市役所前の交差点の堀端に赤い鳥居・幟のたっている場所に「八股榎大明神」がある。名を「お袖」という狸の話。
昔、ここにあった大きな榎の木=に住んでいた「お袖」は、昔は勝山(松山城)の森ん中に住んでいたそうで、西暦1830年(江戸時代後期)頃に、この地へ移り住んできたという。 この榎は、松山城の初代藩主が築城(1602年頃)の際、堀端近くに植栽したものと言われ市役所前の南北の通りは、「榎町通り」とも呼ばれ、榎が多数植わっていたのでこのように呼ばれていた。
「お袖」は榎の木の上から通行人を見るのが好きだった。そんな「お袖」は榎町で道祖神となりすまし行き交う人々から尊敬されるようになり、ボツボツと神通力を発揮するようになり、街の流行神として、商売繁昌、病気平癒、縁談、願い事など一切を引き受けて賽客を集め、「狸祠」として名物になっていた。 こんな「お袖」にも、長年棲み慣れた大榎から追い払われる時が来た。
昭和11年の春、伊予鉄道の市内電車の複線化で堀の一部が埋め立てられることになり、「お袖」の大榎も切り倒すこととなった。ところが、切り倒しにかかると工事従事者が次々と病気・怪我をし、これは「お袖」の祟りに違いないということになって、誰も仕事をしないようになった。この有り様を見ていた堀之内の憲兵隊(昔は堀之内に連隊営所があった)が、「何を馬鹿げたこと言いよるんぞ。狸の祟りなんぞあるもんかい。」と仕事に取り掛かった。ところが兵隊も同じ様に腹痛に見舞われ、手を引いてしまった。伊予鉄の計画中止の話も持ち上がったが、熱心な狸信者が石井の天山にある喜福寺への榎移転計画を実行した。念には念を入れてお祀りをしたので、祟りもなく移転することができたらしいが、古木の榎は枯死したらしまった。
棲家を失ったお袖狸は致し方なく、大井駅(今の大西駅)に宿替えし、お袖狸明神菩薩として明堂菩薩を祭る小祠に現れ、お参りすれば病気の者はその疾患部にお灸の跡を霊授してくれるというので多くの参詣人を増加した。しかしこの明堂お袖景気も1年余りでパッタリと煙の如く消え失せたという。その後、石手川の堤防や六角堂にとお袖の棲家は変わり、巷の噂になったが、昭和22年頃から再び古巣の堀端に帰って来たという。今の棲家の榎は三代目だと言われている。
大正時代のこと、元松山市長で産婦人科医の安井雅一氏は、お袖狸にお産の世話をさせたという事も言い伝えられている。
「八股榎大明神」は、安産・縁結び・商売繁盛・家内安全・学業成就・交通安全など多くの願いを叶えるという。 |