労研饅頭。これまた旨い粗食である。」
 これは、永六輔氏が自著『どこかで誰かと』の中で述べた一文である。また、たけうちが発行した60周年記念誌の巻頭に、地元出身の放送作家である早坂暁氏もこのように寄せている。
 「…あの時の、懐かしい美味しさは今も変わっていない。東京の連中に食べさせると、例外なく『ああ懐かしい!こういうのを食べたかった』という。…」
 やわらかくも甘さひかえめ、見るからに手作りを思わせるいでたち。労研饅頭は、松山ではお年寄りから子供まで知っている食べ物であり、その郷愁誘う味わいは人々の舌と精神を豊かにしてくれる栄養を持っている。

  向学心に燃える夜学生の学資のために

 労研饅頭は、より多くの青年に教育を受ける機会を与えようと、退役軍人で敬虔なクリスチャンである一人の数学教師、竹内成一氏によって作り始めたものである。
 昭和6年、当時の私立松山夜学校(現在の私立城南高等学校)では、向学心に燃えながら不況で就職できない夜学生に学資を与えるための事業を模索していた。そこに伝道のため来松していた倉敷教会の田崎健作牧師から、倉敷労働科学研究所長である暉峻義等博士が中国労働者の主食である饅頭(まんとう)を日本人向けに改良して、京阪神で売り出していることを聞きつけた。早速松山夜学校では奨学会を結成。竹内成一氏が責任者となり、村瀬宝一氏(のちの六時屋社長)を倉敷に派遣して饅頭の製造技術を習得させ、酵母菌を譲り受けて持ち帰った。こうして向学心に燃える若き学徒9名と共に労研饅頭は松山で初声をあげてのである。
 当初、黒大豆入り4個5銭。安価で栄養価が高く好評を博し、松山市内の各中等学校の売店、歩兵第二十二連隊の酒保にも販路が開かれるようになった。

  労研饅頭の命の酵母菌戦時中も保存して守る

 この労研饅頭が竹内商店として個人事業に転じたのは昭和10年。戦時中、小麦粉は統制品で入手は困難となり、18年にはとうとう製造休止に追い込まれる。しかし、創業者の竹内成一氏は、戦時中も労研饅頭の命である酵母菌を、ずっと保存し続けていた。この酵母菌こそが、ふっくらと赤児の肌のように柔らかく、口に含むとほのかな甘みを授けてくれる労研饅頭の身上なのである。
 この酵母菌によって終戦後の昭和20年、松山空襲で焼け残った勝山町の店で労研饅頭は再開。甘納豆の製造も加え、人気はよみがえっていく。
戦後の復活著しい勢いで、店は繁盛。27年には大街道にも支店を出すほどになり、”松山に労研あり”を定着せしめるのである。

  心のふるさとになる古き良きものとして

 しかし、事業に波はつきもの。亡き成一氏の後、店を受け継いだ、三男の眞氏(現社長)にとって、厳しく辛い時期がやってくる。戦後の高度成長に伴って世の中は急激な欧米化傾向にあった。昭和30年代後半には、パンケーキなどの洋菓子に押され、労研饅頭の売れ行きは悪くなり途絶えそうになった事もあった。そのような状況の中で、眞氏と郁恵夫人は「労研饅頭は、何十年も買って下さるお客様がいる。夜学生の味は守っていかなくては」と、いろいろ試行錯誤しながら作り続けてきた。
 その後、昭和50年代に入ると今度は自然食が見直され、保存料を使わず甘みを抑えた労研饅頭は再び脚光を浴びるようになり、よく売れ出したのである。むしろ昔にこだわり続ける姿は、その素朴な味わいと相まって、たびたびマスコミにも登場。全国各地から届く熱きファンの声。55年には本店の店舗を新築、57年には大街道支店も改装。特に大街道はアーケードの完成もあって、労研饅頭は飛ぶように売れたと言う。
 平成3年11月には社長夫婦の手によって”労研饅頭と共に60年”の記念誌を発行。その中で竹内眞社長は次のように述べている。
 「…現在は創業当時とはすっかり世の中も変わり、また人々の価値観も多様で物もあふれておりますが、この時になって、心のふるさとになる古き良きものを残そうとする気運があるのは喜ばしいことです…」
 地元の人にこよなく愛されるものへのこだわりと誇りは、市民が育んだたけうちのポリシーのようだ。